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「神の存在を問う:レトリックと信念の間」

ヤハウェやアラーなどの聖典の神、創造者などと呼ばれる人格神の存在の証明は可能なのか?次に挙げる文章はその存在証明と言えるのか?証明どころか単なるレトリックかペテンではないのか?

 「幼児に砂の家は作れても本物の家は建造できない。なぜなら砂の家を作るよりもより高度な知性と技能が必要とされるから。

では最高の科学者でも葉っぱ1枚すら作れないのは何故なのか?

なぜなら生命体は家よりもはるかに精巧複雑で、それを作るには現在の人知を超えた知性と技術が必要だから。 あなたが今住んでいる家はハリケーンが吹き荒れた後に偶然が重なって建てられた、と誰かが言ったらあなたは信じますか?

もちろん信じないでしょう。

では生命が偶然に生じたという主張はどうでしょうか?

これは家が偶然建ったという妄言以上に突拍子もない話です。家でさえ偶然には生じ得ないのであれば、家よりもはるかに複雑精巧な生命体が偶然に生じたはずがありません!

家の存在が建築者の存在を証明するように、生命の存在が創造者の存在を証明しています。」

上記の文章はあるキリスト教団体の書籍やウェブページに何十年も前から記載されていた文章だが、これは本当に神の存在証明と言えるのか?

もし仮に、全知全能の神が存在していたとして、その神が猿や恐竜やゴキブリや蛇や蠍や木の葉をデザインしたとして、さらには雷や台風などの気象現象も神の創造だと仮定して、人間のデザインした家の方が神の創造物よりも複雑精巧ではないのか?

人間のデザインした家は、ゴキブリやムカデや蚊などの害虫や猿や猪や鹿などの害獣や、雷や台風などの気象現象に対処する為に、人間が複雑精巧に思考を巡らせつつ建築されているのだから。
神の存在を証明したいのであれば、それこそ瓦礫の山だったものがハリケーンの後で一夜にして立派な家に変身しているのを見せるしかないだろう。

蜜蜂がいて初めて美味しいハチミツが出来る。葉っぱの生い茂る丈夫な樹木があって初めて柱が出来て家を建てることが可能となる。蜜蜂や葉っぱよりもハチミツや家の方がよっぽど複雑精巧だ。

砂漠のような何もないところで家を建てるには、木材などの建築資材が必要だ。葉っぱよりも柱は複雑精巧だ。葉っぱが先にあり柱や家が後にある。家が先にあり葉っぱが後に出来るということはない。だが彼らの宗教では、逆に家が先にあり葉っぱが後に出来ると言っているようなものなのだ。

イースター島のような絶海の孤島で家やモアイ像を作るには、木が生えて森ができてそこに人間が流れ着いて道具を作ってと、長い時間と何段階もの苦難を乗り越えてからでなくては不可能だ。一部の宗教の信者は自然界にある葉っぱや昆虫のデザインの中に、瓦礫の山の中から一晩で出来た立派な家を連想してしまうのだろうか。そこには悠久の時の流れや自然選択の発想が抜け落ちている。

旧約聖書の創世記にある神による創造説は、大腸菌よりも人間が先に出来たと言っているようなものだ。

人間には大腸菌のような生命体を作ることは出来ない。大腸菌が複雑精巧に出来ているからだ。だが人間そのものが大腸菌などのたくさんの菌の寄せ集めでもあり、したがって人間は大腸菌よりも遥かに複雑精巧な生命体だ。

そんな複雑精巧な生命体である人間が作った製造物は、例えそれが小さな注射針や便座カバーでも大腸菌よりも遥かに複雑精巧だ。よって人間が大腸菌のような生命体を作れなくても、そのことは神の存在証明にはならない。

仮に今後、人間が大腸菌をアミノ酸などから創造出来るようになったとしても、それは自然界の大腸菌とは別物なので自然界の大腸菌よりも更に複雑精巧な大腸菌という生命体を作った事になり、神の存在証明にはならない。

もしヤハウェやアラーなどの万物を創造出来る全知全能の神が存在しているとしても、何もない状態から腕時計を作る場合、或いはまた何もない状態から時計職人を作る場合、腕時計と時計職人とではどちらを作るのがより難しいと考えられているのか?或いはチーズを作るのと乳牛を作るのとでは、どちらがより難しくより複雑なのか?花は神により美しくデザインされたものと仮定して、花時計を作るのと花そのものを作るのと、どちらがより難しく複雑であると考えられているのか?コンピューターと人間の脳を作るのとでは、どちらが難しいのか?英国のウィリアム・ペイリー牧師が、「時計をデザインするには時計職人が必要なように、自然のデザインにも神という偉大な職人がいた筈だ」と、1802年に出版した『自然神学』という本の中でそう書いている。ペイリー牧師の文章は英国で教科書として長く使われ続け、現在でもキリスト教の多くの書籍に引用されている。

チーズを作るならば先ずは乳牛を作らなくてはならない。時計を作るならば先ずは時計職人を作らなくてはならない。花時計もそうだ。コンピューターを作るならば先ずは優秀な人間の脳を作らなくてはならない。したがってチーズや時計やコンピューターを作る方が職人を創造するよりもはるかに難しい。

「人間には花や昆虫や鳥の羽根をデザインする事は出来ない。ネジや針などの時計の部品を砂漠にばら撒いておけば勝手に時計が出来ていると考えるのが進化論だ」という一部の宗教の信者の進化論への反論は論理的に完全に間違っている。

「どこかに神様が作った透明人間のチーズ職人や時計職人がいるのかどうかは誰にも分からないし、証明されていない」と主張すれば、それは不可知論者の立場の意見だ。

「神様が作った透明なキリストや妖精や小人が背中に貼り付いていていつも見張られている」と主張する人がいてもおかしくはない。それを信じる人がいないとも限らない。世の中には様々な宗教や脳機能障害が存在しているのだから。

神は無から有を創造する。あなたの背中には神が創造した透明人間がいつも貼り付いていて、あなたの事を見守っていたりして?

旧約聖書の創世記によると「神は自分の姿に似せて人間を創造した」

のだとか。

だとするとヤハウェやアラーは、ネアンデルタール人やホモ・サピエンスよりも、ホモ・ハビリスに似ていると解釈するのが妥当なのか?

それとも石器時代と殆ど変わらない狩猟採集生活を続けてきた、オーストラリアのアボリジニーに似ていると考えるのがより妥当なのか?

アダムとエバはエデンの園でアボリジニーのような生活をしていたと考えることは決して不自然ではなく、むしろそう考える方が自然で無理がなく素直な発想だ。良識的常識的に判断すれば、その様な認識や解釈に至るのが必然ではないだろうか。

「花が美しく咲いているのは、人を喜ばせる為に神がそのように花をつくられたから」

とあるキリスト教の聖職者が言っていた。

人類が生まれる何億年も前から、恐竜の時代よりも前からずっと花は咲いていたのに、どうしてそんな下らない嘘を吐けるのか?子供騙しのペテン、独り善がりな罪深い作文ではないのか?彼らこそがサタンの手下ではないのか?

ゴキブリの視点から見れば人間は神のような存在だ。しかし彼らは逆にゴキブリの中に神を見てしまっていると言える。

神は虻を追い払うために牛の尻尾をこしらえたのか?ならば最初から虻も尻尾もなければ良い。

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