『良く晴れた日の屋上の兵士達』
『良く晴れた日の屋上の兵士達』
新緑が目にも鮮やかな良く晴れた日の昼休みだった。食堂で昼食を済ませたセーラは、電子マリファナで一服しようと官舎の屋上まで登って来た。近くには大きな河がゆったりと静かに流れていて、余程天候が悪くなければ必ず何人かの釣り人を見ることが出来る。鮭や鱒と人間との格闘シーンを一人で眺めている時間に、セーラは何度か心を和ませられた。
セーラがドアを開けると屋上の柵のそばには初年兵の女性三人がいて、そのうちの一人が屋上から飛び降りようとしていた。手にナイフを持った初年兵が、
「死んでやる」
と泣きながら喚いていた。他の二人はやや離れておどおどしながら「早まるな」だとか「 落ち着け」だとか声を掛けていた。
「騒がしいなあ。飛びたいなら黙って飛べば良いのに」とセーラは思ったのだが、見てしまったものは仕方がない。セーラは三人の間に割って入り、努めて平静にこう言った。
「この高さでは死ねないね」
「そんなの関係ないわよ。飛んでやる」ナイフを持った小柄な初年兵が語気を荒げた。
「ここは四階だから未遂で終わる。後遺症で苦しむ事になる。今日は止めた方がいい。七階以上の建物を探すことね」セーラは言った。
「じゃあ、こうしてやる」その初年兵はナイフの切先を自分の喉元に向けた。
「そんなことをしたら掃除が大変だし、私の休憩時間がなくなる。それに切るならそこじゃない。頸動脈を切らないと」
そう言ってセーラはナイフに手を伸ばそうとした。
「近寄らないで」彼女はナイフの先をセーラに向かってかざした。手元が震えていた。
「喉は良くない。血が喉に詰まってすごく苦しい。私がちゃんと楽なように切ってあげる。大丈夫。元看護師だし慣れてるから」
事務的な落ち着いた口調でそう言ってから、セーラは素早くそのナイフを初年兵の手から奪い取ってしまっていた。初年兵はあまり抵抗しなかった。出来なかった。呼吸が荒く過呼吸状態になっていたから。それにセーラは軍隊でマーシャルアーツの訓練も受けている。俊敏さは折り紙付きで、半病人状態の初年兵の比ではなかった。
「落ち着いて。直ぐに終わるから。目を瞑ってて」
初年兵は目を瞑らなかったが、セーラは静かにナイフを彼女の耳の下辺りに持っていった。彼女の呼吸は更に激しくなっていき、涙も鼻水も垂れ流しになっていた。
「この辺に頸動脈がある」
そう言うとセーラは彼女の目には見えないようにナイフを素早く反転させ、ナイフの峯の方を初年兵の首の横に当ててから、サッと一直線に引いた。初年兵が首にヒンヤリとした硬い鉄の冷たさを感じた次の瞬間には、彼女の股の間からは生温い透明な液体が流れ出し、白眼をむいて仰向けになって倒れてしまっていた。完全に倒れ落ちる直前に、セーラは彼女の頭が床に打ち付けられないよう、彼女の首を支えてあげた。口を開けて気道が確保されている事も確認した。
「後はヨロシクね」
後ろで見ていた二人のうちの一人にナイフを預けると、セーラはサッサとそこから退散した。これ以上面倒臭い事に巻き込まれるのは御免だった。
午後からのオペレーション中にお呼び出しがかかり、セーラは屋上での事のあらましを上官に述べた。飛び降りようとした初年兵は、病院に送られて治療を受ける事になったと聞かされた。
「あんな兵士は適正検査で最初から跳ねておけば良かったのではないですか?」セーラは言った。
「あいにく成り手不足でね。予算との兼ね合いもある。あんな兵士でも頭数を揃えておいた方が都合がいいんだ。政治だな」上官がモニター画面の向こうからくぐもった声で答えた。
「お陰で休憩時間が潰れました。早退させてもらっても構いませんか?」
「あまり感情的になってはいかんな。まあいいだろう。今日は帰って少し休むといい」
感情的と言われた事には不快感を覚えたが、良い精神状態でない事はセーラにも自覚があった。真っ直ぐ帰宅して休む事にした。
「あの初年兵も安楽死を選択するのだろうか?」とセーラはボンヤリ考えていた。
この国に安楽死制度が導入されたのは、あの初年兵がまだ子供の頃の事だから、決して新しくはないが古すぎる訳でもない。年々制度も設備も整えられて来ていて、国民からもウケも良い。15歳の生理痛や夢精の煩わしさに悩む健康的な若者から、寝たきりで自分の下の世話も儘ならない80歳を越えた老人まで、毎日国の何処かで誰かが安楽死している。移植用の臓器も煩雑な事務手続きを経ずとも、よりスムーズに提供されるようになって来ている。
「国民一人一人の命や臓器は国にとっての大切な財産であるから、決して粗末に扱われてはならない」
と軍の教育実習では必ず習う事になっている。企業の教育実習でもそれは変わらないし、この国では小学生の頃から安楽死制度について学ばされる。だがあの初年兵のように精神をバグったイレギュラーな人間がごく稀に産まれて来てしまうのも事実だし、それはどうにもならない事だ。
セーラは自分は絶対に安楽死を選択しないと、何年も前から心に決めている。しかしそう思う一方で、人類が自分一人を残して全滅しまっているとか、そんな地球の未来をもしばしば想像したりするのだった。人類滅亡後の広い地球の上で、たった一人で毎日有り余る程の缶詰を食べ続け、粉末の青汁やプロテイン飲料やスープを飲み続け、熟成の進んだ特上の酒を味わい、読書や音楽をのんびりと楽しみ尽くしている自分の未来を思い描いたりしているのだったが、そう思っている事はセーラだけの秘密だった。
「死ぬ時になれば黙って死ぬ。だからその時まではちゃんと生きさせて欲しい」と彼女は心の中で願うのだった。
おしまい