見出し画像

エッセイ『合掌した手のどちらがどちらを押しているのか、神には理解できるのか?右なのか左なのか?:対話能力の向上と神の概念の創出』

宗教と信仰の性質

宗教とは自然の理に反すような超越的な存在を信じること。宗教とは四角い三角形の存在を自分が信じ、他人にもそれを信じ込ませようとすること。虚構を真実だと信じ込ませる行為や活動のこと。神を見たという者は、四角い三角形を見たと言っているようなもの。

しかし多くの信者は特段には何も考えていません。信仰に対しての熱心さから誤解をわざわざ広めているのではありません。タダ単に何も考えられないのです。
周囲に信頼の置ける人もいない不幸な生い立ちで、自分の身を守るために入信せざるを得なかったとか、そのせいで自分を守るどころか自分自身も周囲をも傷付けてしまっている人もいるのでしょう。

宗教は差別や偏見を助長してきました。宗教によってどれだけ多くの人々が差別や偏見によって誤解を受け、その犠牲となってきたことでしょう。

神の存在については、そもそも神についての概念規定が人により様々で、「これぞ神だ」というものがハッキリと示されているわけではありません。
それなのに神の存在証明についての議論が古今東西いつの時代でも何かとかまびすしいものです。

もしかしたら神とは「美味しい笑顔」のようなものなのかもしれません。今時、顔を食べて美味しいなどと言う者はバケモノに他なりません。私達の御先祖は飢饉の時には誰かの顔を食べて、「美味しい」などと言っていたのかもしれませんが。

神の存在と超自然的な存在の矛盾

神の存在証明をする前に、天使や天女の存在について考察してみるのはどうでしょうか?

キリスト教やイスラム教や仏教など様々な宗教において、天使や天女の存在が語られています。
ですが、天使や天女などは全くの想像上の産物です。
したがって、キリスト教やイスラム教や仏教など、宗教といつものは虚言や妄言の塊であると言えるでしょう。天使や天女が語られるそのような宗教を信奉していたイエスやムハンマドは、預言者や神の子では断じてありえないことになります。
空海や親鸞や池田大作など、仏教の多くの宗派の開祖や指導者も、根本から間違っていました。
よって、そのような宗教において語られる神など全く信用ができるものではありません。神について語った時点で、その者はどこか如何わしい者ということになるでしょう。

特定の宗教の限界と神話と信仰の矛盾

大日如来や阿弥陀如来は仏教において偉大な存在であり、日本や中国などのアジア諸国の歴史や文化に大きな影響を与えてきました。ですが、欧米やアフリカ諸国の歴史や文化に決定的な影響を与えてきたわけではありません。
したがって、如来は仏教において語られるような宇宙的な広がりを持つ壮大な実存在ではなく、単なる想像の産物に過ぎないということになります。

同じように、ヤハウェやアッラーも想像の産物に過ぎません。
聖書やコーランの聖典の神は宇宙の誕生にも関わるような壮大な広がりを持った実存在とされていますが、日本や中国などのアジア諸国の歴史や文化において、古代から決定的な影響を与えてきたわけではありません。
宇宙や生命の誕生にも関わったとされる偉大な神ですが、そもそも全人類の歴史や文化に貢献出来ていない時点で、そんな神は壮大でも偉大でもないと言えるでしょう。ギリシャ哲学やユークリッド幾何学の人類への貢献度よりも遥かに劣っているのではないでしょうか。
聖書やコーランに書かれている内容は虚構に過ぎないということになります。

キリスト教信者の中には「イエスが十字架に磔にされて昇天したからこそ、今の私やあなたがあるのです」などと言う人がいます。ですが、そんなことには全く根拠などありません。宗教は科学ではなく単なる文芸に過ぎません。
マルクス経済学が科学ではなく文芸に過ぎないのと同じです。

「奈良の大仏を造ったから今の日本が滅びないでいる」と言うことも出来るのです。どうとでも言えるのです。
ムスリムが毎日お祈りを欠かさないからだ、アメリカの先住民が太陽に毎日祈りを捧げているからだ、アンコール遺跡を造ったからだ、エジプトや中米のピラミッドのお陰だ、ヒンズー教のお祭りのお陰だ、などなどどうとでも言えるのですが、どこにも根拠がないのです。

もしもノアの大洪水や方舟の話が史実だったとしたならば、ギリシャ神話やヒンズーの神話などは創作されなかったことでしょう。何故ならば、聖書によれば人類は大洪水によってノアの一族だけが生き残ったのだから。古代ギリシャ人もインド人も、ノアの末裔ということになるのだから。
聖書によると大洪水の後にノアの一族だけが生き延びて他の人類は滅亡したことになっています。ならば日本人もノアの末裔ということになりますが、ヤハウェにとって日本人は忘れ去られた存在だったということになってしまいます。もしも聖書が創作ではなく史実であったならば、日本など元々どうでもよい取るに足りない存在だったということになります。こんな無礼で無責任な話はありません。

合掌している左手と右手、どちらがどちらを押しているか神に分かるのでしょうか?

人間は細菌などの様々な生物の集合体であって、自分の脳だけで物事を決めているわけではありません。
イエスの時代に人間の体内の寄生虫のことなど殆ど考えられていなかったのです。
お腹が痛いから病院に行こうと決めたのは、果たしてあなたの脳なのでしょうか?それとも腸内細菌がそうさせたのでしょうか?
顔を掻いたのはあなたの脳の指示なのでしょうか?それとも顔ダニがそうさせたのでしょうか?それとも両方なのでしょうか?
「神は人間をいつも見守っていて、人間の行動には全てに意味がある」と主張する人がいますが、それを言うのであれば全ての大腸菌やダニなどの微生物をも神が見守っていなくては辻褄が合わないのではないでしょうか。

イエスの時代にテレビなどありませんでしたが、テレビでラブシーンを見る者は姦淫しているのと同じなのでしょうか?
聖書には、「女を淫らな思いで見る者は姦淫しているのと同じだ」と書いてありますが、決して同じではないでしょう。

下半身の勃起は自分の脳が決めたことなのでしょうか?それとも卑猥な動画を撮影した人がそうさせたのでしょうか?
動画の製作者はユーザーの存在を意識していますし、ユーザーは製作者の存在を意識しています。

生物と神の視点

「動物園のチンパンジーは人間に進化などしない。だから進化論など間違いだ」などと、未だにキリスト教系の冊子に書いてあったりします。そうして何も知らない子供に出鱈目を吹聴しています。キリスト教原理主義者にそのような主張をする者が多く見受けられます。

原理主義者はノアの方舟の話を史実だと主張します。大洪水によって唯一生き延びたノアの一族から枝分かれして、旧石器人やアボリジニーや縄文人になっていったのだと主張します。ゾウガメもミドリガメも、ノアの大洪水の後で原種から枝分かれしたのだと主張します。
もしも彼らのそうした主張が正しくて、ノアの方舟に乗せた亀の原種からゾウガメやミドリガメが枝分かれしていったとするのであれば、ゾウガメとミドリガメを交配させて種を残せることになりはしないでしょうか。

現世の犬種はハイイロ狼から枝分かれして増えていきました。ですが、ドーベルマンとチワワが交配して種を残すことはありません。ゴリラと人間が交配して種を残すこともです。
ゴリラと人間とは共通の祖先を持っていますが、ゴリラが進化して人間になったわけではありません。
チワワと狼も共通の祖先を持っていますが、チワワが進化すれば狼になれるわけでもないのです。

イエスという人物は創世記という虚構に満ちた書物の内容を信奉していたわけですから、その時点でイエスは「神の子ではなかった」ということになります。
そして、そのようなイエスを救世主として崇め奉ることは、ペテン師の片棒を担いでいるのと同じことになってしまいます。イエスという真性マゾのお仲間ということになります。

確かに生物進化については、ダーウィニズムの自然選択や突然変異だけでは説明がつかないことがたくさんあります。爬虫類から哺乳類への大進化などは、特に謎に満ちています。
ですが、だからと言って「進化論は間違い」などと言うのは暴論です。「動物園の猿は人間に進化しない。それは進化論が間違いであることの証明だ」などと原理主義者が主張し、何も知らない大勢の子供たちを毒しています。
進化論では「人類と猿は共通の祖先を持っている」と考えますが、「猿が進化すると人間になる」と言っているわけではないのです。そうしたとても基本的なことを理解しないで、彼らは周囲に石を投げ続けているのです。
そうした無理解が生じてしまうのは、宗教団体の一つの害悪と言えるでしょう。

対話能力の向上と神の概念の創出

「神とは何か?」これは古今東西の人々が探求してきたテーマです。神という存在は、宗教や哲学において不可欠な要素とされてきましたが、それは人類が意識や対話能力を急速に発達させた結果として必然的に生じてしまった副産物、或いは脳の癖のようなものなのかもしれません。

人と人とが対話する際、表面上の建前だけでなくお互いの本音を理解し合うことが重要です。この時、相手の心の中に「もう一人の自分」、いわゆる「オルターエゴ」を想定し、そのオルターエゴが自分の言葉をどう受け止めるかまで考察することで会話が成り立ちます。さらに、このオルターエゴの関係が連鎖することで、すべての人の心を超えて理解している「超オルターエゴ」のような存在が脳内に想定されるようになります。そしてこの連鎖が際限なく続いていく時、私たちは自然と、全てを超越して見守る「神」のような概念に到達するのです。
対話の際、相手の建前だけではなく本音の部分を想像しながらでないと会話がチグハグになってしまいます。対話の相手の思考の中身には建前と本音とがあるように、自分の側にも建前と本音があり、相手のオルターエゴが自分の建前と本音を疑り、自分のオルターエゴが相手の建前と本音を疑り、お互いが相手のオルターエゴを必然的に想定し合って対話が成り立ちます。そしてお互いのオルターエゴを包括的に把握している超オルターエゴのようなものを想定し、その超オルターエゴの存在をも包括的に把握している超越的な何かを想定し、そうして限りなく続いていきます。
複数の人との対話においてもです。全ての話者のオルターエゴを包括的に把握している超オルターエゴのような概念を脳内で想定していなければ、対話は成り立たなくなります。そして私がそのような超オルターエゴを意識する時、更にその超オルターエゴのオルターエゴをも意識することになります。そうして限りなく続いていくので、どうしても神という概念が対話の副産物として創出されてしまうのです。

自然界との関わりと神の概念

私たちは動植物や自然の事象と向き合う際にも、同様の想定を行っています。例えば、山に登る際、山そのものだけでなく、背後に隠された超自然的な意志や、山、風、雨などのすべてを包み込む意思のようなものを脳内で想定しつつ山の頂上を目指して進んで行きます。山そのものだけではなしに山の後ろに隠された超自然の意思、山だけでなく風や雨などの意思、山風雨を超えた全ての事象を把握している意思、自分の意思が相手にも見られていることを意識すること、見られているという意識も見られているという意識、更にその上の意識、そうしてどこまでも限りなく続いていきます。
また、サーフィンで波に対峙する際、波の意思と自分の意思、その両方の意思を把握している意思、そうした計算を脳内で素早く計算していると、神という概念を想定しなくてはならなくなります。
土に種を蒔いて美しい花を咲かせたい時、種の意思だけでなく土や雨や太陽や風の意思に思いを巡らし、自分自身の意思を理解し、そうした全てを把握している超意思を想定し、超意思を想定している意思をも想定し、そうして限りなく続いていきます。
猫などの動物に対峙する際にも、対峙する猫そのものだけでなく、その猫の意識の上の部分を想定しなくてはなりません。つまり、飼い主を慕っているのか、それとも馬鹿にしているのかなどです。そして猫の方も飼い主の行動だけでなく心理をも見ているのです。自分の意識の上の部分を猫にも見られていることを想定し、そうしたお互いのオルターエゴを包括的に把握している超オルターエゴをも必然的に想定していることになります。
このように自然との関係性からも、神という存在が想起されるのです。生老病死や様々な競技や戦争や創作活動などの場面においてでも同じように想起されるのです。
脳内では複雑な計算処理が瞬時に行われますが、人間の平時の思考スピードでは追い付けません。しかし神という概念を用いれば、脳内の認識の遅れを便宜的に補うことができます。そうした際限のなさを神という概念に置き換えて、素早く処理しているのかもしれません。

必然的に想定せざるを得なかった神という概念


このように、神という概念は、人間が他者や自然と対話する中で必然的に生まれてくるものかもしれません。対話を続ける中で、お互いの背後に広がる無限の存在や意識を想定せざるを得ず、その結果、すべてを包括する超越的な存在としての「神」が脳内に形作られていくのです。
例えばこのエッセイのタイトルの意味を読者が考察する際においても、

『合掌した手のどちらがどちらを押しているのか、神には理解できるのか?右なのか左なのか?:対話能力の向上と神の概念の創出』

というタイトルそのものの意味と著者の意図を読者が汲み取ろうとすること、その著者も読者の反応を意識しているということ、著者が読者の反応を意識しているということを読者もまた意識しているということ、そうした読者の意識をも著者は意識しているということ、こうして際限なくどこまでも続いていくのです。そのような際限のなさが必然的に生じ、その際限のなさを認識することが人間には可能なので、神という概念を想定せざるを得なくなるです。

いいなと思ったら応援しよう!