『スキゾイドとスキゾフレニア 疑わしき精神医療』
巌男は中部圏の冬場は雪の深い山村で生まれ育った。
「俺んとこの携帯は、3キロくらいでも通じるぞ」
「俺んとこのはこの前やったら5キロくらいやったわ。やっぱこの辺は山が多いで駄目やな」
「そうやなぁ。あんま遠くまで飛ばんな。親戚んトコのでやったらもっと飛んだわ。この辺はやっぱ山ん中やでな」
中学の頃の休み時間、教室でそんな会話が飛んでいた。巌男は自分の机で図書館で借りて来たギリシャ神話の本を読みふけりながら、友達の会話に耳を傾けていた。
丁度、携帯電話が普及し始めたばかりの頃だった。巌男の家の電話はプッシュホンでさえなく、黒く飾り気のない昔ながらのダイヤル式の固定電話だった。家庭内には電話を買い換える雰囲気もなかった。
「みんなんトコは凄いなぁ。進んどるなぁ。金持ちやなぁ〜」
巌男は自分の親が酷く貧乏でけち臭く思えたものであった。母親は料理が下手で、目が悪いのか皿やコップには汚れが目立った。
父親はジャンボ宝クジを買うのが趣味だった。彼は買った宝クジを黄色の長財布に入れてそれを仏壇や神棚に置き、当選番号が発表されるまで毎日欠かさず拝んでいた。だが、仏壇や神棚や先祖の遺影はいつも埃や煤にまみれていたので、これでは死んでも当たるはずがないと思ったものだった。
トイレは汲み取り式だった。綺麗なはずもなかった。
クラスメートの話に自分の家庭が時代や世間からかなり取り残されている様に感じたものだったが、大人になってから良く良く考えてみると、彼らがが話題にしていたのは携帯電話の事ではなく、普通の家庭電話の子機の事に違いないのだった。しかも、子機で3キロも5キロも離れた場所からの通話など出来るはずもなく、彼等はお互いの見栄から嘘を言い合っていただけで、それを横で聞いていた巌男が真に受けて、下らない嫉妬心に駆り立てられたり劣等感に陥ったというだけの話なのだった。
その事をふと思い出すと、自分の生まれ育った環境のレベルの低さに今更ながらに腹立たしい思いがして来るのであった。
彼は高校卒業までを地元で過ごし、名古屋の大学に入学してからは部屋を借りて自炊した。自分で炊いた米は、田舎の母親が炊いた米よりも遥かに美味かった。
大学を卒業して東京の外資系企業でしばらく働いたが、30歳になるまでに転職しそれからは医療コンサルタントとして生計を立てて来た。
ある日、巌男は眠れなくて夜遅くまで本を読んでいた。『鬱を治したければ医者を疑え!』という本だ。その日は早目に酒を飲み過ぎていたのだ。酔いが夜中に覚めてしまい眠れなくなっていた。その日は日曜で仕事も休みだった。
本には多剤多量服用の危険性について書かれてあった。
巌男にはとても興味深い内容で、抗精神薬の売り上げ増加と自殺者数とは比例関係にあり、日本の自殺率が諸外国に比べて異様に高いのは、精神科で処方される薬の種類や量が必要以上に多く、税金の無駄遣いであるばかりか自殺者を増やす事に繋がっているという事が書かれてあった。
患者が病気を治そうと気分が落ち込んでいる中、本来ならば誰にも会いたくないにも関わらず、勇気を振り絞って病院に行った結果、そこで処方された薬を飲み過ぎてかえって病気を悪化させてしまい、挙げ句の果ては自殺してしまう人がいるという事は、巌男も薄々は感じていた事だったが想像以上に多いのだなという印象をその本からは受けた。薬漬けの患者を増やす事で病院も厚労省も製薬会社も潤うという従来の歪んだ医療制度の在り方に対し、問題提起をしている内容の本だった。
読後、巌男は久しぶりに故郷にいる旧友の長曾根にLINEメールを送ってみる事にした。深夜の2時を回っていたので、返信が直ぐに来る事を期待していない。朝起きた時に聞きたい事を忘れてしまっていてはもったいないと思ったのだ。
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こんばんは
今、精神医療の本を読んでて思ったのだが、君は今でも下剤は処方されているのかい?
飲まなくても薬を貰っているのかという意味で
メールを送ると部屋の電気を消して眠りについた。夢を見る事もなかった。
返信が来たのは翌朝の6時だった。
≫
おはよう。
処方されてます。
前に痔になってから、減らしてもらいましたが。
飲んでます。
巌男がLINEメールを送った長曾根は同郷の幼なじみで、彼は統合失調症を長年患っていた。薬は毎日服用しているという事だった。服用はもう15年近くになるのだろうか。3度の食事の後と夜寝る前に服用する。飲まないと不安になるのだそうだ。一時期に比べて精神的にかなり安定して症状も軽くなっている事は確かだが、メールでのやり取りではどことなく違和感があり、不快な感じや妙な不安を覚えるのは否めなかった。それは一体何故なのか、巌男にも上手く説明が付かないのだった。
とっくの昔に没交渉になっていてもおかしくない二人だったが、巌男は長曾根の中に自分と似たような気質を感じていて、それが喉に刺さった魚の骨のようにずっと違和感を抱いたままで、人生をスッと飲み込んだり咀嚼したりできないでいる。それが関係を続けている1つの要因なのかも知れないと、巌男は時々考えたりした。
>
多剤服用の危険性に関する本を読んでるのだが、
欧米では単剤か多くても3種類くらいなのに、
日本では処方される薬の量も種類もメチャクチャ多い
君は何種類で1日に何錠?
≫
単剤って何ですか?錠剤の?
僕は粉のものと、錠剤のものを、もらっているのですが。
「やっぱり単剤や多剤という言葉も知らないのだな」と巌男は思った。
「自分の病気や処方されてる薬についてネットなどで調べようとしないのだから、ラチがあかない。調べてはいるが自分に都合の良い情報しか頭に入らないのかもしれないな。長曾根にはそういうところがある」。巌男はそう思いながらやり取りを続けた。
>
単剤とは1種類ってことじゃないの?
君は下剤含めて3種類?
≫
錠剤は2種類で、1日2錠。
粉のは、4種類が一袋で1日3袋。
下剤含めて。
「ちょっとややこしいな。何種類飲んでいるかだけ聞きたかったのだが、余計な情報が」
>
下剤は頓服じゃないのか?
≫
下剤は、粉の方に入ってます。
頓服じゃないです。
>
下剤を別々に処方して貰えなかったのか?
混ざってるから自分の体調に合わせる事も不可能というわけだな?
≫
痔になる前は、錠剤でももらってました。
>
つまりは今の処方だと嫌でも毎日下剤は飲まされてるってわけだな?
≫
そうです。
>
下剤は市販されてる
病院で処方されたものをわざわざ使う義理はないし金の無駄だが、
下剤を処方してた方が病院にとっては都合が良いというわけだな?
下剤が入っている方の薬は成分の強い薬だろうから、それを薄める役目も有るのだな?
だったら最初から薬を少なくしとけば良いだけの事だな?
違うか?
≫
副作用があるから、便秘ぎみになるのではないかと思ってます。
体調や、生活習慣によるところが大きいと思うけど。
>
副作用で便秘になり易い薬とは5種類のうちのどれかな?
パキシル?エビリファイ?リレンザ?
実際、君は今も便秘になってるのかい?
≫
便秘になった事もあり、浣腸使った事もあります。便秘は辛い。
一時期の事でしたが。
錠剤はジプレキサとリスパダール。
粉の方にはドグマチールとアキネトンとパンピオチンと酸化マグネシウム。
というのです。
>
酸化マグネシウムが下剤なのか?
一時期とは通院前の話か?
≫
それが下剤です。
退院後です。
長曾根は痔の手術の為、一時期入院していた。
>
ここまでメールして来たが、やはり噛み合ってない感じが強い
君とメールしてるとイラッとする
君はやはり頭が変だ
退院後とは強制入院して出てきた後って意味なのか?
長曾根は統合失調症の症状が最も酷かった時期に、強制入院になった事がある。
≫
噛み合ってないと感じる様になったのは、いつ頃から?
一緒に本棚を作ったりしていた頃も、そう思ってた?
長曾根は読書好きな巌男の為に、自分で本棚を作ってプレゼントした事があった。
>
今も昔もだよ
君はとても精神的に危ういと感じている
急に本棚の話とか出て来るし、言葉の端々に危うさが滲み出ている
病気は良くなってないよ
≫
そうか。
良くなってないか。
そう思われるか。
巌男君以外の人も、家族も、そう思ってる人が、いるかも。
>
いちいち君の言葉の意図する所を察しなくてはいけない
誰にでもそういう所は有るのだが、君は極端だから病的と言える
退院後とはいつなのか聞いても応えない
話が逸れる
それが人をイラッとさせる
50歳とか60歳くらいになれば、誰も気にしなくなるだろうけどね
≫
便秘ぎみになったのは、イースタンフルコースで働いていた頃の事です。
治らないかも。
家族の負担になるので、頑張らなければ。
>
治らないのは便秘なのか頭の方なのか?
そういった点が分からないし
読者心理が全く考慮されてないと言える
人をイラッとさせる原因だな
まぁ、治らなくても仕方ないかもな
働き始めたのは退院から2年くらい後ではなかったか?
≫
便秘は治りました。
相手の心理を、考える事が、出来ません。
自分の心理しか、わかりません。
木工所でアルバイトを始めたのは、退院後、数ヶ月してからだったと思う。姉の家から、通ってた。
はじめは姉の家から通ってた。暫くして、車を買ってもらい、実家から通ってた。
>
自分の心理しか分からない人なのか?
君は自分の心理なら分かるのか?
僕には君が自分の心理さえも分かってない様な気がしているよ
≫
自分の心理は、わかります。
自分の事なので。
僕の心理は、深くありません。
>
確かに深くはなさそう
深く考えられなさそう
脳が機能不全になってるから
≫
バカですし。
>
君は自分をバカだと思ってない様な気がしてるんだけどね
≫
バカです。
でも、真面目にやってます。真剣です。
>
君にとってバカとは?
真剣とは?
≫
僕にとって、バカとは、本当の事がわからない事です。
真剣とは、集中力です。
>
具体的には?
≫
バカとは、人の苦労がわからない、人の苦しみがわからない。
真剣とは、集中です。没頭です。
>
苦しみとか没頭とか具体的には?
具体的の意味を分かってないのでは?
≫
あの女の子と会った最後の日、あの子は涙してました。僕は今でも、なぜかわかりません。
巌男君にお猪口を渡した時、たたき割りたくなったという事も、僕には、形なんてない方が良いと言われたというふうに、思っていて。これは、思い違いかもしれない。
真剣とは、バカでも、バカなりの真剣があり、しかし、他の人をおちょくるような事をしない、考えない。
ということです。真面目、に近いと思う。
もう、むちゃくちゃですね。
でも、僕の頭の中は、むちゃくちゃか、何も考えてないか、なんです。
女の子というのは長曾根がしばらく付き合っていた地味で大人しい性格の女性の事で、休みの日には毎週の様に会ってランチを奢るのだが、手を握った事もないという。そんな関係を2年近く続けた上に半年ほど前に別れたそうだ。
お猪口とは、長曾根が陶芸教室に通って作ったものだが、見た目からしてとてもお猪口と言える様な作品ではなく、人に見せたりプレゼントしたくなる様な出来の良い作品でもなかった。
その焼き物には高台が付いていなかった。
>
あのお猪口はお猪口ではなくオハジキでした
君の頭の中の様な焼き物でした
君の頭の中にはあの焼き物の様に何も入りません
土台もないです
≫
あの子は君を気の毒に思っていただろうし、君を傷つける前に君に気付いて欲しかったのでしょう
君を好きではない事を君に察して貰いたかったのでしょう
言葉でハッキリと伝えるのは酷な事ですしね
それに何も考えてないのに、それを真剣とか真面目とか言えるのかい?
本当に君は自分自身の事を真面目とか言えるのかい?
≫
真面目ではない気がしてきてます。
周囲にそう言われるから、そんな気がしてた。
仕事を真面目にやってると、職場で言われるもんですから。
>
真面目は自己肯定の言葉ですね
バカは自己否定
何も考えてないは自己否定
肯定と否定が入り乱れてますね
君は自分の使っている言葉の意味を理解してるのだろうか?
自分の心理を分かっているそうですが、本当にそうですか?
僕にはそうは思えないのですが
≫
自分の中で思う事、妄想や空想も、浮かんでこない事については全く思いもよらないことで、そういうものが、僕には非常に多い。
全く気づいていない。
ひどすぎる。
僕はノウナシ。
>
何を気付いてない?
何が非常に多いのかよく分からないのですが
≫
まるっきり、自分で書いた作文の様な、作文のままの心を、僕はもっている。
スジが無く、意図も無い。
なんか、ヒドイ。
>
ヒドイというのは?
君の文章の事ですか?
それは前々から私がヒドイと指摘して来ましたよね?
≫
ヒドイと言われながら、成長はしてるつもりでした。
文も心もです。
飼い犬のカットに行かなくてはならない。
行ってきます。
巌男は大事な話をしている途中でハシゴを外された気がした。この様なメールのやり取りは今までにも何度かあった事で「またか」という思いだったが、いつも以上に長曾根の心に深く踏み込めた気がしていた。今までは論を詰めすぎると長曾根の病気を悪化させるだけではないかと考えて、遠慮がちにしていた。
長曾根はきっと心の底では自分の言う事を納得してくれていないのだろうと巌男は思ったが、友達に対していつもよりもずっと冷たい態度を取れたことは巌男にとって一つの収穫だった。
昼食をサッサと済ませ、統合失調症についてパソコンを使ってもう一度詳しく調べてみる事にした。
ブッダもキリストもアラーも卑弥呼も、神様の声を聞いている。だから彼らは統合失調症だった可能性はある。だが砂漠とか山の上とかで修行してひもじい思いをすれば、誰にでも幻覚や幻聴は起こり得る。卑弥呼の場合は産後の肥立ちが悪かったのかも知れない。結局のところ何も分からないのだった。
おしまい