「バー・スプートニク」
この物語は君の台詞からはじまる。
「ひさしぶり」
君が言った。
「やあ」
僕が振り向き様に言った。
「変わらないね」 と僕。
「あなたも」 と君。
「でも、少し太った?」
「あら、レディーに対して失礼じゃない?」
「……」
ふたりとも吹き出すようにして少し笑った。
時間が止まったような気がした。
あの頃のふたりに戻ったような、そんな感じがした。
今までの数年間は何かの間違いで
微睡みの中で見た白昼夢だったんだ。
正しいと思っていたものは実は間違っていて
間違いだと思っていたことが本当は正しかったんだ。
そんなふうに思えた。
君が隣にいることがあまりに自然で無理がなくて
それが返って僕をそわそわと居心地悪くさせた。
他愛もない話をいくつかした後
僕らはそのホテルの最上階にあるバーに場所を移すことにした。
「バー・スプートニク」
それがそのバーの名前だ。なかなかいい。
店内は落ちついた雰囲気で
センスのいいソファーや家具がゆったりとした配置で置いてある。
間違っても宇宙船の模型があったり
星型の照明があったりはしない。
それがある種の親切心みたいなものなのだろう。
でも、望遠鏡くらいはあってもいいかもしれない。
僕らは街の夜景が見下ろせる席に座ると
ギネスをふたつ注文した。
「スプートニクって何だと思う?」
僕はギネスが来るまでの時間を埋める為に
そんな質問を彼女に投げかけてみた。
「なに?」
彼女は特に興味はないけど、
ギネスが来るまでの時間つぶしとして聞くわ。
というような感じの返事をした。
「スプートニク計画は1950年代後半に旧ソ連によって
地球を回る軌道上に打ち上げられた、人類初の無人人工衛星の計画なんだ。
スプートニク(Спутник, Sputnik) という言葉は
「旅の道連れ」(転じて衛星)という意味のロシア語から来ている」
「ふーん」
少し興味は沸いて来たけれど、
その先はどうなのかしら?という返事だ。
僕はカウンターの方を見てウェイターの動きを確かめてから、
その続きを話し始めた。
「スプートニク1号の打上げが成功した1ヶ月後、
旧ソ連はスプートニク2号を打ち上げた。
スプートニク2号に課せられた任務は
生物をはじめて宇宙へと連れ出すこと。
そしてこのとき人類に先がけて宇宙を旅することになった
史上初の宇宙船クルーは1匹の犬だったんだ。
そうして選ばれたのはライカ犬の女の子
彼女のなまえは“クドリャフカ”。
アメリカなど西側の国では“Muttnik”
なんていうニックネームで呼ばれていたらしいけどね。
この犬はもともとは野良犬だったという噂もある。
さて、スプートニク2号の任務は無事成功した。
クドリャフカを乗せた2号は
近地点高度206km,
遠地点高度1699km
の楕円を描いて地球周回軌道をまわり、
彼女は宇宙飛行を体験した初の
地球上の動物となったわけなんだ。
日本ではクドリャフカのことを
「宇宙犬」なんて呼んだりもしている。
そんなふうにクドリャフカの宇宙飛行は
華々しい出来事ではあったけれど、
同時に悲しい出来事でもあったんだ。
というのも、スプートニク2号が
回収されることはなかったし
もともと回収できるように設計されていなかったからなんだ。
人工衛星っていうのは
地球の周回軌道をまわり続けているうちに
だんだんと地球の重力に引き寄せられて
ついには地球に落ちることになる。
地球に落ちてくれば大気圏に再突入したときの
ものすごい摩擦で、あっという間に燃えつきてしまう。
それはクドリャフカを乗せたスプートニク2号だって同じだ。
だから、スプートニク2号に搭載された
クドリャフカの生命維持装置は
大気圏に再突入する前に切られてしまったんだろうと言われている」
「悲しい話ね…」
彼女は足下に広がる夜景を眺めながらそう言った。
ギネスの泡は細やかで滑らかだった。
僕は上唇に髭のように着いた泡を掌で拭うと、
足を組んで彼女の言葉を待ってみることにした。
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「結婚するの」
彼女は僕の左の耳辺りを眺めながらそう言った。
彼女からはその先に何が見えるのだろう。
僕はそのことが気になって、
「結婚するの」
という言葉を危うく聞き逃すところだった。
「そっか……」
男という生き物は肝心な時には気の利いた言葉が出て来ない生き物である。
つくづくそう思う。
どのくらいの時間が流れたのだろう。
時間の感覚というものがはぎ取られて壁に飾ってあるように思えた。
僕はハーパーのロックをちびちびと飲みながら、
丸く削られた氷を指で回して
天井の大きなプロペラのような扇風機を眺めていた。
「私、決めたんだ」
「うん」
「もう、何処へも戻らない」
「うん」
「……」
「幸せは何処かにあるものではなくその足下にあるものである 」
そんなような意味合いの言葉を
何処かで見たことがあるように思う。
どこで見たのかは、忘れてしまったけれど。
感情論で話したとすれば、
お互いの気持ちは手に取るように感じ取れた。
君の本当の気持ちは正確には分からないにしても
感じることができたし、
僕の気持ちは、形や色、温度までも表現出来るくらい
しっかりとしたものとして、心臓のあたりに感じ取ることが出来た。
でも、
それは、また別の問題なのだろう。
ライカ犬の気持ちと、人間の思惑が入り交じるように、
まったく方向性が違うことなのだろう。
結局、僕はその感情に繋がる大切な言葉を
そっと心の何処かにしまって鍵を掛けることにした。
人工衛星のように
地球の周回軌道をまわり続けているうちに
だんだんと地球の重力に引き寄せられて
ついには地球に落ち
ものすごい摩擦で
あっという間に燃えつきてしまうその時まで。
バーラウンジには、
ノラ・ジョーンズの歌声がしっとりと降りそそいでいた。
彼女の左手の人差し指についている
大きな指輪が存在感を表している。
僕は右手を上げて、最後の一杯に
ブッカーズをストレートで頼んだ。
僕は無性にドビュッシーの「月の光」が聞きたくなった。