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アメリカ移民をおもう #3 アメリカで医者に

今回はアメリカで医者になったエチオピア出身の男性にインタビューしたときの記録を書き出したいと思います。(仮称:Hさんとさせていただぎす)アメリカで医者になったあと母国エチオピアに学校や病院を作るなど、慈善活動も行ってらっしゃいます。
実は一回叔父が日本に帰ってきたときにHさんも一緒に日本を訪れて、お会いしていました。すごく優しい方で、初めて会ったときもインタビューをさせていただいたときも本当にたくさん私のことを褒めてくださいました。アメリカンドリームを体現している話なので最後まで目を通して頂けると幸いです。


アメリカに来る前の生活

Hさんは当時社会主義国家だったエチオピアに生まれました。

1975年エチオピア革命により成立したが、1976年には年率50%のインフレーションエリトリア解放戦線とのエチオピア内戦エリトリア独立戦争での戦闘労働者による賃上げ要求のストライキが続出し、国は疲弊。1977年にはメンギスツ・ハイレ・マリアムがPMAC議長に就任すると、恐怖政治粛清で数十万人が殺害された。1987年にはメンギスツは大統領に就任し、国名をエチオピア人民民主共和国に変更した。

Wikiより引用

しかし、Hさんの家族は多くの土地をもっている地主のような一家でした。社会主義とは真逆の存在であり、それを理由に小さい頃はよくいじめられました。社会主義的には土地を平等に分け与えたいので土地を取られました。Hさんの言葉を借りると、「社会主義は私たち家族のことがすきじゃなかったし、私たちも社会主義がすきではなかった。」が全てを物語ってあると思います。

もっと知りたい方はHさんが出しているHealer’s Lightという本をぜひ読んでみてください。

アメリカへの憧れ

社会主義国家に嫌われていたHさんはエチオピアをどうしても離れたいと思うようになり、8年生のときに学んだアメリカという資本主義で自由主義の国に行きたいと思うようになりました。アメリカについて勉強するにつれて、アメリカは移民の国であり、どこからやってきても努力すれば成功できるというアメリカンドリームを知りました。
ヨーロッパでは移民が達成できることに限界がある。移民の人は現地の人と同じ土俵には立たせてもらえない。このように考えたHさんは11年生になったときにはアメリカに行く決意をします。

アメリカにどうやって来たのか

当時の学生ビザであるF1ビザを使って正規大学生としてアメリカに入国しました。ワシントン州の大学卒業後にカリフォルニアに引っ越し、働いている病院からワークパーミットを出してもらい、永住権、さらには市民権まで得ました。エチオピアは日本と同じで二重国籍を認めていないため、エチオピア国籍はもうもっていませんがその代わり永住権を付与されたらしいです。
今と比べて移民の人のビザを出してもらえるチャンスが高かったです。しかももうすでに病院でアシスタントとして働いていたのがビザを病院に出してもらえる確率を上げました。みんなが嫌がる夜間や週末のシフトも自ら志願して担当するなどの努力が報われました。

差別

受けてきた差別

アフリカから来たHさんは差別にあってきました。
アメリカに来た当時はマイケルジャクソンの最盛期。黒人だからダンス、歌が上手だという偏見を持たれることが多かったみたいです。同僚とかが音楽をかけて「先生!踊ってください!」と言われたり、マイクをいきなり渡されて「歌ってください!」と言われたりとステレオタイプに基づく無意識な差別に遭ったと仰っていました。(君の叔父さんのほうがダンス上手いよというジョークも言ってくれました笑)
黒人に対するステレオタイプというのは黒人はやる気がなくて、ヤクに手を出していて、パーティをしているというネガティブなものです。黒人がまわりにいないので、テレビでしか見ることしかありません。テレビでは黒人はホームレスであることが多いかのような描写があり、あまり偏見をなくす助けになっていません。
ただ、地域差があるHさんは言っていました。Hさんの通っていた大学があるワシントン州は白人が多く、黒人が少ないので差別はまだ多いですが、ロサンゼルスは白人のほうが少なくなってきているのもあって比較的寛容だと言われています。そんなロサンゼルスでも今の家に引っ越して来たときに近所の人が「このコミュニティが黒人が来たことで破壊されてしまうのでは?!」と思っていたらしいです。「そんなことは起こりませんでしたけどね(笑)」ってジョークみたいに言ってくれましたが、普通に考えてショックだよなぁって思いました。

差別はなぜおこるのか

Hさんは差別が起こる理由とは「恐怖」だと言っていました。

誰かを知らないというのは怖いことであり、それが原因で人は差別してしまう。教育を受ければ受けるほど世界に触れることができる。人と会話して、本当に同じ人間だということがわからないと差別はなくならない。
差別する人は自分の生き方が最高だと思っていて、それを守る最適な方法は誰も自分の輪に入れないことだと思っているんだ。

Hさん

N-word 

これは後日、台湾からご両親が来た移民二世の医者であるKさんとHさんと話をしていたときに上がった少しおまけ的な話題です。
N-word をHさんは言うのですかとKさんが聞きました。
そしたら「言わない。それはアメリカに生まれ育った黒人の文化であって、私は言ってはいけないと思う。息子たちはいうかもしれない。」と仰っていました。

アメリカンドリーム

アメリカで医者となり、故郷のエチオピアに病院や学校を建てて母国の発展に貢献したHさんはまさにアメリカンドリームを叶えた人です。
本人もアメリカに来てから過ごした時間は非常に実りがあったと語ってくれました。
しかし、アメリカで働き出した当時と今を比べてみると、アメリカンドリームはまだあるものの、今の方が叶えるのが難しいらしいです。アメリカが人材に飢えていたピークの頃と比べると移民同士の競争も熾烈で叶いにくくなってしまったととのことです。

最後に

実はもっといろいろ話してくださったのですが、全部まとめようとすると莫大な量になってしまい、私の更新がすごーーーく遅れてしまうことに繋がってしまったのでまた続きは別で書こうと思っています。申し訳ございません!
Hさんはエチオピアでの活動も行なっているだけでなく、医者としても様々な人を救ってきた人で話を聞いていて憧れました。病院の裏側も案内してくださって本当にありがとうございました。でも、カジュアルに「あの人は銃で10発撃たれたんだよ!」って言われたときはさすがにビビりましたよ…

ここまで拙い文章を読んでくださってありがとうございました。また次回もお越しください!

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