世界に飛び出した縄文人達
タイトル画像の三内丸山遺跡をはじめとする、北海道・北東北の縄文遺跡が、世界遺産に登録されました。世界最初の煮炊きの跡を持つ土器の発掘は、一万六千年も前に極東の島に住んでいた人類の叡智や文化の豊かさを見せつけ、全世界の人々に純粋なる驚きをもたらしました。
日本列島全土から出土する縄文土器には、縄の文様がついています。縄文時代も最初は無紋土器から始まったようですが、一万年前には縄の文様の土器がつくられるようになり、それは、日本全国に広がっています。つまり、縄文人の誰かがその作り方を伝え、その使用方法とともに土器の作り方が日本中に広まっていったのです。
その縄文の中心地は、青森を中心とする半径200㎞ぐらいの中に存在していたようです。今回の世界遺産に登録された数々の豊かな文化を象徴する遺跡群が、まさにこの地域で生活をしていた縄文人の豊かな暮らしを物語っているのです。
消えた縄文人
この豊かな文化を持ち、村を作り定住して漁労や狩猟、それに、栗などの栽培までも行っていた縄文人の姿は、例えば、三内丸山遺跡では、今から約4000年前に突如として消え去ってしまうのです。
三内丸山遺跡だけではありません、北海道の北小金貝塚の人々は、今から5500年前に姿を消してしまいました。秋田の大湯環状列石を組み上げた人々は、今から3500年前に姿を消しました。
大きな原因は、気温の変化だと考えられます。現在より、3度ほど高かった気温は突如寒冷化していったのです。食糧確保に最適の地であり、また、生活環境として最適の地であった北海道や北東北に、一気に厳しい冬がもたらされるようになったのです。そしてこの時、その地で暮らしていた縄文人達は、その土地を捨てて、新しい土地を求めて、南へ、南へと下っていくことを決意します。
日本書紀に残る縄文人達の痕跡
移動すると言っても、彼らは歩いていったのではありません。鬱蒼と原生林が生い茂る山道を越えたのではなく、彼らの移動の手段であった船を使って、海上に乗り出したのです。翡翠や黒曜石の交易は、数百キロもの範囲で行われていたことがわかっています。
そして、その痕跡は意外な書物の中に隠れていました。日本で最初の正史である日本書紀です。応神天皇の時、天皇が伊豆国に命じて船を造らせたという記録が書かれているのです。
長さ十丈の船ができた。ためしに海に浮かべると、軽く浮かんで早く行くことは、走るようであった。その船を名付けて枯野(からの)と言った。船が軽く速く走るのに、枯野と名付けるのは、道理に合わない。もしかすると軽野といったのを、後の人がなまったのではなかろうか。
ご丁寧にも日本書紀の編纂者の注釈まで付けられた内容です。このことからも創作ではなく、この話は実際に残されていた記録を写し取っていることがわかるのですが、「枯野」と呼んだのは確かに奇妙です。
これは、実際「カヌー」のことなのではないでしょうか。伊豆には当時、既にポリネシアで使われていた「カヌー」という言葉が存在し、そのカヌーを作って見せたのではないのでしょうか。伊豆には、狩野川という名前の川があります。伊豆半島の中心に端を発し、北上して沼津に流れ込む川です。この狩野もカヌーを語源としているのではないでしょうか。
日本語は、母音で終わる言語です。この音は、子音で終わる朝鮮半島の言葉の響きとは大きく異なります。母音で終わる音を使うのは、太平洋の島々、ポリネシアの音なのです。そして、伊豆にはこのポリネシアの国々に繋がる日本の拠点が存在していたのではないでしょうか。
北海道や北東北を飛び出した縄文人達は、太平洋を南へ下り、伊豆半島までやってきた。そこには、ポリネシアに続く海の道の起点があった。そして、そこで、カヌーを手にした縄文人達は、もっともっと温暖な気候と豊富な食糧資源を求めて、南へ南へと下ったのではないでしょうか。
島伝いの航海方法
縄文人達の航海方法は、島伝いに海を渡る安全航海です。逆に言えば、そこに見える島がある限り、彼らは船を漕ぎ、その島を経由して次の島へと渡ります。
私達は魏志倭人伝の影響から、朝鮮半島、対馬、壱岐、松浦半島が海の道だったと考えます。しかし、海の中の島国日本には、他にも多くの海の道があったようです。
その一つが、伊豆の道です。伊豆諸島の一つ、神津島(恩馳島)は黒曜石の産地として有名です。この島の黒曜石は関東一円で発見されています。縄文人達にとって、伊豆諸島を船で行きかうことには、なんら抵抗がなかったのだと思います。
伊豆諸島は神津島で終わりではありません。神津島の先には、三宅島、御蔵島、八丈島へとつながっていきます。そして、その先には、父島、母島、聟島、硫黄島、西之島、沖ノ鳥島、南鳥島とつながる小笠原諸島があり、そして、そのまた先には、サイパンやグアムへとつながるマリアナ諸島があり、そして、その先にはミクロネシア、メラネシア、ポリネシアと繋がっていきます。
魏志倭人伝に残された倭人の知識
3世紀の日本の様子を記載した、貴重な資料に魏志倭人伝があります。卑弥呼の存在。そして、邪馬台国がどこにあったのかは、未だに解決しない多くの魅力を秘めた書物です。
この魏志倭人伝の中にも、非常に面白い記述があります。
女王国の東、海を渡ること千余里で、また国々があり、これらもすべて倭種の国である。また侏儒国はその南にあり、人々の身長は三、四尺で、女王国と四千余里離れている。また裸国・黒歯国はその東南にあり、舟行一年で到着できるという。
邪馬台国の倭人は知っていたのです。身長が小柄な人が住んでいる国が南に四千里離れたところにあることを。そして、その先には、舟行一年でいける裸国・黒歯国の存在を既に知っていたのです。一年でいけると知っていたのは、一年で行って帰ってきた人間がいたからです。
日本人は、古来より、海を行き来し、ポリネシアの人々と深い交流を続けていたのです。
ラピタ人の出現
オセアニアの歴史の中では、今から4000年ほど前、正確には3600年前ということですが、メラネシアの地域で突然高度な土器文化を持つ人々が出現します。どこから、やってきたのかは非常に謎であるとされている民族です。
オセアニアの人々は、この土器を「ラピタ土器」と呼び、この人々を「ラピタ人」と言っています。ラピタ文化は、メラネシアからポリネシアへと広がり、紀元前1000年ぐらいで消えてしまうのです。しかし、数千年にわたって、彼らは、メラネシア、ポリネシアの島々で生活をしていたのです。
ラピタは、謎の文化、謎の民族と言われています。台湾から渡ってきた人々ではないかとの説が有力のようですが、実際のところ何もわかっていません。人骨の標本から、顔が復元されています(国立民族博物館)。身近に似た顔の人がいるようにも思えます。縄文人なのかもしれませんが、わかりません。
私は、ラピタ人とは縄文人達であったのではないかとも考えています。それも、北東北や北海道に住んでいた、あの縄文人達が気候の変動から、南へ南へと移り、メラネシアでラピタ人として出現したのではないかと考えているのです。伊豆から海の道を辿って、飛び出していった人々ではないかと思うのです。
世界で最初の土器文化を持った人々が、メラネシアやポリネシアに辿り着き、そこで、その土地の土を使って土器を作り生活をはじめたのではないでしょうか。
小笠原諸島を真南に進むと、ニューギニアに到達します。日本を漕ぎ出した人達が、初めて出会う大きな島です。日本の国土のなんと二倍もある巨大な島です。常夏のこの島には、厳しい冬はやってきません。カヌーで漕ぎ出した縄文人達がようやく見つけた土地だったのかもしれません。
しかし、ニューギニアでは、縄文人が最初の人間であったのではありません。今から、6万年もの前に、最初の人間がこの地に住み着き、その後、長い年月の後、縄文人がやってきたのです。ですから、彼らがその場所に住み続けることは難しかったのかもしれません。だからこそ、彼らはまた船にのり、ミクロネシアやポリネシアの島々に生活の場所を求めたのかもしれません。
バヌアツで縄文土器発見
ラピタ人の土器であったのか、はたまた、縄文人が渡っていって作り上げた土器であったのかわかりませんが、南太平洋のオーストラリアの東、フィジーに行くまでの途中の島シェパード諸島の国バヌアツで縄文土器が発見されたのです。
1990年に、ハワイのホノルルのバーニス・P・ビショップ博物館所属の考古学研究者である篠遠喜彦氏は、フランスの考古学者ジョゼ・ガランジェがバヌアツで行った考古学調査論文を読んでいて、そこに掲載された土器が、日本の東北地方北部と北海道南部に限られている円筒式縄文土器であると発表しました。縄文人の痕跡は、ポリネシアの島でも発見されていたのです。
しかし、縄文人はポリネシアの島々に散っただけではないようです。
フランス領であるポリネシア諸島には、ゴーギャンで有名なタヒチなどが存在し、それを、まだまだ東に進むと巨石文化のイースター島に行きつきます。そして、その先にあるのは、南アメリアの大陸です。
エクアドルのバルディヴィア文化へ
南アメリカ大陸の赤道直下の国エクアドルでも、なんと、縄文土器(?)が発見されているのです。バルディヴィア文化と呼ばれ、古くは紀元前4000年頃から紀元前300年頃までという、実に長い間続いた文化を持つ人々が暮らしていたことがわかっています。
ここで出土する土器が、縄文土器に似ているというのです。ちょうど、紀元前4000年頃のものなのだそうです。時代的には、日本の縄文人が伊豆を飛び出すよりもかなり前のこととなります。
見つかった頃、土器を作る文化が近くにないことから、きっと、どこかの民族が渡ってきて伝えたのだろうという推測となったのです。可能性としては、1万6000年も前に土器作りをはじめた日本の縄文人辺りが可能性があるのではないかということになったのです。
アメリカのエヴァンズ博士や、エクアドルのエストラーデ博士による発見として、有名な論文が残されています。日本の増田義郎氏が、江上波夫氏とともに、ニューヨークで彼らに会い、意見交換をしたときの様子を「太平洋─開かれた海の歴史」という本にされています。
ただ、この時見つかっていたエクアドルの土器は、日本の縄文が付けられた土器ではありませんでした。線刻図案というのでしょうか、または、へらで削り作ったような鱗のような文様をしている土器だったのです。増田義郎氏は、縄文土器とは違うのではないかと感じられたそうです。ただ、エヴァンズ博士らは、その後日本を訪れ、日本の各地で見つかった縄文土器をつぶさに観察し、これは、間違いなく関連があったと結論付けられたのでした。
世界に散らばった縄文人達
私達は、縄文人というと非常に原始的な人々を想像します。もちろん、縄文時代もまた、新石器時代に分類される時代区分ではあるのですが、その時代に生きた人々は、現代人以上に遠くまでの旅を厭わない、非常に活動的な人々であったのです。そして、器を使い、煮炊きを行い、豊かな食事をしながら、土器や土偶を作り、また、入れ墨を含めて着飾ることの好きな豊かな文化を持つ人々であったのです。
そして、丸木舟を現代の自転車か自動車のように自在に操って、大海原を渡ることをまったく苦にしない人々でした。現代人以上に、冒険心に飛んでいて、かつ、豊かな感性を持った人達であったのではないかと思うのです。
私は、この太平洋に面した人々が皆、縄文人を祖先に持つ人々であるなどとは、全く思いません。世界のあちこちに、縄文人の痕跡があるのは誇らしいことですが、全てが正しい分析であるとも思いません。ただ、彼らがカヌーを漕ぎ、海を渡ることを厭わなかったのは事実であると思います。
気候変動に直面した時、彼らの取った行動は非常に合理的なものであって、なんとしてもその土地にしがみつき、生きる喜びを放棄してしまうような弱い人間であったわけではないのです。常に前を向いて、希望を持ち、新たなる未来を探し求める、そんな人々であったのだと思います。
だからこそ、彼らの痕跡は太平洋を囲むように残されたのです。そして、少なからず私達の体の中に、彼らの血が残っていることに私は誇りを感じるとともに、勇気をもらえる気がするのです。
「止まっていてはいけない。前に進め。」と呼びかけられているように感じるのです。
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