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日記 8/31(土)

七月はどこも行かずじまいだった。

寝て、働いて、気づいたら終わっていた。

暑さには強いほうだと思ってたけど、今年はレベルが違うみたいだ。冷蔵庫をのぞきこんだまま一時間経っていたこともある。ちゃんなべさんに頭をはたかれて気がついた。

「冷房つけない意味ってあるんですか?」

ちゃんなべさんはそういうけど、ちゃんなべさんのエアコンの設定温度は19度、僕は30度なので、ちゃんなべさんにリモコンをまかせると僕は寒くてかなわない。

台所でスイクンと寝たり(スイクンは涼しい場所を見つけるのがうまい)冷房におびえながらタオルをかぶって寝ているうちに、どうやらカゼを引いてしまって、ちゃんなべさんが作ってくれたホットジンジャーエールを飲みながら養生していた。

ようやく体を起こせるようになったのがきのう。もう、夏も終わりだ。



「海行きましょう!」

朝食のあと、僕はそう切り出した。

ちゃんなべさんはテレビを見ながらローラーシューズのメンテナンスをしていた。

「海?」

「暑いうちに、一度くらい楽しいことしましょうよ」

ちゃんなべさんは少し、考えるような顔をしたが、「海ねぇ、いいですね。疲れるし、日焼けするし……」とつぶやくと、すぐまたローラーシューズに目を落とした。

あんまり乗り気じゃなさそう。まあ、予想通りだ。

「ちゃんなべさん、あれを見てください」

僕はベランダを指した。物干し竿にセミがとまっている。胴は黒、頭は澄んだエメラルドグリーン。ミンミンゼミだ。

「あそこにセミがいますね」

「いますね」

「今は鳴いてます。先週は鳴いてませんでした。なんでか分かりますか?」

「分かりませんね」ちゃんなべさんがいった。「どうしてですか?」

「涼しくなったからです」僕は答えた。「セミは暑すぎると動けないんですよ」

「なるほど」

「だいたい35度を越えるとダメみたいです。本で読みました」

「なるほどね」

「ね、八月も終わるし、セミも鳴いてるし、もう秋なんですよ。今年の夏は今年しか来ないんだから、楽しまないともったいないですよ」

そんなことを話すうちに、セミは何かを思い出したように鳴くのをやめて、山の方へ飛んでいった。

ちゃんなべさんは「うーん」という顔をした。

迷ってるみたいだったが、しばらくして、わざとらしく首を振ると、

「Jellyfish are looking forward to kissing me passionately(くらげは私に熱烈なキスをすることを心待ちにしています)」

といった。

「なんですか?」

僕はきいた。

「But Im not welcome to their passion. They are suited to the inside of an aquarium(しかしながら私は彼らの情熱にたいしてウェルカムではありません。彼らは水族館の中にいるのがお似合いです)」

ちゃんなべさんが英語で話しはじめるときは、話を早く終わらせたいときだ。

最近、僕も少しだけ聞き取れるようになった。やれやれ。

「くらげが怖いのなら、くらげよけネットがある海で泳げばいいじゃないですか」

「There has never been such a thing as a jellyfish-net. On this earth. Not even once」

「長そでの水着を着るとか、いろいろやりかたはあるでしょ」

「What is the benefit of swimming in the ocean?」

そんなことをいいながら、ちゃんなべさんはローラーシューズを履き、ヘルメットをかぶり、肘あてと膝あてをつけて外へ出ていこうとする。

「ちょっと、どこ行くんですか」

「ゲーセン」

ばたん、とドアが閉まった。窓からのぞくと、アパートの前を勢いよく滑っていくちゃんなべさんの姿がだんだん小さくなっていく。だめだこりゃ。



         ***



「この車、タバコ吸えますか?」

後部座席にエナメルバッグを置きながらサワムラーがいった。

「あごめん。禁煙車しか借りれなくて」

「了解です」

「何か持ってきてくれたの?」

「タオルとブルーシートです」

「ありがとうー」

サワムラーは助手席に乗りこむと、シートベルトをカチッと締めて、カーナビに「江の島」と入れた。

ひとりは退屈だし、運転するのもひさしぶりなので、誰かついてきてほしいなと思ってグループラインに投稿したらサワムラーが来てくれた。

正直、サワムラーが来てくれるとは思わなかった。学生のころからの知り合いではあるけど、そこまで仲が良かったわけではない。どうして来てくれたんだろう?

「どんなルートで行くのかな」

カーナビをのぞきこみながら僕は聞いた。

「首都高乗って、用賀で降りて、京浜道路から南に向かう感じですね」

サワムラーが抑揚のない声で答えた。 

「首都高か、僕苦手なんだよね。くわしい?」

「ぼちぼちっす」

「まあ、間違えそうになったら教えてよ」

「うす」

セブンの駐車場を出て、国道254号に入る。池袋方面へ向かう。

スズキのラパン。おもちゃみたいな車だ。小さくて軽い。アクセルを踏んでもそんなにスピードが出ない。事故に遭ったらひとたまりもないだろう。

緑色に白い文字の看板が見えてくる。

「あれ?」

「あれです」

ウィンカーを出す。

吸いよせられるようにゲートへ入っていく。ピッという音とともに黄色のバーが持ち上がる。坂の向こうに青空が広がる。

首都高は空いていて、そのせいかまわりはみんな飛ばしている。つられて僕のスピードも上がった。

とにかくカーブが多い。カーブを過ぎたら次のカーブで、ハンドルを切るたび僕とラパンが大きく左右に揺れる。肩に力が入るのを感じながら、池袋、護国寺、飯田橋と進んでいく。

サワムラーがカーナビみたいに指示を出してくれる。「次の分岐を右です」「右側二車線を走ってください」みたいに。

「ちょっと壁に近すぎです」

サワムラーが窓の外を見ながらいった。

「もうちょいセンターラインに寄ってください」

「分かるんだけど、なんか対向車が怖くて」

「車は避けてくれますが、壁は避けてくれません。だから車の方に寄るべきです」 

分かるような、分からないようなアドバイスだ。

教習所みたいだなと思った。サワムラーってちょっと教習所の人っぽい。無口で無表情なところが。それかタクシードライバー。

竹橋ジャンクションを過ぎたところで、サワムラーがスマホをブルートゥースに繋いだ。

「だれの曲?」

僕はきいた。

「ジョン・コルトレーンです」

「ジョン・コルトレーン?」

「ジャズです」

ハンドルを握る手がびりびり震える。

ふだん会わない人と、ふだん流さない音楽を流しながらドライブするのは変な感じで、アクセルを踏むごとに古い皮が剝がれ落ちていく気がした。




京浜道路まで来ると、建物はだいぶ背が低くなる。緑も増えはじめる。

そして、混み始める。週末のこの時間だからだろうか、前後左右をトラックにはさまれてなかなか進まない。完全に止まることもあった。

「休みの日は何してるの?」

前のトラックのお尻を眺めながら僕はきいた。

「ジム行って、飲み行ってますね」

「友達と?」

「そうですね」

「僕は料理したり、図書館行ったりかな」

「そうですか」

「……」

サワムラーとの会話はずっとこんな調子で、グラフでいうとずっと横ばいで、盛り上がるということがない。

サワムラーは学校を出たあと、しばらく地元の酒屋さんで働いていた。

それは知っていたけど、酒屋の方はもう二年前にやめて、いまはラーメン屋で働いてるらしい。

「なんでやめちゃったの?」

「腰です」

「腰かぁ」

「ビールケース、一気に持とうとしてやっちゃいました」

「あれ、一つどれくらいあるの?」

「30キロくらいですね」

「何こ持とうとしたの?」

「4つです」

「そりゃ大変だ」

トラックにビールケースを積もうとして、ケースをつかんだまま固まっているサワムラーを僕は想像した。

「で、ラーメン屋に転職したわけか」

「そうすね」

「ラーメン屋も腰に悪そうだけどね、立ち仕事だし」

「まあそうすね」

「ラーメン好きなんだ?」

「いや、普通ですね────動きましたよ」

「あ、ありがとう────この曲もジョン・コルトレーン?」

「これはカニエです」

「カニエ?」

「はい」

「普通なのにラーメン屋にしたの?」

「え?」

「いや、ラーメン普通なのに、ラーメン屋にしたの?」

「そうすね」

「そうなんだ。場所は?」

「北千住です」

「北千住か。あのへん銭湯多いよね」

「え?」

「銭湯、多くない?」

「そういえばエントツ多いですね」

「今度食べにいくよ。何がおすすめ?」

「つけめんっすね」

車はほとんど進まなかった。つくころには暗くなってるんじゃないかと思った。




京浜道路をようやく抜けた。

サワムラーがタバコが吸いたいというので、インターチェンジ近くのコンビニで休憩することにした。

風がある。まだ海の匂いはしない。駐車場からは、さっきまで乗っていた高速がみえる。何台もの車が数珠つなぎになって西へ進んでいく。その向こうには夕暮れが迫り、色あせた空がみえる。

明るいうちについて暗くなるまで遊ぼうと思っていたから、そんな空を見ていると悲しくなってくる。

「あと一時間すね」

タバコをはさんだ指で、ちょいちょいとスマホを触りながらサワムラーがいった。

「はあ、まだそんなにかかるのか」

「吸います?」

「いや大丈夫。もっと早く出ておけばよかったね」

「行きますか」

「行こう」

サワムラーがタバコを消す。僕は残ったアイスコーヒーを飲み干す。




樹が変わってきた。

ケヤキやイチョウじゃなくて、ヤシやシュロのような、南国っぽい樹に変わってきた。

近づいてきているのが分かる、でも、まだ見えない。

大通りを外れ、曲がりくねった道に入っていく。見通しが悪い。カーナビはいつのまにか全然違うところを指すようになってしまって役に立たない。

「ここ、通れるかな?」 

家と家の間を抜ける、細い道を見つけた。

「ここですか?」

「ショートカットできそうじゃない? ここ抜けたら」

「対向車来たらダルいですね」

慎重に、でもなるべくスピードを落とさず進んでいると、車をばんばんと叩く音がした。窓を開けると、自転車に乗ったカイリキーが怒っていた。

「なんですか?」

「ここイッツーだよ!」

カイリキーが顔を真っ赤にしていった。

みると、たしかに一方通行の標識がある。塀のツタに隠れてよくみえなかった。

「すみません」

「バックしろよ!」

ぶつからないように気をつけながら、そろそろとバックする。10秒で来た道を1分くらいかけて、やっともとの道に戻った。

「気をつけろー、バカ野郎!」

錆びついた自転車をキコキコいわせてカイリキーは去っていった。

「なんかさ、一方通行にすごく厳しいおじさんっているよね」

車を走らせながら僕はいった。

「そうですか?」

「いるいる。いない?」

「そうですかね」

「悪いのはこっちだけどさ、もう少し優しくいってくれてもいいじゃんね」

「カーナビ直りました」

「あ、ありがとう」

小さなグレーの画面に、この車をあらわす青い矢印が南を向いていた。



家々が覆いかぶさるように並ぶ。

暗がりのなかを、ランドセルをしょった女の子とすれちがう。シルバーカーを押すおばあさんが通る。

窓から吹きこむ風に、ほんのり潮の匂いが混じる。

メーターの針が半分を指したころだった。路地の終わりに、小さな光がみえた。

光はだんだん大きくなっていった。西日をいっぱいに浴びた交差点がみえた。

「左折?」

「左折です」

僕はウィンカーを出した。交差点に入る。

交差点を曲がる。





             








ちゃんなべさんと海に来たことを思い出す。

あれはいつのことだっけ。あのとき、たしかちゃんなべさんは大切な何かを落としたといって大騒ぎしたんだった。でも、何を落としたんだっけ?

「ありえねえよ。こんなところで見つからないのは」

ちゃんなべさんがブツブツいいながら歩いていく。

「そのへんはさっき探しましたよ」

少し遅れて歩きながら、僕は声をかける。

ちゃんなべさんが砂浜に足跡をつけていく。波がそれをさらう。平らになった砂浜に、僕がまた足跡をつける。それをまた波がさらう。

「駅に戻りません? 誰かが届けてくれてるかもしれませんよ」

「ここに来たときは持ってたんだよ。間違いなく」

「リュックの中とか、ちゃんと見ました?」

「見たよ、気が狂うほどに」

「あ、あれじゃないですか?」

遠くの砂浜に、落ちているものがある。僕たちは駆け寄る。はあはあ息をつきながら砂の上にあるものを見ると、くらげだった。

「くらげですね」

「きちいぜ」 

ちゃんなべさんが顔をしかめる。

「かつのぼえぼし?」

「カツオノエボシ、ね」

「生きてるのかな」

「死んでるね、どう見ても」

「どうしてこんなところにいるんでしょう」

「きのうの嵐で打ち上げられたんだろう」

「きれいですね」

透けるような水色のなかに、桜色が滲んでいる。

「おい、刺されるよ」

そうだ、あのときもちゃんなべさんはくらげを怖がっていたんだった。

「あっ!」

ちゃんなべさんが叫んだ。

僕は顔をあげた。ちゃんなべさんは海に向かって走り出していた。

ちゃんなべさんの走りは変わっている。あごを上げ、顔を前に出し、両手をぶんぶん振りまわしながら走る。苦しそうなわりに、そこまで速くない。その体勢のまま海に突っこんだ。

「ちょっと!」

追いつくと、海は何事もなかったように広がっていた。ただ緑色の波が、ところどころ白い泡を立てている。僕は海面のあちこちに目を走らせた。

どこにもいない。

海に吞まれてしまったんだろうか。

音がした。沖の方で、水しぶきを立てて人が立ちあがった。その人は胸まで海水につかり、右手を高く上げていた。何かをつかんでいた。

何を? 

思い出せない。

「ちゃんなべさん」

「とれた」

泥まみれの顔で、ちゃんなべさんが笑っていた。












           

「見て見て」

油でべたつくテーブルの上に、僕はそれを置いた。

「拾ったんですか?」

サワムラーがお冷を持ってきてくれた。

「そう」

「きれいっすね」

「箸置きにでもしようかなと」

そういいながら、貝殻に割りばしを乗っけてみる。いい感じ。

桜色というんだろうか。砂浜で10個くらい拾って、そのなかでも色がきれいなやつを選んだ。

海で遊んだあと、中華料理屋に来ている。七里ヶ浜駅近くの雑居ビルにある中華料理屋だ。厨房に疲れた顔のおじさんが立っている。カウンター席のテレビはワイドショーを映している。

「まだ、ちゃんなべさんと二人暮らしですか」

サワムラーがそういった。

「そうだよ」

僕はうなずいた。

「もう長いですよね」

「そうだね」

「大変じゃないですか?」

サワムラーはテレビに目を向けたままいった。

「ちゃんなべさんみたいな人と暮らすの」

「ああ」

潮風でかゆくなった腕をかきながら、僕は考えた。

「たしかに、苦労もあるけど。家事あんまりしないし、何いい出すか分からないし。でもまあ、慣れれば平気だよ」

「大変は大変なんですね」

「ちょっとはね」

「じゃあ、なんで一緒にいるんですか?」

「え?」

「なんで一緒にいるんですか?」

僕はサワムラーを見た。

サワムラーはテレビを見ている。

テレビにはハンバーグが映っていて、女の人が「おいしそ~」といっている。

なんで?

なんで一緒に?

そんなこと、考えたこともなかったからバシャーモは困ってしまった。

なんで一緒にいるのか?

いつから一緒にいるのか?

いつまで一緒にいるのか?

ちゃんなべさんと。

そして、どうしてサワムラーはそんなことを聞くのだろう。

「ハマグリラーメンです」

ラーメンだ。

「あ、僕です」

「担々麺の方」

「自分です」

昼から何も食べてないので、お腹が空いていた。僕もサワムラーもラーメンを食べはじめた。おいしい。

「おいしいね」

「おいしいすね」

「自分の店とどっちが?」

「いい勝負っすね」



俺運転しますよ、とサワムラーがいった。ビルの横の喫煙所は夜風が冷たかった。

「免許持ってるんだ」

「酒屋で必要だったんで。吸います?」

「大丈夫。でも、借りた人しか運転できないんじゃなかったっけ。レンタカーって」

「片道くらい余裕すよ」

タバコをはさんだ指で、頭の後ろをかきながらそういった。

「かゆいの?」

「なんか。たぶん蚊です」

サワムラーはタバコを消した。僕はポケットからキーを出して、渡した。



「いやあ、今日は楽しかったですね」

トラックを追い抜きながらサワムラーが大声でいった。

「ね、楽しかったね」

「自分海ひさしぶりで、正直めっちゃテンション上がっちゃってやばかったです」

「そうだったんだ」

走り出してから、サワムラーはずっと話している。

前の車が近づくたびに、サワムラーはウィンカーを出して追い抜く。前の車がバックミラーに閉じこめられる。それもだんだん小さくなり、ほかの光と見分けがつかなくなる。たくさんの光がそんなふうに流れていく。

腕を鼻に近づける。自分の匂いじゃない、生ぐさい匂いがする。腕を離すとガソリンくさい匂いが戻ってくる。それを二、三度くりかえす。

あくびが出る。

変な気持ちだ。自分が他人になったみたいだ。

帰ったらシャワーを浴びようと思った。冷房のきいた部屋で思いっきり寝よう。10時間くらい眠ろう。

「てか俺、けっこう深いところまで泳いでたじゃないですか。気づいてました?」

サワムラーはずっと話している。

「魚泳いでるじゃんって思って、顔つけて見てたんすよ。そしたら急にでかい波来て、あやうく溺れそうになってだいぶ焦りましたね。ちっ、うぜーなあのセレナ。たらたら走ってんじゃねーよ」

「ねえ、サワムラー」

ぼんやりした頭で僕はいった。

「どうしたの、よく喋るね。いやいいんだけど、何かあったの?」

「魚も泳いでたんですけど、くらげもいましたね。けっこうな数でしたよ。お盆過ぎると増えるってのはやっぱり本当なんですね」

サワムラーはライトをパッパッと光らせ、前を走るセレナをすれすれでかわした。

渋谷の標識がみえる。

いつのまにか東京に入っている。エンジンを豪雨のように響かせながらビルとビルの間を駆けていく。なんだか速いなと思って、メーターをのぞいたら150キロあった。150キロ?

「サワムラー?」

「なんでしたっけ、かつのぼえぼし? あれ、めっちゃいました。きれいな色してますよね。毒があるって知らなかったらきっと触っちゃいますよね」

「飛ばしすぎじゃない?」

「浮いてるんですよ。ゆらゆら。幽霊みたいに。で、もっとよく見ようと思って、海の中潜って見てみたんですよ、俺。くらげのことを」

聞いていない。ハンドルを握ると性格が変わるんだろうか。止めなきゃと思うんだけど、眠い。体が動かない。

トンネルに入る。車内が黒く塗りつぶされる。オレンジの照明が一定のリズムで僕たちの体を刻む。

「でね、見てるうちに、くらげも俺のこと見てる気がしてきたんです」

トンネルが深く、暗くなる。

「変な話ですけど、海の中で、俺とくらげが向かいあってるみたいな」

オレンジのリズムが速くなる。


目があってるみたいな

見つめあってるみたいな

そんな気分になってきて

そしたら俺、そのくらげと会ったことがある気がしてきて

あれ俺こいつ知ってるぞ

見たことあるぞ

誰だっけって

なんかそんな

なつかしい気持ちになってきて

でも、思い出せないんですよ

こいつが誰なのか

いつ会ったのか

どこで会ったのか

思い出せない

自分にとって大事な人だったことはわかるのに

どうしても思い出せない

くらげも俺にいいたいことがあるみたいなんだけど

言葉がわからないから

どうしようもない

俺たち海の中で見つめあうことしかできなかったんです



僕はスマホをブルートゥースに繋いだ。

「いいすね」

サワムラーがいった。「だれの曲ですか?」

「ジョン・コルトレーン」

僕は答えた。

「ジョン・コルトレーン?」 

「ジャズ」


ダッシュボードにハイライトメンソールが転がっている。

それを取り、一本を口にくわえたところで、この車が禁煙車だったと思い出す。

浅く座る。両手をひざに置いて、かるく猫背になる。それから鼻で大きく息を吸いながら背筋を伸ばす。骨盤を意識。少しずつ胸をそらしていく。充分にそらしたら、また猫背に戻る。深呼吸しながらこれを10回繰り返す。

腰に手をやる。

なんともない。だが少し動かすだけで、神経に不吉な電気が走る。

冬が怖いな、と思う。去年も冬は大変だった。家から駅までの20分がつらかった。電車が空いていても、座ると立てないからいつもドアの近くに立ってたな。

コルトレーンが「A Love Supreme」を吹き終わる。

スポティファイが次の曲をかける。nujabesの「reflection eternal」。陰鬱なピアノ。機械的なハイハット。

あしたは仕事だ。

7時起きだ。つらい。

帰ったら風呂を沸かそう。0時前には寝よう。スマホを触りすぎないこと。

光が見える。

近づいてくる。出口だ。信号が見える。西日を浴びた交差点が見える。

「左折ですか?」

サワムラーがきいた。

「左折」

僕は答えた。

サワムラーがウィンカーを出した。交差点に入る。

交差点を曲がる。







          






天井。

見なれた天井。

見なれた天井の木目が、窓からの朝日に照らされて静かに渦を巻いている。

起き上がる。

お腹のあたりから、不機嫌そうな声が聞こえる。スイクンだ。スイクンはあくびをすると、僕の体を踏みながら伸びをし、鼻をすんすんさせて台所の方へ歩いていく。

「起きましたか」

台所から、ちゃんなべさんが顔を出した。

エプロンを着ている。三角巾をかぶっている。

「あ」

ぼおっとした頭で、僕はそういった。

「ジンジャーエール、飲みますか」

そういうと、ちゃんなべさんは台所に戻った。

コンロを点けるチチチチ、という音。

セミが鳴いている。

カーテンが揺れている。

背中に手をやる。汗でぬれている。けど、窓から吹く風でもう乾きはじめている。

「ちゃんなべさん」

僕はきいた。

「今日って何日ですか?」

「31日ですよ」

ちゃんなべさんが声だけで答える。

「ご予定でも? まだ寝てた方がいいと思いますけどね」

枕もとにバッグがある。それに手を伸ばし、スマホを取り出す。8月31日(土)。

夢だったのか。

カゼはまだ治っていなくて、うなされて見た夢だったのか。なにもかも。

本当に?

インスタを開いた。ちょうど8時間前に、サワムラーが投稿していた。クラブのような店にいる。ゴーリキー、オコリザル、ニョロボンとテキーラショットで乾杯している。「今週もおつかれ。これから地元のイツメンと死ぬまで飲みまーす」。

頭が痛くなってきた。

ふとんに仰向けになった。ぼすん、と音がした。

そのまま伸びをする。

筋肉がしびれる。関節が鳴る。体に血が巡る。

空をながめる。

雲が流れる。

まあいいか……と思った。

考えるのはやめよう。どうでもいいや。どうでもいい。

いい天気だ。

散歩でもしようかな。熱も下がったみたいだし、歩いたら気持ちいいだろう。河川敷にいこう。荒川まで歩こう。海は、もうしばらくいいかな。

「おまちどう」

ちゃんなべさんがホットジンジャーエールを持ってきてくれる。

ガラスのコップに、蜂蜜色のとろっとした液体。シナモンスティック。生姜のいい匂い。

「あ、ありがとうございます」

受け取ろうとして、スマホをバッグの上に置いたときだった。

ちゃり、という音がした。

「?」

コップを持ったまま、バッグの底をつまんだ。

バッグを引っくり返す。

ちゃんなべさんの背中が台所に消える。

レシート、飴玉、ペーパークリップ、紙くず。

そして最後に、バッグの底に引っかかっていたのだろうか、どこかで見たおぼえのある桜色がひとつ、出てきた。






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