Black Lives Matterについて思うこと
アフリカ系アメリカ人のジョージ・フロイドさんが警官に取り押さえられた際に死亡した件をきっかけに、世界中でBlack Lives Matterという運動が起こっています。私は差別は無くすべきだと思いますが、今のBlack Lives Matterに対する企業および世間の対応は、真の課題から目を背け、批判や被害を恐れた、触らぬ神に祟り無しというような対応に思えてなりません。
例えば、以下のような記事がありました。
実際に、アメリカを含む諸外国で1月以上の長期間生活した事はありませんし、肌の色や人種による差別が今現在どの程度あるかも詳しくは知りません。
一連の報道で、アフリカ系の世帯では、親は子供に警官との接し方や街の歩き方、身だしなみを教えると知りました。それらの記事を読むだけでも、私には胸が張り裂けそうで、非常に衝撃的で、悲しい気持ちになりました。なぜ、肌の色、人種やルーツが異なるだけなのに、こんな事が起こるのかと、ひどい国もあるんだと思いました。
でも、私自身よく考えると、積極的では無くとも差別的な振る舞いをしていないとは限らないと思いました。日本ではまだまだ祖父母以上まで全員が日本(もしくは中国や台湾、朝鮮半島などの日本近隣)にルーツを持つ人が多いです。そのため、日本でその他の地域の外見的特徴がある人は目立ちます。そして、日本人では無いと思い込みます。
今の世の中、片方の親が外国の方もいれば、両親共に外国出身でも仕事等で日本で生まれ育つ人もいると思います。それでも、日本人はそのような環境に慣れていないので、差別をしたい訳ではないのですが、外国出身と思い込み接してしまいます。
また、日本の文化は特殊であると自覚しています。それ故に、相手が外国出身だと思うと、自分の文化や言葉が通用しないのではないかと不安に思います。外国の方と接する時には、まるで外国に居るかのように慎重に行動します。
これらの事も差別と捉える事が出来るでしょう。決して積極的に差別をしたい訳ではありません。相手の事を知り、バックグラウンドを理解できれば、同じ日本人として接する事が出来ます。逆に、外国出身の場合も、差別をするのではなく、むしろわざわざ異国の地に来た来訪者に対して、親切心から対応を日本人とは変えています。しかし、この2つは同時には成り立たせる事の出来ないトレード・オフな関係です。
どのように接するべきか、答えは無い難しい問題です。
さて、一方世界ではBlack Lives Matterに対して、過剰とも言える反応が起こっていると感じています。その1つが先程の記事であり、他にも、アカデミー賞やミス・コンテストなどでは、その年の情勢によって受賞する人種が大きく左右されているようです。そして、それを逆手に取り、受賞の為にわざと主演の人種を合わせにいくような事も行われているそうです。
そもそも差別とは何でしょうか?
解決すべき問題は何でしょうか?
有色人種をグランプリに選べば解決するのでしょうか?
アカデミー賞を受賞すれば解決するのでしょうか?
化粧品からホワイトニングの文字を無くす事を世界は望んでいるのでしょうか?
人にはそれぞれ個性があります。外見も内面も個性があります。つまり、多かれ少なかれ、差はあります。
同じ人種と比べて、異なる人種間ではその差は大きくなります。
これらの差について、妥当性もなく他者を攻撃したり、抑圧したり、分類して決めつけるのは差別です。
肌の色が異なるから、反発してくるかも知れないと思い、警官が強く押さえつけるのは差別です。LGBTに対して、彼らの思想が理解できないからという理由で、昇進の機会を与えないのは差別です。年齢を理由に妥当性も無く給与を決めるのも差別ではないかと思います。
しかし、暴漢の体格が良いから二人がかりで取り押さえるのは差別ではないでしょうし、LGBTの方が専用の更衣室が欲しいと要望した際に、予算の都合で間に合わせの部屋をあてがうことは差別ではないでしょう。また、経験、信頼や成長性という理由で年齢による給与の格差があることは妥当といえるでしょう。
肌を白くしたい人はホワイトニングを、黒くしたい人は日焼けをすることも全く問題ないと思います。
差がある事も、その差によって対応が異なる事も問題では無いはずです。
もし、差が問題なのであれば、バスケットゴールは地上1mにして欲しいです。アジア人に不利過ぎます。野球も140km/hの球速制限を付けて下さい。100M走も体重別にしてください。アメリカの大学の入試を英語以外でも可能にして下さい。親からの相続は1000万円以上は禁止にしてください。美男美女だけモテるのはズルイので、私のような人ともランダムにデート出来るようにして下さい。
差を認めないというのはこういう事です。個性を認めない社会が、理想の社会とは思えません。
差別を無くす為には差がある事、個性がある事を認める事から始まると思います。肌の色、身長などの容姿、性格や文化などの内面は一人ひとり異なります。日本で2mを超える身長の人が目立ちたくないと言っても無理があります。美女がナンパされたく無いと言っても無理があります。低身長の女性がNBAでダンクを決めたいと言っても無理があります。
相手の個性を認め、自分の個性を認めるべきです。個性を明確にする事は差別ではありません。むしろ差別解決の為の第一歩となるはずです。
ただし、美女だからといって、男を手玉に取って遊んでいるとレッテルを貼るのは差別ですし、低身長だからという理由でバスケット部の入部を拒否するのは問題です。指導者が見れる人数に限りがあり、入部テストを行い、現在の実力や成長性の観点から総合的に判断して落ちてしまったら、それは差別ではありません。
記事の件で言えば、声優は声で判断されるべきです。もっといえば、映画というビジネスが成功すれば何でも良いと言えます。日本ではよく有名芸能人を起用しますが、それを目当てに集客できれば、例え演技が下手でも、原作ファンとしては残念ですが、全く問題ないと思います。ビジネスなので、ビジネスとして成功することが正解です。役者には何の罪もありませんし、どんな人種、性別、年齢であっても差別では無いはずです。そんな事を言ったら、1人で7役を演じたナッティプロフェッサーのエディー・マーフィーは飛んだ極悪差別主義者です。なぜ、堂々と実力で役を勝ち取ったから、問題ないと言えないのでしょうか。むしろ、同じ人種は同じ人種で吹き替えるべきというのは、差別的です。演技等ではなく、肌の色しか見ずに、肌の色で分類しようとする差別主義者だと思います。このような事を称賛する世間は、私はおかしいと思います。
ある意味でこれからは、『差別をしてないよビジネス』の時代なのかも知れません。差別をしていない事を全面的に過剰に訴え、世間の注目と支持を集めるという集客方法です。この『差別をしてないよビジネス』は、差別の被害者ではなく世間の反応しか見ていない、あくまでビジネスである事から、私はあまり素晴らしいとは思いません。
差別を無くす為には、その初期段階で多少過剰に行う必要があると言われています。例えば、日本でも、女性差別撤廃の為に、女性を優遇する法律などがいくつかあります。私はこの手法が好きではありませんが、世間的に正しいと信じられているので、ある程度は仕方のないことと諦めています。
人種差別の問題でも、同様に多少過剰に反応することは必要な事かも知れません。しかし、本質を忘れて、ビジネスや一部の利権の為の運動に移り変わっていくのは、残念に思います。
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