涙を流さないことが増えた
小さい頃は、よく泣くタイプだった。悔し涙も嬉し涙も。
運動会で負けては泣き、友達から手紙をもらっては泣き。
涙もろいのはずっと続いて、2,3年前まではちょっとしたことでもよく泣いていたなあと思う。
でも、気づけばここ数年はあまり涙を流さなくなった。
ここ1年で何回涙を流しただろう。10月にリトグリの9周年ライブに行ったときと、3月に高校の友人のダンス公演を見に行ったときかな。
ジェバレコーヒーを廃業すると決めたときも、地震で地元が被災したときも、仕事として国際協力に関わり続けられることが決まったときも、涙は出なかった。
そんなことにふと気づいて、原因を考えてみた。
日々の出来事に感情が動きにくくなったとは考えにくい。今でも、自分の等身大の感情を大事にして生きているはず。
涙は流れにくくなったといっても、言葉で表しきれない感情は日々溢れるほど受け取っている。
自分で自分を信じるのが怖くなったからじゃないか。そう思った。
自分の感情に素直に生きたいけど、感情に支配される自分にはなりたくない。だから、涙を流すことで自分の感情に気づくのが怖かった。
10月のライブでは、流した涙はリトグリの歌声が掬い上げてくれた。
3月のダンス公演も同じで、涙はステージ上で弾ける友人の一挙手一投足に昇華されていった。
でも、ジェバレ廃業も地震もキャリアも、そのタイミングで涙を流したら、その涙に対する責任は自分で取らないといけない。
ジェバレを通じて実現したかった未来を、別の形で追い求めるように。
被災した地元に対して、思いを持って関わり続けられるように。
覚悟を持って国際協力に携わり続けられるように。
もちろん自分なりに信念を持って生きているつもりだから、それぞれの経験を自分の中でちゃんと位置づけているし、自分で自分に納得できるように1つ1つ選択してきているつもりだ。
でも、ふとしたときに怖くなってしまう。
多分心のどこか、本当に隅っこのほうにちょっとだけ、全部投げ出してしまいたい思いが残っている。
その小さくとも大きいスペースがなくなってしまうことを恐れて、涙を流せなかった。
きっとこれが一番しっくりくる結論だろう。
最近、なんとなくすごく気が合う人との出会いがあった。
まだ2回しか会っていないけれど、きっとこの人との関係性は長く続いていくんだろうなと、直感で感じるような人。
その人が、「せっかく人生生きてるんだし、できるだけ楽しんで生きたい」という旨の言葉をくれた。
一言一句同じわけではないけど、あくまでニュアンスで。
ジェバレ時代によく学生起業家さんと接する機会が多かったから、この類の言葉はよく聞いていたのだけど。
でも、彼らはどこかで自分と異なるタイプの人たちなんだろうなとは感じていて (違うから悪いというわけでは決してない、寧ろ違うからこそおもしろかった)、自分と似たタイプだと感じている相手から受け取るその言葉は、驚くほどスッと自分の中に入ってきた。
きっと、使っている言葉は同じでも、その定義は人によってかなり異なっていたりするのだろう。
感覚的な話にはなるが、「楽しむ」という言葉は、特に使う人によって意味合いが大きく変わってくるものだと思う。
最近出会ったその人にとって、「楽しむ」という言葉が何を意味するのかは、正確には分からない。
でも、その人のおかげでスッと入ってきた自分にとっての「楽しむ」は、常に笑顔でいるとか、自分のありたい自分であり続けるとかいうことではなくて、どんな自分も、どんな相手も愛し続けること。
すなわち、地に足をつけて生き続けること。
自分という器の中には、涙を流したいほどまっすぐな思いを持った自分もいれば、涙を流すことを怖がるような自分を信じきれない自分もいる。
どちらかがダメなわけでもなくて、どちらも自分。
そうやって自分を認めてあげることで、きっと人生を楽しめるようになっていくのだろう。
次に涙が流れるのはいつになるだろう。
ちょっと楽しみになってきたかも。