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【ショートショート】滑落(1,358字)

滑落

かつ‐らく〔クワツ‐〕【滑落】
[名](スル)登山の際に足を踏み外したりして、急斜面を滑り落ちること。「滑落事故」

デジタル大辞泉より)

ある日、直角三角形の斜辺AB上に存在していた点Pは、斜辺から滑落してしまった。

そこは何もない、問題用紙の余白である。まずいことになったぞ、と点Pは考えた。これではどう動くこともままならない。何もない空間に存在する点Pが動いたところで、どんな数学的問題も組み立てられないからだ。

「あるところに点Pがいました。この点Pが点Qまで進む時速を求めなさい」

いや、こんな問題どうやって解けばいいんだ。速度どころか、始点すら定められていないじゃないか。

直線ABから解き放たれただけで、こんなに不自由を強いられるとは思わなかった。こんなことなら毎日毎日「今日もレールの上を歩く人生かぁ、つまんねぇなぁ」なんてくだらないボヤキを入れるんじゃなかった。

「そんなことを言ってはダメよ。私がいるじゃないの」

いつもそう声をかけてくれたのは愛しの点Qだ。確かに、点Pの行くところ、必ず点Qは待ってくれていた。けれど、それだけだ。どんなに苦労して点Pが点Qのところにたどりついても、二人が結ばれることはなかった。

どんな童話も王子さまとお姫様は結ばれ、幸せに暮らしましたとなるはずなのに、点Pと点Qにはそれが無かった。無ければ、また別の数学の問題で離ればなれにされるだけだ。そして、くっついては離される。その繰り返し。

「俺はもう、嫌になっちゃったよ」

そう呟いたのが、点Pの運の尽きかもしれなかった。あの呪いのような直線ABから解き放たれ、そして点Qからも遠く離れてしまうことが、こんなにも孤独だとは思わなかった。もしもこれが数学でなく国語だったら、そんなに悲しい詩が綴られていたことだろうか。

いや、待てよ。点Pは考えた。そもそも数学の世界じゃなきゃ俺は生きられないなんて、誰が考えたんだ。これが国語だったらと思うなら、国語の世界に変えてしまえばいいじゃないか。

「直線ABから解き放たれた点Pの気持ちを考えなさい」

そういった問題になら、なれる気がする。そこに点Pは、新たな存在の可能性を考え始めた。

もしかしたらこの世界には、直線ABよりもさまざまな道が存在しているかもしれない。曲線RSか?波線VWか?いや、もはや線という概念からも解き放たれてもいい。空間Oの中で、自分は自由に動いていいんだ。

まっすぐじゃなくてもいい、ぴょんぴょん飛び跳ねてもいい。そしてその自由な空間の中で、また点Qにも巡り会えるかもしれない。そしたら俺は、彼女に愛を誓うんだ。もう、一生離れないぞ。君をどこへでも連れて行ってやる。そんな、男らしくカッコイイセリフだって言えるようになるはずだ。

さあ、そうと決まれば冒険に出発だ。点Pが、浮足立って空間を飛び跳ねようとした、そのときだった。

「あれ、なんだこれ、印刷ミスかな」

教師が問題用紙の空白にあった点Pを、修正液で塗りつぶした。そして直線AB上には、新たな点が書き込まれた。その名は点I。これからは点Iが、直線AB上で新たに生を受け、生きることとなったのだ。

点Pは消滅した、永遠に。

直線から滑落してしまった愚かで不幸な点Pのことなんて、誰もがその存在そのものを忘れてしまったのだ。

(完)


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