【佐賀弁小説】深淵(3,421字)【投げ銭】
※本編のセリフはすべて佐賀弁で書かれています。読みづらいところや意味のわからない箇所などございましたら、できるだけルビや注釈(※)を付けますので、ぜひコメント等でご指摘ください。
「さぁさ、食びゅう食びゅう(※食べよう食べよう)!」
母はいつもよりもテンション高めで、まるで歌うように言いながらエプロンをほどき、わざとドカッと音を立ててキッチンチェアーに腰かけた。夕飯は、山のように盛られた肉野菜炒めだ。
「オカン、何か嫌なことでもあったと?」
「え? 何(なん)が?」
「例えばさ、山中さんにフラれたとか」
僕は、母がよく同伴してもらっているというお客さんの名を挙げた。
「山中さん? 誰(だい)ね? そがん人(※そんな人)の話ば、したっけ?」
やれやれ図星か。ごめん、何(なん)でんなか。僕は言い、肉野菜炒めとの格闘を開始する。
普段もだいぶガサツな母が炒めた料理は、野菜なんかほとんど生焼けで、いやに歯ごたえがある一方、肉はところどころコゲていた。肉汁も流れてしまっていて、口にするとほとんどパサパサだ。
深い絶望というものは、例えばそんな日常の風景の中にこそ存在しているような気がする。
本人達には見えてないだけ。ハタから見ても何が起きているかわからない。しかし一度その深淵の蓋(ふた)を開けてしまうと、高い熱を帯びた、赤黒くねばねばのゼツボウという物質が、次から次にあふれ出してくるのだ。
それを目の当たりにしたとき僕らは、ただ泣き叫ぶしかない。体裁なんか取り繕うことは出来ない。ただカッコ悪く、汚らしく、そして人間らしく鼻水を垂れながら、わんわん泣き叫ぶしかないのだ。
※
「オイも、その深淵の蓋の開くとこば、何べんか見たことあるたい」
僕が幼い頃、爺ちゃんは言っていた。
「どがんやった? えすかった(※怖かった)?」
「ああ、えすかった」
「しかぶった(※チビった)?」
「ああ、しかぶったの」
「爺ちゃん、大人のクセにしかぶったと?」
「馬鹿たれ。大人やけんて、そがん(※そんな)えすかとから免(まぬが)るって思うたら大間違いばい。そいこそ、とんだオゴリたい」
おごおり?
まだ幼かった僕は、福岡の小郡(おごおり)市のことかと思った。今はもう勘違いだったとわかっているが。
「ねぇねぇ、そいで、どがんときに開くと? その蓋は」
「ああ、弟ば戦争で失くした時とかな」
「爺ちゃん、弟おっと?」
「おった、と。もう死んだ。戦争の終って、しばらく経(た)ってからやなかったかな。シベリアに抑留(よくりゅう)されとったとくさ、弟は」
「よくりゅう?」
「捕まっとったとくさ。そいで、そこで死んだ。そがん連絡だけ、政府からきたとばい」
「シベリアで死んだと?」
「そう。遺体もなんも帰ってこんやった。やけん、いっちょん(※ぜんぜん)実感も何も湧かんやった。ああ、そうか、いつ帰ってくっとかなーて思うとったばってん、もう帰ってこんとやなーて」
ずずず、とそこで爺ちゃんはお茶を飲んだ。熱い梅こぶ茶。特に、僕だったら舌が火傷するくらい熱いお茶を、爺ちゃんは好んだ。もちろん風呂だって熱くなければ、よく婆ちゃんを叱った。
「不思議な感じたいね。そんとき爺ちゃんは、爺ちゃんのオカンと妹と3人で暮らしとった。家族のおっだけ(※家族がいるだけ)、幸せやったさ。隣ん家(ち)は奥さんだけ生き残って、旦那も子どもも出兵して死んだとか聞いたしな。そいに比べたら、親父は死んだばってんウチはまだ幸せて」
ずずず、再び爺ちゃんは梅こぶ茶を飲む。
「そいぎ、そのうち弟も帰ってくって思うとったとくさ。そいぎん(※そしたら)また、ちょっとは明るか気持ちになっこっちゃい(※なるだろうか)て思うとった」
「ばってん、帰ってこんて、わかったとやろ」
「やけんさ。不思議かとさ。帰ってくって思うとる間も、もう帰ってこんてわかってからも、家族の人数は変わらんたい。オイやろ、妹やろ、オカンやろ。ちゃんと3人で、家は埋まっとったとくさ」
そこで爺ちゃんは、鍋敷きの上から梅こぶ茶の入った急須をどけた。一体何をするのかと思って見ていたら、カゴの中からミカンを3個取り出して、鍋敷きの上に置いた。
「こいがオイやろ、妹やろ、オカンやろ」
そして一つひとつを指差し、そう言った。うん、と僕はうなずいた。ハッサクほど大きなミカンを3つも置いた鍋敷きは、少しせまそうに思えた。
「こがんしてな、ちゃんと埋まっとったとくさ。ばってん、弟の死んだ。弟の死んだて聞いてんがさ(※聞いてもさ)、家はこがんして埋まっとっわけよ。オイと、妹と、オカンと」
「そいぎ、何も変わらんやん」
「そがんくさ、何も変わらんて思うろうが、見かけは。ばってん、変わってしまうさ。そいが不思議なもんくさ」
そう言われて、僕は鍋敷きの上のミカンを見た。変わると言ったって、一体何が変わると言うのだろう? 置かれていたミカンが、一つ皮が剥かれたわけでもない。ただ、そのことこそ、爺ちゃんが僕に伝えていようとしているものだった。
「そいぎん、深淵の蓋の開くとくさ。こがんしてな、ごごごごごーって!」
爺ちゃんは鍋敷きの端を掴むと、ぐらぐら揺らし始めた。上のミカンが、一つコロリと転がった。爺ちゃんが、オイやろ、と言って指差したミカンが。
「あっ、爺ちゃん転がったやん」
それは、わざとだったらしい。
「そがんさ、オイはこのミカンのごと(※ミカンのように)、家ば飛び出した。なんでそがんことしたかは、わからん。多分、蓋の開く勢いに押されたたいね。そいで気づくとオイは、電車に乗って、小倉まで行っとった。そこで、太(ふと)か鉄鋼会社の社長に頭ば下げて、ここで仕事ばください!とか言うとった。そいまでは、政府からもろうた金で、なんもせんでボケーッと暮らしとったとけさ」
「へぇ、良かったやん。真面目に働くっごと(※働けるように)なって」
「そがんこっちゃいなぁ(※そうだろうか)、良かったとかもわからん。ばってん、何かきつかったね(※苦しかったね)、くる日もくる日も。どがん働いても、働いても、なんも実感の湧かんとさ。オイは生きとっとこっちゃい、死んどっとこっちゃい(※生きているのか、死んでいるのか)。ひょっとすっぎ(※ひょっとすると)、死んだとはオイやったとかもしれんとか思うて。弟は生きとって、もう帰ってきとっとかもしれんとか思うて」
ずずず……すうすう。お茶が切れたようだった。僕は急須を持ち、お茶を淹れてあげた。
「ばってん仕事の終わって、幽霊んごとして(※幽霊のようにして)フラーって家まで帰ってくるやんね。そいぎ、『あんた今までどけ(※どこ)行っとったと!?』て、オカンも妹も心配すんやんね。そうか、心配されとってことは、オイは生きとっとか。そいぎ、『弟はどけおっと?』て、頭んボケたごとして聞くぎんさ、『何ば言いよっとね……次郎は、次郎はシベリヤで死んだやんね!』て」
爺ちゃんは目に涙を浮かべた。
きっとそれが、深淵の蓋から湧いた絶望に、絡みとられるということだったのだろう。
※
「今さ、山田さんってお客さんと仲良かわけよ~!」
また今夜も、オカンは別の男の話をする。
なぜオカンは、女手一つで僕を高校に通わせるためとはいえ、水商売なんか始めたのか。人付き合いに慣れていないオカンには、ぜったい向いていないと思えたのに。
今の僕には、それを理解できる気がする。オカンのその、作りものの笑顔の中に、そして毎晩作る適当な料理の中に、絶望が紛れ込んでいるからだ。
ちょうど1年前のことだった。各メディアが、あの絶望的なニュースを報道したのは。
カメラマンとしてシリアにおもむいた僕の父が、戦地で流れ弾に当たり、死んだというニュースを。
「風呂入ん前に、宿題すませとかんばよー」
2階の自室へと向かう僕の背中に、ご機嫌な声で歌うようにオカンは言う。また数日後には、それは妙なハイテンションな声に変わってしまうかもしれない。それでもまた、歌うように言うのだろう。
絶望を隠すためには、より深い絶望でそれを覆わねばならない。それが、深淵から覗き込まれないための、唯一の手段だから。
部屋に入り、机に着くと、いつものように鞄から取り出した絶望的なノートに、絶望的な筆跡を走らせる。
ラジオから流れるのは、ボブディランの「風に吹かれて」。よく聴く音楽だなとは思っていたが、それが反戦の歌だと知ったのは、つい最近のことだ。
How many ears must one man have Before he can hear people cry?
(どれほど多くの耳を持たねばならぬのか 他人の叫びを聞けるために)
僕は口ずさむ。
たとえその声が、絶望的に響いたとしても。
(完)
挿入歌:Blowin' In The Wind/Bob Dylan
歌詞引用元/http://20th-century.hix05.com/Bob-Dylan/dylan01.blowin.html
オリジナル版:
【作品、全文無料公開。投げ銭スタイルです】
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