映画「インサイド・ヘッド」を用いて考える、Mr.Children「シーラカンス」
ふとミスチルのシーラカンスを聴いている時にインサイド・ヘッドを用いた解釈が思い浮かんだので記しておこうと思う。
インサイド・ヘッドとシーラカンスの共通点
インサイド・ヘッドの劇中に出てくるキャラクター「ビンボン」と、ミスチルのシーラカンス中で歌われる「シーラカンス」をリンクさせて考えることができる。理解不足があるといけないから少しビンボンについて説明する。
ビンボンとは
要はビンボンとは、幼少期に作り出すイマジナリーフレンドのことである。劇中では、主人公の成長に伴ってその存在が消えて(=忘れ去られて)しまう。
シーラカンスの考察
1番Aメロ
ビンボンはライリーの頭の中で、思い出されることはないが生き続けている。また小さい頃には、一緒に虹の煙の出る車で月へ行くことを夢見ていた。
これらのことから思うに、「シーラカンス」とは「小さい頃に無邪気に夢見た大切な物」のメタファーなのではないかと推測できる。
1番サビ
ビンボンはライリーにとって、幼少期の大切な存在である。しかし、大きくなった今では思い出されることはなく、記憶のどこかに居るだけである。いくら幼少期に大切だったからと言って、成長してしまっては、大した意味を成さない。ここでも先ほどと同様に、シーラカンスとは「小さい頃に無邪気に夢見た大切な物」のメタファーである。
2番サビ
ここでは疲弊した歌中の主人公が、ライリーでいうビンボンのような存在を懐かしがり羨んでいる。シーラカンス、すなわち「小さい頃に無邪気に夢見た大切な物」が、これからを生きていく上でも大切だとここで気づく。
最後のAメロ
インサイド・ヘッドで言うと、ビンボンが消滅するシーンだ。小さい頃に無邪気に夢見た大切な物は今となってはもう機能しないけれど、それに相当する大切な気持ち、愛する気持ちなどが愛する人に投影される。
ずっと歌われる「シーラカンス」とは結局なんなのか
簡潔に言うと、シーラカンスとは生きていく上で大切な存在のことだ。小さい頃は無邪気に夢見たあれこれで楽しく生きているが、大人になるにつれて現実を見て、だんだんと無邪気さは失われる。しかし、歌中で言うと、愛する人の存在により少し生きる気力が戻ってくる。よってこの歌は人生の歌であり、強烈なラブソングである。
※アイキャッチ画像は霧ヶ峰
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