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尾張藩7代藩主「徳川宗春」

徳川 宗春(とくがわ むねはる)は、尾張徳川家第7代藩主。尾張藩主前は御連枝である大久保松平家当主(陸奥梁川藩主)。
尾張藩主就任時に規制緩和政策をとった宗春は、質素倹約策の8代将軍徳川吉宗とよく対比されるが、幕府が元文の改鋳で金融緩和をした際には、尾張藩では引き締め政策を行っており、単純な規制緩和ではなかった。

元禄9年10月28日(1696年11月22日)、尾張藩第3代藩主徳川綱誠の二十男として名古屋で生まれ、萬五郎と名付けられる。母は側室の梅津(宣揚院、遠州掛川横須賀浪人三浦太次兵衛嘉重の長女)。元禄11年(1698年)に祖母の千代姫、翌元禄12年(1699年)に父の綱誠、元禄13年(1700年)に祖父の徳川光友が相次いで没した。
宝永5年(1708年)11月、兄で第4代藩主の吉通より偏諱を受け、諱を通春とする。吉通は奥で夕餉を摂る際には宗春と共に食事をしたほど、末弟の宗春を可愛がった。正徳2年(1712年)兄通顕(のちの徳川継友)・通温は江戸に下向し従四位下に叙任され、譜代衆となるが、宗春は名古屋に残されたままとなる。
宝永6年(1709年)3月、久留米藩主有馬則維から、尾張藩御連枝筆頭四谷松平義行宛に、万五郎を仮養子に迎え、そののち正式な養子にしたいという申し出があった。しかしこの話はたち消えている。
翌正徳3年(1713年)4月に江戸へ移り、星野藤馬を小姓とする。閏5月、江戸に下向した際に同道した尾張藩士2人が吐血頓死・割腹自害する事件が起きる。同月に尾張藩御連枝梁川藩主松平義昌が逝去し、7月には尾張藩4代藩主の兄・吉通が薨去する。さらに10月には、甥で吉通の跡を継いだ5代藩主五郎太が逝去し、兄・通顕が継友と改名して6代藩主となる。12月に元服し、求馬通春と名乗る。正徳6年(1716年)2月に第7代将軍徳川家継に御目見し、3月に譜代衆となり松平求馬通春を名乗る。同年改元後、享保元年(1716年)7月に第8代将軍徳川吉宗当時の幕府の奏請により従五位下主計頭に叙任される。
享保3年(1718年)4月、疱瘡に罹るが、まもなく回復する。同月、兄・通温が名古屋城下に蟄居謹慎となる。12月、従四位下に叙任する。吉宗から特別に鷹狩の獲物を数度賜り、吉宗お気に入りの譜代衆と共に紅葉山東照宮の予参を命じられるなど、御家門衆として将軍吉宗に大切にされる。享保13年(1728年)、実母の宣揚院を見舞うため名古屋へ下向する。

享保14年(1729年)6月、梁川藩第3代松平義真が没し、梁川藩大久保松平家が断絶する。8月に吉宗から肝煎りで梁川藩3万石を改めて与えられ、大久保松平家を再興する。12月に従四位下侍従に任官し、大広間詰めとなる。

享保15年(1730年)9月、日光社参。11月27日に兄・尾張藩6代藩主徳川継友が没し、翌日継友の遺言ということで尾張徳川宗家を相続し、第7代当主徳川通春となる。享保16年(1731年)正月、公儀の法度・代々の法規を守るべきこと・藩邸内での歌舞音曲の許可・夜の外出の許可・本寿院の蟄居を解く令を出す。同月に正四位下左近衛権少将に叙任する。続けて従三位左近衛権中将に叙任する。将軍吉宗より偏諱を授かり、徳川宗春を名乗る。3月、従三位参議(宰相)・左近衛権中将に叙任する。同月、政治宣言の著述『温知政要』を著す。同年4月、名古屋城へ入る。名古屋入府の際の宗春一行は、華麗な衣装を纏い、また自身も鼈甲製の唐人笠と足袋まで黒尽くめの衣装(金縁・内側は赤)と漆黒の馬に騎乗していたという。
宗春は名古屋に戻ると、4代藩主吉通の御簾中瑞祥院(九条輔子)の実家の九条家に3千両を寄付し、朝廷との関係を大切にした。名古屋城下では、東照宮祭・尾張祇園祭(若宮祭・三之丸天王祭)・1ヶ月半にも及ぶ盆踊り等の祭りを奨励した。また、女性や子供が夜でも歩ける町にするために、提灯を城下に数多く置いた。継友時代に廃れていた御下屋敷(名古屋城下、藩主の隠居所)を建て直し、そのお披露目の際に城下の女性と子供を呼んで踊りの大会を丸2日間行わせ、その際に奉行以上の重職たちにも閲覧させている。藩士に城下の芝居などの見物も許可した。
当時の幕府は享保の改革を推進する将軍徳川吉宗のもと、老中松平乗邑の主導で質素倹約規制強化が徹底しており、祭りや芝居などは縮小・廃止されていた。それと全く逆を行く宗春は、規制緩和をして民の楽しみを第一に政策を進めていく。緊縮財政・法規制の強化をする幕府に対し、開放政策・規制緩和(消費奨励ではない)の尾張藩となっていった。ただし規制緩和のみではなく、神社仏閣への公式参拝には束帯騎馬の正装で赴き、幕府の法令も先回りするなど、宗春は幕府に対立する姿勢は全く見せていない。むしろ幕府の法令を遵守するように命じて、大切な形式はしっかりと守っている。一方、巡視などでは朝鮮通信使の姿・歌舞伎・能の派手な衣装で出向いたり、時には白い牛に乗って町に出たり、民衆が喜ぶ服装を工夫した。名古屋城下郊外に芝居小屋や遊郭等の遊興施設を許可するなど規制緩和政策は、商人たちに受け入れられ、名古屋の町は賑わっていった。

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夢童由里子作からくり人形「宗春爛漫」大須観音境内

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このように積極的に町を活気づける政策をとってきた宗春も、やがてみずからの路線を変更せざるを得なくなる。宗春によって突然無制限に与えられることになった芝居や遊廓の楽しみは、一方では町の繁栄を推進するものであったが、他方で、それに溺れて武芸・家業をおろそかにし、争いごとを起こしたり、困窮におちいったりする人々を生み出し、風俗の悪化を招いた。その上、宗春のはなはだしい浪費は、藩の財政を破綻させつつあった。宗春が発足させた独自の政策は、行き詰まりをみせてきた。政策変更のきざしは、享保19年(1734年)4月、藩士に対して遊行(興)所徘徊を慎しむことを命じた(『御日記頭書』、ただし『遊女濃安都』はこの仰出を享保20年とする)ときからみえ始めた。翌享保20年(1735年)3月28日には、家臣に対して遊所見物所、すなわち遊廓や芝居場所を徘徊することを、はっきりと禁止した。以前から宗春は、遊興は、あくまでも武芸・家業に励んだのちの楽しみとして認めるのだと「御咄書」などで諭していたし、膝だけ白い紺股引をはいた側組足軽二人に町中を巡回させて、人々が逸脱しないよう気を配っていたのであったが、そういったことでは間に合わなくなってきたの である。さらに翌享保21年(1736年)三月には、家中・寺社・百姓・町人に対して、「遊所見物所を免許して風俗も温和になるかと期待したが、過分の金銀を使い捨て、奉公の勤めを欠く者が多い。他の批判ももだしがたいので、遊女や茶屋女を置くことを禁止すべきかと思う程である」と警告した上で、同月、「西小路・冨士見原・葛町の三廓を廃止する。しかし突然のことで難儀をする者も多いであろうから、憐愍の上、右三か所のうち、いずれか一か所につぼめて営業することを許す。芝居は、古来あった分はそのままでよいが、新規の芝居小屋は取り払うように」との法令を発した。そして追い打ちをかけるように同じ月に「京都大坂伊勢から招き寄せた遊女茶屋女を、4月中旬までに残らず送り返すように」との命令を出したのであった。ところが期限切れ2日前の4月18日、西小路から火災が起こり、遊廓の多くを焼いた。このため西小路はもちろん冨士見原・町の茶屋も撤退し、三廓の地はもとの空地になってしまった。撤退した業者の多くは、橘町・門前町・日置村などに引っ越して、料理茶屋の名目で密かに遊女を置いていたのである。なお享保20年(1735年)9月、将軍吉宗から宗春に薬用人参(いわゆる御種人参)七本と甘草一〇本の苗が下賜された。ちょうど宗春が政策転換をはかった時期のことである。藩ではこれを御下屋敷薬園に植えて大切に育て、やがて栽培に成功する。栽培が宗春の意志によるものか、藩の重臣の意志によるものかさだかではないが、宗春が好んで住居とした下屋敷に植えたことからみて、やはり宗春自身が将軍と融和してゆく方向に政策を転換したことの一つのあらわれとみてよいであろう。

しかしそれでも宗春は、独自の路線を全くあきらめたのではなかった。藩主となって 宗春が打ち出して来た政策は、藩の行政機構を担っている重臣たちにとって、とてもついて行くことのできるものではなかった。まして幕府と対立するに及んでは、藩の存在そのものがおびやかされるという危機意識を、重臣たちはもったであろう。とりわけ藩初から付家老として、とくに幕府から尾張藩に付属せしめられ、藩主を補佐するとともに藩主の言動が幕府の政策に違反しないよう輔導することを任務とした成瀬・竹腰両家は、ことごとに宗春に諫言し、彼の行動を制約したと考えられる。このため宗春にとって、旧来の藩の行政機構を通じて彼の政策を実現することは、ほとんど不可能であった。 宗春はみずからの小姓であった星野織部を取り立て、用人から側同心頭、年寄役並と昇進させ、石高も5000石にまで加増したのであるが、それだけではとても重臣らに対 抗できるところまではいかなかった。 宗春は権力基盤を確立する必要を感じ、旧来の行政機構とは別個に、藩主の意向を直接実行に移すための機関として、橘町役所を元文2年(1737年)10月開設した。宗 春側近の五十人頭幡野弥兵衛、側足軽頭千村新平の二人を長(吟味役)とし、配下の足軽には「吟」という字を付けた羽織を着せて町を巡回させた。役所の主たる活動は警察活動で、役所前で追放刑が執行されているので刑罰権も行使した。しかも旧来の役所の裁許を再吟味する権限も持ち、旧来の行政機構を骨抜きにするものであった。そうしなければ自己の政策を実現できないことを、宗春が痛感したからであろう。しかし現場では混乱が生じたし、新役所の陣容は貧弱で、旧来の組織に対抗できるようなものではなかった。その上、旧来の行政組織を担っていた重臣らの反撃も、当然予想されるところであった。またこの頃になると、宗春の放漫財政の結果、藩には多額の赤字が累積されてきていた。その上、養女近姫の婚礼のための費用も必要となり、ついに元文2年(1737年)6月には領民に借上金を課すことになった。すなわち蔵入地の村々からは、年末に徴すべき堤銀を担保として村々高割で計金4000両を、給知の村々からは利息を付ける約束で文銀4000両を借り上げたのである。さらに同年12月には、員数金と称して、村々から年貢米を担保に1万両を借り上げた。

享保年間の後期から元文当時の幕府は、朝廷と対立しつつあった。朝廷内では親幕府派の近衛家と、反幕府の霊元法皇が激しく対立していた。近衛家熙が薨去した後は、桜町天皇側近で霊元法皇の強い影響下にあった一条兼香を中心に朝廷は動き始めていた。
幕府は、水戸藩から上程された『大日本史』の出版許可を朝廷に求めた際に、有職故実の大家でもあった霊元法皇門下の一条兼香(当時大納言)に裁可を仰いだ。10年間放っておかれたが、再度許可願を出した。南北朝問題があり、一条兼香(当時は右大臣)は不許可とする。ところが、幕府は朝廷の許可を得ないまま、その3年後に『大日本史』を出版をしてしまい、朝廷と幕府の間は緊張関係に陥った。尾張藩は代々朝廷と深いつながり(五摂家の九条家・近衛家・清華家の広幡家・羽林家の正親町家)を持っていた。
そのような状況で、実弟の石河政朝が幕府中枢にいた御附家老竹腰正武をはじめとする国元の藩重臣は、宗春の失脚を画策する。竹腰正武は吉宗と計画したと言われるが、宗春に引き続き、もう一人の御附家老成瀬正泰(当時は正太)が参勤交代で江戸に移った直後の元文3年(1738年)3月、宗春は参勤交替のため江戸に赴いた。その留守を幸いに6月、評定所へ一役一人ずつが呼び集められ、家老から驚くべき指示が出された。「新規に仰せ付けられた御用は、お差し止めになった。今後 は古来(すなわち宗春より前)の通りに取り扱うこと。今まで(宗春の)御内意を伺っ ていたが、今後はその必要はない。今後は前々の通りすべて老中(家老のこと)に申し 達すべきである」「夢之跡」と。宗春の政治のすべてを家老が否定し、今後はすべて家老の指図で政治をおこなうことを宣言したのである。家老らが藩主の藩政に関する実権をすべて奪ったのである。これはまさにクーデターというべきものであった。幕府においては綱吉から吉宗に至る時期、従来の譜代大名(老中)合議制を骨抜きにして、将軍専制政治への道が開かれていったのであるが、宗春もまた藩主専制政治を目指して、家老らの反撃により見事失敗してしまったといえよう。このような政変は、もちろん藩の重臣だけでできるようなことではなかった。宗春の独走に危惧の念を抱いた重臣らが、幕府の後押しを得て決行したことであった。竹腰正武は、元文元年(1736年)江戸詰となって以来、老中松平乗邑と接触して宗春を退隠させる方策を練っていたといわれている。
この混乱に対し、宗春は琉球畳の祈祷所を建設し、毎日祈りを捧げたという。元文4年(1739年)正月過ぎから、将軍吉宗は恒例の行事を代理に任せて奥に引き篭ってしまう。
そして正月11日(1739年2月18日)、尾張藩の家老たちを江戸城に呼び出し、松平乗邑から蟄居謹慎の内命を受ける。翌正月12日に将軍吉宗からの隠居謹慎命令を広島藩主浅野吉長(宗春の従兄)・水戸藩御連枝陸奥守山藩主松平頼貞(宗春の異母兄松平義孝の娘の茂登姫は頼貞嫡男松平頼寛正妻)、同じく水戸藩御連枝常陸府中藩主松平頼幸により伝えられ、宗春は江戸の中屋敷麹町邸に、そして名古屋城三の丸の屋敷に隠居謹慎させられる。

6代継友の時期である享保3年(1718年)の収支は、金部門では収入11万9041両、支出10万5662両で差引1万3379両の剰余、米部門では収入13万970石、支出11万3741石で差引7229石の剰余があり、これを同年の米価1石=金2両で換算すると、総差引2万7837両の黒字となっていた。米部門の収入項日は年貢米越小物成・三升口米などの付加税で、支出項目は江戸下米や家中扶持米など。また、金部門の主要な収入項目は年貢金・三役銀(夫銀、堤.役銀、伝馬銀)などで、支出項目は江戸費用や諸役所経費・尾張家一族の入用・家臣団の扶持などであった。享保13年(1728年)も総差引2万8167両の黒字を計上していた。
だが、宗春が藩主を継いだ享保16年(1731年)は総差引2万7064両の赤字に転じ、隠居前年の元文3年(1738年)には、金7万4607両・米3万6489石余という巨額の累積赤字を出し総差引14万7585両の赤字となった。赤字補填のために領民に多額の借上金を命じて庶民の暮らしを圧迫することになった。
これを継いだ8代宗勝は倹約を続けた結果、延享4年(1747年)までに、金部門では2万8288両が不足するものの、米部門は11万4779石の剰余となり、総差引では1万3612両の黒字に転じることに成功した。

宗春は隠居謹慎後、父母の墓参りも含め、外出は一切許されなかったと言われているが、実際にはそのような粗略な扱いなどされていない。尾張藩の祈禱寺興正寺にも参拝記録が残っており、「父母の墓参りも許されなかった」というのも文献上確認できない。後に菩提寺である建中寺へお参りに行き、その時、市中の人々が提灯を軒先にならべて参拝を迎えた、という記録も残っている。
御連枝美濃高須藩主の松平義淳が徳川宗勝として後継となったが、宗春の養子という形式ではなく、尾張藩は幕府が一旦召し上げた上で改めて宗勝に下した。宗春は「尾張前黄門(前中納言)」と呼ばれるようになる。宗春の子供は8人のうち7人までもが、宗春の尾張在府中に江戸で亡くなっていた。
宗春の蟄居謹慎は6代藩主継友の実母・泉光院の三之丸の屋敷であり、時には藩主徳川宗勝より貴重な品々の贈り物があり、悠々自適の生活を送れていた。また、将軍吉宗が使者を遣わし、宗春の蟄居謹慎に「不足しているものはないか」「鷹狩や魚捕りが出来ずに気鬱にならないか」と、かなり気を遣って気色伺いをしたという記録もある。

平和公園内の墓(愛知県名古屋市千種区)

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宝暦元年(1751年)、吉宗が薨去する。宝暦4年(1754年)、御下屋敷(7万5千坪もある尾張藩歴代藩主の隠居所)へ移る。尾張徳川家菩提寺の建中寺への参拝、尾張藩の祈願所である八事山興正寺への参拝が許される。蟄居後の宗春は、茶碗を焼いたり、絵を描いたり、光明真言や念仏を唱えたりして、悠々自適の生活を送ったという。側室のいづみ(宝泉院:京出身、猪飼氏)と、おはる(貞幹院:元吉原太夫春日野、尾張藩士鈴木庄兵衛の娘)は最後まで宗春に寄り添った。
明和元年10月8日(1764年11月1日)死去。享年69(満67歳没)。

宗春が隠居謹慎し、宗勝が8代藩主となると名古屋は、宗春の残した莫大な負債を返済すべく、6代藩主継友の時代の法令が復活し、質素倹約が奨励される。そのため、名古屋城下の賑わいは火が消えたようになったとされている。
宗春が隠居して15年が経った頃、城下の商人であった小刀屋藤左衛門こと木全雅直が宗春の恩赦を願い出たがこの行動は罪に問われ、篠島に島流しとなった。その後も、歴代の尾張藩家老成瀬家(犬山城主)の当主なども幕府に宗春の恩赦を願い出ていた。また、宗春が隠居後初めて菩提寺の建中寺に先祖の墓参りに出たのは、宗春隠居後26年後の宝暦11年のことであったが、尾張の町内の者たちは宗春のために提灯を並び立てた。

延享2年(1745年)、吉宗は隠居して大御所となり、嫡男の徳川家重が将軍に就く。吉宗の治世後半の幕政を主導し、宗春を謹慎に追い込んでいった松平乗邑は、老中を罷免された。家重は御側御用人として大岡忠光と田沼意次を重用し、それまでの質素倹約による財政緊縮政策が徐々に転換していった。
宝暦10年(1760年)、10代将軍家治が就任する。家治の時代には、幕府の政策は田沼意次が主導し、重商主義政策へと転換していった。尾張藩では、9代将軍家重と同年同月の宝暦11年6月に、8代藩主宗勝が薨去する。そして、9代藩主宗睦が就くと、名古屋は宗春時代の賑わいを徐々に取り戻していく。宗睦は、尾張藩中興の祖とまで呼ばれるようになる。
隠居後も宗春は、将軍吉宗から拝領した朝鮮人参を下屋敷で大切に育てていたが、のち宗睦は宗春が育ててきた薬草園を用いて、名古屋の医学を大いに発展させる。

徳川宗春といえば、南山大学・名誉教授の安田文吉氏が第一人者として知られる。

徳川宗春の功績を多くの人に知って頂きたいという安田氏は、講演会活動、コミックの出版など、幅広く活動されている。平和公園にある宗春の墓の隣には、安田氏の解説文がある。

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#ゆたかさって何だろう

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