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春日神社と大直禰子神社
春日神社
天暦2年(948年)に、この地域の郡司(こおりつかさ)だった藤原某が大和国の春日神社から勧請して建てたと伝わる歴史ある神社。
神社は地下鉄上前津駅のすぐ隣にある。上前津は古くは前津と呼ばれており、それは古代すぐ南が海だった頃に津(湊)があったことから名づけられたと考えられている。熱田台地の東側は海が深く入り込んでおり、鶴舞公園の西あたりは浜辺だった。
前津は上前津、下前津に分かれ、中世に小林村と一体化して前津小林村と呼ばれた。
戦国時代の永禄年間(1558-1569年)、小林城の城主だった牧与三右ヱ門長清が社殿を再建したと『愛知縣神社名鑑』は書いている。
前津小林村には古くからの神社として、春日神社と三輪神社があった。そのどちらも牧長清が関わってくる。それだけでなく、富士浅間神社(大須)や石神社八幡社合殿でも牧長清の名前が出てくる。『張州府志』(1752年)は春日神社は牧長清が勧請したといっている。
一体、牧長清というのはどういう人物だったのか。本当にこれらの神社すべてに関わったのだろうか。
牧家は斯波氏と同族で、古くから尾張の地にいたとされているので、主要神社の創建に実際携わっているかもしれない。
知り合いに牧氏の子孫の方がいて、斯波氏の子孫だと聞いた。徳川家康の清洲越し以前は、牧氏がこの地を仕切っていたという事か。
江戸時代に入り、名古屋城が築城され(1610年)、城下町が発展して南に広がると前津小林村の西側は城下町に組み込まれる格好になった。春日神社も三輪神社も城下の神社となった。
尾張藩祖徳川義直の側室お尉の方(おじょうの方)は、身篭ると、安産祈願でこの春日神社を詣でたという記録が残っている。生まれた子は、二代藩主光友となる。
大直禰子神社(おおただねこじんじゃ)
江戸時代までは「おからねこ」と呼ばれる猫の神社だった。明治の終わりになって突然、うちは猫の神社じゃない、おからねこは言い間違いで、本当はおおただねこ(大直禰子)を祀る由緒正しい神社なのだと言い出した人がいて、周りもそうだ、そうに違いないと賛同して、大直禰子神社となった。
おからねこの由来についてはいくつかの説がある。
『尾張名陽図会』によると、昔、鏡の御堂と呼ばれるお堂があって、そこには本尊がなく、三方の上に狛犬(お唐犬)の頭が一つ置かれていた。それを「おからねこ」と呼んでいたという。
さらに『作物志』によると、まさに妖怪変化として「おからねこ」が存在したとされる。その姿は、牛や馬を束ねたほどの大きさ、背中に数株の草木が生えており、いずれの時からか、この場所から動くことなく居続け、一声も吠えず、風雨も避けず、寒暖も恐れないとされている。人々の願いを叶えてくれることは著しいが、その名前を知っている者はなく、その姿が猫に似ているので「御空猫」と呼び習わしているとしている。
この伝承が広く言い伝えられているせいか、本来は全く関係のない猫を祀る神社であると誤解されているところがあり、駒札にも猫とは無縁である旨の断り書きがある。
春日神社は、大須にあり、大直禰子神社は、上前津にあるが、昔は春日神社の一部にあった。
西山ガラシャさんの短編「おから猫」シリーズは、小説すばる今月号で第四作が公開されている。
登場人物は、尾張徳川家7代藩主徳川宗春公と畳職人と遊女の心中未遂騒動が不思議な猫によって絡んでくる物語。面白いので、ぜひご覧になってください。
歴史の舞台に思いを馳せて、ぶらりと散歩する神社。
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