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相応院「お亀の方」
徳川家康公側室。尾張藩祖「徳川義直公」生母。
名古屋の歴史に詳しい人でも、あまり知られていないのが、「お亀の方」。
「お亀の方」がいなかったら、今の名古屋は無いかも知れない。
名古屋は、徳川家康の天下普請「名古屋城築城」と「清洲越し」で生まれた町。
それを徳川家康に進言したのは、山下氏勝。
山下氏勝は、お亀の方の妹婿で、後に徳川義直の側役として支えた。
清洲から名古屋に遷府するプランは、お亀の方の指示であったと考えられる。
それほど、重要な役割を果たしたお亀の方の功績をもっと多くの方々に知って頂きたいと思う。
お亀の方は、石清水八幡宮の祀官家・田中氏の分家である京都正法寺・志水宗清の娘として生まれた。
若き日のお亀の方肖像(清涼院所蔵)
初めは竹腰正時に嫁ぎ、竹腰正信を生む。夫と死別後、奥勤めに入る。
その後石川光元の側室となり光忠を生むが、離縁後の文禄3年(1594年)、22歳の時、家康に見初められ側室に入り、文禄4年(1595年)に仙千代(6歳で夭折)、慶長5年(1600年)、尾張徳川家の祖である五郎太(後の徳川義直)を生む。
慶長15年(1610)、名古屋城が完成すると11歳になった義直は駿府から移り尾張藩の藩祖となった。
16歳の元和元年(1615)、大阪夏の陣の動員で世間が騒然としているとき、4月12日、名古屋城で結婚の儀式を挙げた。
新婦は春姫で、二つ年下の14歳であった。家康と一緒に駿府から祝いに駆けつけたお亀の方は、家康と並んで二の丸大手の櫓に上がって満腔の笑みうかべて花嫁の行列を眺めた。
家康が逝去したのはその翌年であった。お亀の方は髪をおろし相応院尼と称し、ここではじめて、義直とともに名古屋に移り住むことになる。
名古屋では藩祖の母として敬意を一身にうける日々が待っていた。自分の子である義直を名古屋城主に、また先に産んだ竹腰正信を城代家老に任じ、美濃今尾三万石の領主としたのも、お亀の方の力によるところである。
また、二人目の子『石川光忠」も義直の側近として重用するが、石川家は、関ヶ原の戦いで西軍に属していた為、微妙な立場であった。石川家については、別の機会に譲ろう。
相応院は、晩年、義直の子光友に三代将軍家光の息女千代姫を正室にする事に奔走、見事成功する。
これも、尾張徳川家を盤石にする為のお亀の方の大きな功績である。
尾張徳川家は、お亀の方のお陰で、御三家筆頭としての地位を築いてきたと言える。
相応院は寛永19年(1642)9月16日、江戸屋敷で静かに息を引き取った。享年七十余歳。
義直は、名古屋に相応寺を創建し、自らの手で尼僧姿の母を描いて寺に納め、手厚く菩提を弔った。
戒名は相応院殿信誉公安大禅定尼。そのとき名古屋で行われた、相応院(お亀の方)の葬儀行列の巻物が相応寺に保存されているが、大変長い盛儀をきわめた行列であったことがわかる。
相応寺は、名古屋城の東、今の東区山口町に創建されるが、後に現在の千種区城山に移転。
本堂や総門、山門、鐘楼などが移転。本堂と総門の扁額は、徳川義直の直筆である。
375年前の由緒ある建築物が、何ひとつ国や市の文化財にも指定されていないのも「お亀の方」が注目されていなかった事が原因ではないだろうか。
まず、名古屋に住む私たちが、名古屋発祥の歴史を再認識し、先人の功績を知ることから始めたいと思う。
歴史の舞台に思いを馳せて、先人を偲ぶこと。
生誕 (1573年)
死没 寛永19年9月16日(1642年)
法名 相応院
菩提寺 宝亀山 相応寺
竹腰正時正室(死別)
石川光元側室(離縁)
江戸幕府 初代征夷大将軍・徳川家康側室
尾張徳川家初代藩主・徳川義直生母
子:竹腰正信、石川光忠、仙千代(家康8男)、徳川義直(家康9男)
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