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織田家菩提寺「万松寺」

万松寺(ばんしょうじ)は、名古屋市中区大須にある寺院。山号は亀嶽林(きがくりん)。本尊は十一面観世音菩薩。織田信長や徳川家康をはじめとする戦国武将との縁が深く、名古屋の歴史的観光名所にもなっている。万松寺とも表記される。

天文九年(1540年)尾張一円を領していた古渡城主、織田備後守信秀公(織田信長の父)が、織田家の菩提寺として開基。御本尊は十一面観世音菩薩。開山は信秀公の伯父の大雲永瑞大和尚。当時の場所は名古屋市中区錦と丸の内二、三丁目にまたがったところで、大殿を中心に七堂伽藍の備わった一大寺院、敷地は約5万5千坪。慶長十五年(1610年)名古屋城築城にあたって、徳川家康の命により現在の地(大須)に移転。 当時、寺域は二万二千三百九坪の広さがあった。大正元年、三十七世大円覚典和尚が、寺域の大部分を開放した。

移転後も尾張徳川家朱印寺として篤く信仰され、亜相源敬公大夫人霊廟(徳川義直室高原院の御霊屋(廟))が置かれるなどしていたが、幕末頃から徐々に衰退した。大正元年(1912年)に三十七世大円覚典和尚が寺領の山林の大部分を開放することを決断し、開拓された町は現在の大須3丁目となって、萬松寺は再び賑わいを取り戻すこととなった。しかし、1945年(昭和20年)3月12日の名古屋大空襲で大須も焦土と化し、本堂が再建されたのは平成に入ってからである。大須一帯の大地主でもあり、万松寺ビルなどを保有している。2016年(平成28年)曹洞宗との被包括関係を廃止して単立寺院となる。

2017年(平成29年)には、2015年(平成27年)から行われていた不動堂および稲荷堂の建て替え工事が完了し、新諸堂「白龍館」としてオープンした。

万松寺2

本堂

万松寺3

本堂に設置されている織田信長のからくり人形。

万松寺4

白龍

万松寺5

納骨堂・天聚閣(てんしゅかく)/本堂5階

万松寺6

納骨堂・水晶殿(すいしょうでん)/本堂3階

織田信長と万松寺

織田家の菩提寺として織田信長の父、織田信秀によって建立された万松寺は、信長との関係も深く、数々の逸話が残されています。その中でも有名なのは「抹香事件」です。天文二十年(1549年)、信秀は流行病によって四十二歳で亡くなり、万松寺で葬儀が執り行われました。葬儀は700名もの人々が参列し、300名を超える僧侶の読経の中で厳粛に行われていましたが、そこに喪主である信長の姿はありませんでした。葬儀も半ばを過ぎた頃に、ようやく信長が現れました。しかしその姿は、髪は茶筅巻き、腰には荒縄の帯と長束の太刀を下げた、葬儀の席に全くふさわしくない格好でした。そして信長はいきなり抹香を手づかみにすると信秀の位牌に投げつけ、そのまま立ち去ってしまいました。この葬儀での振る舞いが信長は「うつけ者」であるという噂を世に広くしらしめたといわれています。

葬儀における粗暴な行動について、信長の真意は明らかではありませんが、家督を争っていた弟の信行陣営や敵対する隣国大名などに信長は「うつけ者」と信じ込ませて油断させるための計算された行動であったという説があります。現にその後、信長は家中の混乱を収め、隣国の斉藤家(美濃)や今川家(駿河)を知略によって攻略し、天下布武への道を歩み始めました。

万松寺では、信長が信秀の位牌に抹香を投げつける場面を本堂外壁の「からくり人形」で再現しています。信秀の葬儀の際に信長が位牌に抹香を投げつけた事件は、大須に移る前の萬松寺が舞台である。徳川家康は6歳で証人(人質)として今川義元の元に送られる途中で信秀に引き渡され、この寺で9歳まで過ごしたと伝わる。(万松寺HPより)



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