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訃報

今朝、友人の訃報が届く。

彼(KY)は、45年来のつきあいであり、兄のような存在だった。

彼は、異色の愛知県職員であった。

公務員でありながらその生き方は決して公務員らしくはなかった。

千葉大学で建築を学び、建築家の一面ももつ。

在職中からNPO活動にも積極的に関わり

インドやスリランカを支援する活動に従事していた。

国内で使われなくなった道具を集め、

ボランティアで磨き、整理し海外に送るという

「自立のための道具の会」である。

私は、デザイン会社を立ち上げ、独立したてで、

余裕もなく、興味もあまりなかったが、

彼に「手伝ってほしい」と要請を受け、仲間となった。

広報部長という役を与えられ、

会のマークを考案したり、会報の制作を担当した。

定期的に道具の集積場(コンテナ)のある旭村で

道具磨きのボランティアにも参加した。

私にとって、様々な異業種の人と知り合う機会となり、

楽しい時期だった。

そのきっかけを作ってくれたのが、KYであった。


また、人形作家で造形作家のMYを紹介してくれたのも彼だった。

きっかけは、(公社)愛知建築士会が主催する

建築総合展のメイン展示で、「名古屋城本丸御殿」のブース展示が決まった。

当時、市民運動として「本丸御殿フォーラム」を立ち上げ、本丸御殿復元を目指す団体があった。

その中心人物のMY氏に声をかけ、

復元運動の主旨をコーナーの一部を使い

パネルで紹介するというのが彼の提案だった。

その交渉役が私となった。

以後、それが、ご縁で、MY氏に誘われ「本丸御殿フォーラム」の会員となり、

広報を担当「本丸瓦版」の取材・編集に関わる事になった。

KY氏は、「本丸御殿フォーラム」の会員でもあり、

ここでも一緒に活動する事となったのである。

数年後、KY氏は、脱会し、道具の会に専念したが、

逆に私は、道具の会を脱会し、「本丸御殿フォーラム」に専念する事になった。

それ以来、その後継団体「本丸ネットワーク」の

事務局として今も従事している。

その後も、互いのフィールドは違っても、交流は続いていた。

しばらくして、KY氏が白血病で入院しているという噂を聞く。

2年ほど前に、彼から突然の連絡があった。

抗がん剤治療がうまくいき、退院したという。

自分の墓を善立寺に立てると決め、和尚と話しをする過程で、

善立寺の建物の歴史的価値に触れ、何とかしたいと思ったと後から聞く。

あいちヘリテージマネージャーの資格を持つ彼は、

国指定登録有形文化財にするため、調査を率先して行い、

ついに国指定登録文化財にこぎつけた。

私への依頼は、指定が決まったので、

善立寺のパンフレットと紹介パネルをデザインしてほしいとのこと。

そして、彼の監修のもと、紹介パネルとパンフレットを制作させて頂いた。

本堂A1

         これは、紹介パネルの一部。本堂編。


さらに、その翌年、彼の故郷である「島根県」に一緒に行ってほしいと連絡が入る。

彼の祖父は、宮大工で「川島徳次郎」といい、

島根に数多くの建築が残っている。

その一つが玉造温泉郷にある「保性館・幽泉亭」。

昭和天皇が行幸され宿泊するために作られた建物である。

彼は、善立寺と同じように、この建物を調査し、

国登録有形文化財としたのだ。

指定が決まったので、紹介パネルとパンフレットの制作依頼だった。

車で、出雲まで同行し、写真を撮り、保性館の方と打ち合わせをした。

特別に幽泉亭で宿泊し、美味しい料理も頂く。

地元のデザイン会社や印刷会社があるにもかかわらず、

私を指名頂いたのは、

もちろん、KY氏が、押してくれたからである。

「柴田君に仕上げてもらわねば、命が吹き込めない」

という彼の主張に保性館の方が納得されたのだと思う。

逆に、いい加減な仕事はできない。



パネル2概要

             紹介パネルの一部


幽泉亭パンフアウト

             三つ折りパンフレット

完成時には、国登録文化財を記念して、

資料館での「川島徳次郎展」が開催され、

保性館では「幽泉亭の特別公開」や

館内でパネルの紹介など、町をあげて記念イベントが行われた。

KY氏は、家族・親類一同を招待し「保性館・幽泉亭」に宿泊、

出雲を旅行されたと聞いた。

死期を覚悟し、家族に知って欲しかったのだろう。

他にも、思い出は限りなくある。

訃報を知り、思い出のほんの一部を紹介した。

#ゆたかさって何だろう

彼の人生は、間違いなくゆたかであったと思う。

合掌。





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シバタユウ
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