SNSの喧噪にどう向き合うか #15
Twitterで誰かを攻撃する人々。
なぜ、攻撃するのか。そんなに考えていないのだろう。ムカついたから、攻撃する。それだけ。
攻撃するやつ。擁護するやつ。仲裁しようとするやつ。茶化すやつ。
至る所で議論・口論が起こる。学者、ビジネスマン、無職、学生、フリーター、老若男女が色々な所で攻撃・擁護を重ねる。
もしかして、実は人類はかつてないスピードで新しくなろうとしているのかもしれない。
ここまで多様な話題について各々が意見を交わしていることは、Twitter以前にはかつてなかっただろう。
でも。
クソみたいな口論を見るたびに胸がキリキリする。
食べたもの、買ったもの、会った人を載せて毎度自分を演出する方々に○○感を感じる。
そのような方々のシェアは自己演出の口実に過ぎない。
自己満足できないのか。
なぜ攻撃に自分も加勢しないと気が済まないのか。
なぜ人に見せないと気が済まないのか。
演出して自分を良くみせることが、究極の目的である方々。
やりたいことも成し遂げたいこともなく、理念もなければ美意識もない。
彼らの描く“社会”の中でのポジション取りに必死な方々。
自分が周りの人にどう見られているかしか考えない方々。
いや、待てよ。
彼らのこの動機は、どの時代もあって当たり前のことだったのかもしれない(怪しい。要検討。)。彼らも別に、何もしてないわけではない。各々のやり方で、社会に関わっている。
何かについて少し“勉強”すると、何人もの偉人と呼ばれる人間に本の中で出会うことになる。偉人とまでは呼ばれなくても、会社の社長さんは(少なくとも傍目には)理念を持っているし、学者も、スポーツ選手もそうだろう。みんな何かしら理念や美意識が見える。見えるように見せられている。
だから、多いわりに事件起こしたり表彰されないと普段目につくことがない一般人の方々に、過大な期待をしてしまうのかもしれない。
自分を演出することに夢中になってないで、やりたいことをやればいいのに。なんて、無茶なことを彼らに対して考えるべきではないのかもしれない。
勿論、一般的な人と偉大な人を簡単に区別してしまうことはできない。一般人性は誰にでもあるし、一般人性と偉人性の間のパラメータに人を位置づけられるようなものでもない。
だから、こういう人にはこう、と決めてかかるとミスる。
だとすれば、彼らの喧噪を目の当たりにして、私はどうするか。
相手の別の一面を、考えたりしないこと。
発言を解釈せずにそのまま、受け取る。
素直さ。突き放さない。
「おいしそうだね!」「かっこいいね!」「そっか。怒ってるんだね。きっと大丈夫だよ!」
そうか。素直ということは、相手を解釈しないということか。
桃色のフィルターで彼らをみる。
ポケダン空のプクリン的精神。
方法的虚心。
処世術。
あくまで処世術だが。
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