『ブリクセン/ディネセンについての小さな本』渡辺祐真(スケザネ)さん解説
原初の無垢さを秘めた作家イサク・ディネセンの生涯と作品を辿れる小さな本~『ブリクセン/ディネセンについての小さな本』~
渡辺祐真
個人的に、ノーベル文学賞を受賞すべきだったと思っている作家が三人いる。
それがウラジーミル・ナボコフ、グレアム・グリーン、そして本書の主人公となるイサク・ディネセン(/カレン・ブリクセン)(以降ディネセンと呼ぶ)だ。
ディネセンに目を拓かれたきっかけは、友人から教えてもらった『不滅の物語』という短い作品だ。
彼女の描く世界と言葉にどっぷりと浸ると、美と愚かと幸福と傲慢と虚栄と郷愁と愛慕と後悔と羞恥と欲情と怨嗟が、入れ替わり立ち替わり私を襲った。
それまで私が読んできた本といえば、善と悪がはっきり分かれていたり、なにか一つの方向性や色へと収斂していくものばかりだったが、ディネセンの作品は安易な解釈を許さない。
『不滅の物語』の内容を簡単に紹介しよう。
主人公はミスター・クレイという商売人。冷徹で人を信用せず、愚直に金儲けにだけ邁進してきた彼は、すっかり年老いて死が目前に迫っている。今では、若い事務員のエリシャマに過去の帳簿を読み上げさせるのが唯一の楽しみだ。
だがさすがに何度も読み上げられて、帳簿にも飽きてきた。気の毒に思ったエリシャマが聖書を読んでやるが、ありもしないことに何の価値があるのかと彼は否定する。極度の現実主義者で、商売のことだけを考えてきた彼は、経済に関するもの以外の文章を読んだことがなく、フィクションという「役に立たない」ものを理解できないのだ。
しかし、世の中には現実に起きていないことを語る「物語」というものが存在するのだとエリシャマが言って聞かせると、クレイはそんな非現実的なものの存在は認めないと激怒。そして、船乗りの間に伝わる、伝説めいたとある物語を、財力に物を言わせて実現としようとする。
ざっと以上のような物語だ。
この物語は、幾層もの苦味が折り重なっている。財力に物を言わせて非現実をも我が物にしようとする豪商クレイ、同じく現実主義者ながら冷めた認識を保つ見習いエリシャマ。彼らによって仕組まれた「物語」とそれを演じさせられる一組の男女。しかし、クレイの意図に反して新たな物語が生まれていく……。
このように書くと、強欲で文化を解さない金持ちの企みが頓挫し、やはり物語が強いのだという「安易」な解釈に走りたくなるかもしれない。
確かに世の文学を愛する人々はこういう話が大好物だ。(僕も好きです。)
だがディネセンという作家はそんな簡単な図式化を許さない。
その立役者はいくつかある(例えば、映画のカメラのように機能する部屋に設えられた鏡、作品の下敷きになっているフランスの小説『ポールとヴィルジニー』など)が、特に大事なのはラストシーンだ。「物語」を演じさせられた船乗りの青年から、エリシャマは貝殻を手渡され、その貝殻を耳に当てる。
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エリシャマは佇んだまま見送った。大柄な若々しい体が見えなくなると、貝殻を耳に押し当ててみた。すると遠くで波が砕けるような、低い、潮騒に似た音が聞こえた。エリシャマの顔に船乗りのそれと同じ表情が浮かんだ。家のなかと、物語の新たな声から優しくて不思議な、深い衝撃を受け、「これは聞いたことがある」と思った。「ずいぶん遠い昔だ。それにしてもどこだったかな」
エリシャマの手が耳からはなれた。
『不滅の物語』イサク・ディーネセン著、工藤政司訳、国書刊行会、一九九六年
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貝殻から聞こえる遠い昔の物語の音。
小さな小さな音だ。ただ、貝殻を耳に当てようと思う人にだけそっと囁きかけるような音。ここには物語の声なき声、物語のしぶとさと弱さが詰まっている。
物語のしぶとさと弱さと言ってもピンときづらいので、少しだけ説明させてほしい。
物語というものは、歴史的にみてもしばしばプロパガンダとして利用される。例えば第二次世界大戦では、海軍に従事する桃太郎や、ナチスに扮したドナルド・ダックが描かれた。あるいは、既存の物語にアクロバティックな解釈を加えることで、政治的な意味を付すということもされてきた。
物語はそうした特定の意図によって簡単に操作されてしまうし、金さえあれば簡単に作り変えられてしまう。実際、『不滅の物語』でもクレイの企みはある程度まで成功する。それが物語の弱さであり、危険性と表現してもいいかもしれない。
だが、『不滅の物語』で描かれたように、物語は完全には支配されず、自由な稚魚のように自分でどこかへと泳いでいってしまう。そしてなによりも原始的な物語は、それを聞き届けようとする者には必ず囁いてくれる。
エリシャマも現実主義者だが、貝殻を耳に当ててみようかと思える程度には物語への信頼があった。
だから貝殻からは物語が鳴った。
物語はしぶといのだ。踏まれても踏まれても立ち上がる雑草とでも言えばいいか。花のような絢爛さも、薬草のような実益にも乏しいが、とにかくしぶとい。
雑草を指して、その程度だねと思うか、彩り豊かだと感嘆するか、それは読者次第だが、とにかく「不滅」であることだけは確かだろう。
すっかり長くなった。だが、こうしたディネセンの気質をぴたりと言い当てる言葉が本書にあった。それを分かち合いたいがために(そして、ディネセンという作家に関心を持ってもらいたいがために)、お付き合いいただいた。
それが次の文章だ。
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ブリクセンの物語の完全な中心にあるのは、人間としての人生がはじまることで失われた無垢さでした。カレン・ブリクセンの主人公のほぼ全員が、完全な人間になるために罪人になる経験をしています。貴重な真珠をなくすといったありふれた罪であろうと、愛する者を裏切るとか殺人を犯すとかいった大きな罪であろうと、カレン・ブリクセンの物語の登場人物たちは、光が存在するのはまさに暗闇の中であるということを体現します。作家としての大きな強みの一つは、読者を手の平に載せ、魂の隅から奥底までを揺り動かし、影が最も濃くなろうとも決して手を放さないことです。浮気、病、死、裏切り、絶望ーー読者は、ブリクセンが実際にこれらを経験し、それを乗り越えたことを感じとります。
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ディネセンの物語で描かれるのは「無垢さ」だ。
しかしただの無垢ではなく、大きな罪を経ての無垢さ。それが安易な解釈を許さないという意味であり、物語のしぶとさと弱さを指す。
イサク・ディネセン/カレン・ブリクセンは、一筋縄ではいかないが、文学を読むことの悦びと苦しさを教えてくれる稀有な作家だ。翻訳書もかなり出ているし、アカデミー賞を受賞した『バベットの晩餐会』といった映画でも知られている。だが、彼女の生涯や作品について手頃に学べる本がほとんどなかった。
そこで本書だ。本書は、ディネセンの生涯を簡潔な記述と豊富な写真で辿りながら、実人生と強く結びつけて作品群を解説していく。
一八八五年にデンマークで生まれ、三十歳の頃に夫とアフリカへ渡って農場経営をするも失敗、大恋愛の果てに無一文でデンマークに戻り、コツコツと創作活動をはじめる。作家として日の目を浴びるようになったのは五十歳を目前に控えた頃だった。その後、第二次世界大戦の前後で各国を飛び回りながら反戦のために果敢に筆を取り、戦後には再び各国を旅しながら、後進の芸術家や女性のために慎重に言葉を紡いだ。生涯に幕を下ろしたのは一九六二年、七十七歳のときだった。
数々のエピソードに溢れている。幼い頃には父親が自殺をし、家が火事になるなどの不幸に見舞われ、芸術家になるために突然学校を辞めてヨーロッパを放浪したり、アフリカでライオン狩りをしたり、女性問題について訊かれた際には回答までに十四年の歳月を要したり。
そうした人生の様々な局面について、本書は彼女の小説やエッセイと注意深く結びつけながら、彼女の生涯と作品との往復を大切にしている。そのことを端的に示したのが、本書の中の次の言葉だろう。
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カレン・ブリクセンにとって「物語」とは、単なる寝かしつけのための子守歌でも手に汗握るようなミステリーでもなく、人生そのものでした。物語は人生であり、人生は物語だったのです。
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最後に一つ補足をしておきたい。
本書はこれからディネセンを日本語で読もうという人々に対する配慮が手厚い。作品について言及されると、必ず日本語訳書の紹介がなされるし、本書の巻末には訳者からの質問と著者からの回答や年表が付されている。
ぜひ本書からディネセンに出会ってほしい。
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