ハンチ(3)
「え、うそ……」
勢いよく押した図書館の扉は、ガチャンと大きな音をたてたとたん何かにぶつかり動かなくなった。内外の気圧差のせいか普段からやたらと重く、まるで入館者を拒んでいるような扉を開けるために必要だったエネルギーは、ガラスを伝わって私の頭に帰ってきた。
「ちょっと……大丈夫?」
さきの声は、最初、本当に心配してくれているようだった。でもそれは笑いをこらえているだけで、三十秒もしないうちにこらえきれなくなって笑いだした。
「ちょっと……はは……大丈夫……はははは」
さきの目にも私の目にも涙が浮かんでいた。意味合いは正反対の。
「あ……腫れてきた……」
扉にぶつけた額の少し上が盛り上がって熱を持ち始めている。
「え、ほんと?」と言ってさきは私の頭に手を伸ばし、出来たてのこぶに恐る恐る触れた。「あ、ほんとだ。たんこぶだ、たんこぶ」サキはなぜかうれしそうにまた笑い出した。
「もう……ほんとに痛いんだから……」
「ごめんごめん。だけど、なっちゃん……頭から行ったから……ははは」
さきのけらけらというおばさんじみた笑い方は普段なら気持ちがいい。こういうときに聞くと本当に心の底から楽しんでいるようで腹が立つ。ルームメイトの関係を解消したくなる。
「もう……今日開いてないじゃん」
私はさきを無視することにした。高校以来の完璧な回れ右を決めて来た道を引き返す。音が鳴るくらいスタスタと早足で歩いていこうとした矢先、階段の一段目を踏み損ねた。
「ええ……ちょっとなっちゃん……」さすがのさきも笑うのを止めた。
階段に尻もちをついたまま、私は自然と、呆然と空を見上げていた。雲しかない。灰色の雲は雪を降らせていた。濡れた階段は冷たかった。帰ったらすぐ洗濯しなくちゃ。細かい雪の一粒が目に入った。さっきとはまた違った意味合いの涙が目からこぼれた。
さきは私の横に腰を下ろした。泣いている私の肩に手を置いて「まあ、こういうこともあるって」
私はうなずいた。
「大丈夫?」
もう一度うなずいた。
「お尻冷たいからもう行こうか」
「……洗濯しなくちゃ」
「私の分もやってくれる?」
「……いいよ」
「行こ。寒いよ」
雪が視界を遮り、道路を隔てただけの駐車場までの数十メートルの距離を引き伸ばして見せる。駐車場には私の車しか停まっていない。キャンパス内の道路を走る車もない。明日になれば人も増えるだろうけど、今日はまだ大学はしんとしている。どうして図書館が開いてるなんて思ったんだろう。新学期まであと三日。まだみんな休んでるのに決まってる。
車に乗り込み、エンジンをスタートさせた。冷たくなった車内に、暖まる前のエアコンの冷たい空気が吹き荒れた。
「コーヒー買って帰る?」ストールに顎を埋め、体も丸めて寒さに耐えながらさきが言った。
「いいね。けど、今日開いてるかな?」
「とりあえず行ってみよ。寒いもん」
私は車を発進させた。エアコンの空気はなかなか暖かくならない。
「どうして今日図書館が開いてるって思ったんだろうね」私は片手でこぶを撫でながら言った。降っては溶ける雪が道路を濡らしている。水分を多く含む雪は、積もるとかちかちに固まって道路をスケートリンクみたいにしてしまう。いまはまだ平気だけど。この前の寒波のときにできた汚れた雪の塊が道のところどころにある。
「まだ痛い?」さきが言った。「怖いから両手で運転して」とも。
「みんな勉強しないんだね」両手でハンドルを握る。
「だって新学期まだ始まんないしね」さきがあくび混じりに「明日みんな帰ってくるんじゃない?」
「やっぱりいますぐ帰ったほうがいいかも」
古い車のフロントガラスに雪が張り付く。ワイパーで拭ったあとには細かい水滴が筋状に残った。この冬さえもってくれればいい。帰る前に適当な値段で売ってしまおう。なんならさきに引き取ってもらったっていい。
ほんの少しのあいだに雪の粒が大きくなった。羽根のようにひらひらと落ちてくる。灰色の雲から降る雪が真っ白なのはちょっと不思議な感じがする。
「雪強くなってきたしね」さきが興味なさげに言った。きっと暖かくなってきたから眠いんだ。
「コーヒーショップ行きたい?」
「行きたい」
「さきちゃんコーヒー嫌いなのに」
「コーヒーは頼まないもん」
コーヒーショップが開いていることを祈って私はそのまま車を走らせた。