ハンチ(2)

 はるからの電話を切って時間を確かめた。まだ昼の一時過ぎ。夕方のアムトラックに乗るなら、あいつがここに到着するのは九時くらいか。

 窓辺は寒い。でもここ以外に机を置く場所がない。というか、最初からアパートに備え付けだったダイニングテーブル兼勉強机兼物置であるこの忌々しい木製のテーブルは、脚が床にボルトで固定されているから動かしたくても動かせない。

 あのオーナーめ、テーブルを置くのはここしかないって決めつけやがって。俺ならこんなところにテーブルは置かない。部屋の隅の、立て付けの悪い窓のそばになんて。

 煙草が吸いたくなった。でも運悪く、いまは禁煙中だ。大学がクリスマス休暇に入った頃からだから……二週間くらいになるか。この前禁煙したときはどのくらい続いたんだっけ。

 あぁ煙草が吸いたい。猛烈に吸いたい。どこかに一箱残ってないか。いや、一本だけでもいいから。

 たかだか二週間前のことが思い出せない。煙草が切れたから禁煙を始めたんだっけ。禁煙をするから煙草を全部吸ったんだっけ。

 どうでもいいか。

 どうでもいいな。

 観念してお茶でも飲もうと思ったらドアをノックする音がした。立て付けが悪いのは窓だけじゃない。ドアもがたがたするからがさつな人間が拳でガスンガスンとノックするとドアがはずれそうになる。

「Who is it?」

 念の為外にいる奴に尋ねる。誰かはわかってるけど。

「俺だけど」

 案の定知った声が聞こえて、ドアを開けるとヒゲが立っていた。がさつさでアメリカ人の上を行く男。

「なあなあなあなあ」ヒゲは妙に興奮した様子で言った。

「なんだよ?」

「ちょっと」そう言ってにやにやしながら俺を手招きする。

「なに?」

 薄汚れたビニールの壁紙が安っぽくてみすぼらしいアパートの内廊下はとにかく寒い。蛍光灯の白っぽい光のせいで余計に寒く感じる。そんな寒々しい廊下に喘ぎ声が響き渡っていた。

「熱いな。外は寒いけど」

「もう……いいから入れよ」

 ヒゲを部屋に入れドアを閉めたら喘ぎ声は聞こえなくなった。

「いやいやいや、随分激しくなさってたな」

 カーペット敷きの床に直に座ってヒゲは言った。座卓にキャメルの箱が乗っていた。

「ごめん、灰皿ある?」煙草を咥えながらヒゲが言った。

「悪い。いま禁煙中」

「だからって灰皿くらいはあるでしょ」

「吸うなって言ってんの」

「なんでよ?俺は禁煙してないもん」ヒゲは煙草に火をつけた。

「ちょ、吸うなって」

 ヒゲは見せびらかすように俺の方へ煙を吐き出した。俺は仕方なく灰皿を渡して真向かいに座った。

「どうもどうも」

「うるせーよ」

「でもびっくりしたよ。あきくんとこだったらどうしようかと思ったもん」

「なにが?」

「なにがって……さっきのだよ。セックスだよセックス。絶対外人がセックスしてたよ。喘ぎ声がぽかったし。Oh! Yes!!って感じだったな。ほんとにあんな感じなんだな」

「まぁ、ここ日本人俺しかいないしな。ほぼ間違いなく外国人だよ。ってか、絶対アメリカ人だよ」

「アメリカ人てリアルにあんな感じなんだ。いいんだか悪いんだかだね」

「リアルかどうかはわかんないけど。ビデオ観てただけかもしれないし」

「あんな大音量で?……え?ちょっと待って、ドア閉めたら全然聞こえなくなったってことはさ、どっかの部屋のドアが開いてたってこと?それはどっちにしても熱いな」

「っていうかさ、なにしに来たの?」

 ひげは煙草を灰皿に押し付けるとすぐに二本目に火をつけた。

「うん?いや、なんにもすることなかったから飯でも誘おうかと思って。なんか予定あんの?」

「ないけど」

「じゃあ行こうぜ」

 ひげは二本目をスパスパ吸い終え三本目を取り出し「ちょっと遅いけどね」と付け加えた。

「みんな明日帰ってくるのかな?」

「さあ、どうだろう。はるはいまシカゴだってさ」

「そうなの?じゃあ今夜か、ここに着くのは」

「アムトラが動けばな」

「動かないってことはないんじゃないの、さすがに?」

「ブルーラインは止まってるってさ」

「あれはそういうもんだもん」ヒゲが笑いながら言う。口と鼻から煙が漏れる。

「煙草一本ちょうだい」

「いいよ」

「あーーー……吸っちゃったーーーーー」

 禁煙失敗。まあいいや。初めてじゃないし。

「なに食う?」

 ヒゲの吐き出した煙の行方を目で追った。煙は天井と壁にぶつかって消えた。こんなぼろっちいアパートでも引っ越しのときいくらか取られるんだろうか。

「あー……ダイナーはー……煙草吸えたっけーー?」俺も上に向けて煙を吐き出す。せめて窓を開けとけばよかった。

「吸えるわけないじゃん。アメリカだぜ、一応ここ」

「そっかーー、でもまぁ……ダイナーでいっかーー、近いから」

「そうだね」

「コーヒー無限だしなー」

「そうだね。じゃあ……行こうか」

 立ち上がろうとするヒゲを止める。

「煙草もう一本ちょうだい」

「いいよ」

 ヒゲは座り直し自分でも一本咥えた。

 窓を開けた。雪が降ってきていた。

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