ハンチ(5)
コーヒーショップが開いていてくれてよかった。収穫はあった。さきはホットチョコレート、私は温かいアップルサイダーを買った。
アパートに戻ってきてリビングのコーヒーテーブルに教科書を広げたちょうどそのとき、あきから電話がかかってきた。
「いまヒゲといっしょなんだけどさ、今夜はるが戻ってくるみたいだから、明日とかみんなで集まらない?」
「そうなんだ。ここでいいですか?」
「うん。ありがとう。なんか、酒とか適当に持ってくからさ」
「わかりました。じゃあ、明日また連絡下さい」
「うん。さきにも言っといて」
「あきさんが明日集まろうだってー」自分の部屋で寝ているかもしれないさきに言った。なんとなく出したなんとなく大きな声はさきに届いたのかわからない。
はるが今日戻ってくるのか、と思いながら窓の外を見ると、上から下へ降っていた雪が左から右へ吹き飛んでいるのがわかった。こんな吹雪でアムトラが動くのかな。
はるを呼んだのはあきだった。私を引っ張っていったのもあきだった。こういうことをするのはいつもだいたいあきだ。面倒見はいいけど同時に世話焼きなあの人。さきとはまだ出会ってなかった。
たまに思い出す。真冬で周りが静かだと余計に頭に浮かぶ。
移動遊園地になんてこっちへ来て初めて行った。新入生オリエンテーション最終日の夜だった。小さいメリーゴーランドと小さい観覧車に子供たちが群がっていた。私はアメリカの屋台で売ってる食べ物が珍しかったから、日本ではまず見ない色合いの棒付きキャンディーを買った。その後あきに紹介されてはるに会って「それ食べるんですか?」と言われた。はるは喋らないくせに余計なことは言う。最初からそうだった。
移動遊園地が設置されたのはサッカーフィールドのそばで「まぁ、ここしか広い場所ないからね」とあきは言っていたけど、何に使うためのスペースなのか、とにかくだだっ広い場所だった。いまだに何もないから移動遊園地用だったりして。
キャンパス内ではあったけれど学生向けでは決してなく、近隣住民のために開かれていたようだった。来たばかりの留学生たちのグループがあったりもしたけど、客の中心は親子連れだった。オンキャンパスだからお酒もなかった。
フィールドは音で溢れていた。別々のところで別々に交わされる会話が一塊になって海鳴りのように響いていた。大声を出すか相手に接近して話す必要があったからいつの間にか「へえ」とか「うん」とか「あ、そうなんですか」とか、適当に相槌を打つばかりになっていた。あきはどんな状況でも気にせず喋っていたし、はるは黙ってきょろきょろしていた。私はそっと二人から離れて乗り物を見にいった。
観覧車とメリーゴーランドは隣り合った場所で休みなく動いていた。縦と横の違いはあっても二台の機械は同じくらいの速度で回転していた。観覧車にしては速すぎて、メリーゴランドにしては遅すぎるような気がした。上からも下からも子供たちの歓声が聞こえてきた。
「乗ります?」
聞き慣れない声がうしろから聞こえた。はるがそこにいて観覧車を見上げていた。少し疲れている様子で、頬は赤く、顔全体が汗でギラギラしていた。じきにわかることだけど、イリノイ州には夏と冬しかない。すぐ寒くなるくせに九月はまだ暑い。加えて、屋台が放出する熱と人いきれで一帯はむんむんしていた。
「いっしょに乗りましょうか?」なのか「あれに乗るつもりですか?」なのかわからなかった。だから「あきさんは?」とだけ言った。
「どっか行っちゃいました。友達がいたみたいで」
「お友達が多いんですね」
「顔が広いんですよ。世話焼きだし」
「みたいですね」
時間稼ぎのつもりがあまり稼げなかった。仕方がない。
「乗ります?」私は観覧車の椅子のどれかを適当に指さして言った。
「え、乗ります?」はっきりしない奴だ。
「うん。折角なんで」
順番待ちの列は乗り口へ続く木の簡易階段の前から三メートルくらい伸びていた。三、四巡目くらいで乗れそうだった。一回の乗車は二分か、長くても三分くらいだろう。六分後には初対面のよくわからない男と隣り合って観覧車に乗らないといけない。
乗り口へ到達するまでの数分間は二人とも黙っていた。
観覧車の座席は木製の二人掛けで安全バーも屋根もない。乗ると前後に揺れる。深く腰掛けて、表面が擦れて毛羽立っている頼りないシートベルトを締めた。安全規定——あるとして——をぎりぎりで満たす程度の細いベルトだった。乗客がシートベルトを締めたことを確認すると係員が観覧車を動かして次々に客を乗せていく。最初に乗った客が一周して昇降場所に戻ってくると本格的に回転がスタートした。
私たちの乗った席は頂点から席三つ分くらい前方からのスタートだった。ガタンと一度大きく揺れてから観覧車は動き出した。初めはゆっくりと。そして、徐々にスピードを上げていった。地面に両足が付いているときは観覧車にしてはちょっと速いくらいに考えていたけれど、実際に回転に合わせて不安定にぶらぶら揺れるオープンな座席に座ってみると、それはそれは猛スピードだった。歓声だと思っていたのは悲鳴だったみたいだ。
座席はてっぺんから落下するように下降し、地面すれすれをかすめ、後ろ向きに上昇してまた落下した。シートベルトが見た目以上に頼りがいのあるものだったのは嬉しい誤算だったけれど、回転している間中ずっと座席の縁を握りしめていた。
スピードに慣れてきたのは終了間際だった。フィールドには芝生が敷かれていて、金網を境目に段々と背の高い草地になり、やがて森に変わった。夜空はサッカーフィールドの明るすぎる照明のせいで霞がかっているように見えた。
「なんにもないな」
はるがそう言ったように聞こえた。なんにもない。たしかにこの街にはなんにもない。私が住んで一年経つけど街はなんにもないまま変わっていない。ジャクソンなんて街はアメリカ人でも知らない。
成り行きで観覧車にはいっしょに乗ったものの、はるとまともに会話するようになるまでその後半年以上かかった。奴は一度喋りだすとあきよりもよく喋る。
「どうしたの?」さきがだらしなくお尻を掻きながら部屋から出てきた。
「あきさんが明日集まろうだって」
「ふうん」
「はるが今夜帰ってくるんだって」
「ふうん」
「ここでいいよね?」
「いいけど、すっごい吹雪だよ」
さきの視線の先は白一色の世界だった。向かいの棟はおろか、すぐそこの駐車場も見えない。
「あぁーあ。絶対アムトラ止まるね」私はブラインドを下ろした。
「ご飯何食べる?」さきが言った。「あるものでいいよね」
「いいよ」きっとまたパスタだ。
後ではるに電話してみよう。私は、ようやく、開きっぱなしだった教科書を読むことにした。さきはキッチンでお湯を沸かしている。