東大生物2022第1問: 海馬エングラムの活性化は恐怖記憶の想起に十分である
今回は、2022年の東大入試生物第1問の題材となった以下の論文とその問題を解説する。
題材となった論文
Liu, Xu, et al. "Optogenetic stimulation of a hippocampal engram activates fear memory recall." Nature 484.7394 (2012): 381-385.
図はNIH Public Accessから引用
2022年東大入試問題理科
理科.indd (u-tokyo.ac.jp)
本論文は利根川研究室から出版された、光遺伝学を用いた神経の活性化によりマウスの行動を人工的に操作できることを示した歴史的論文で、1378回の引用がその影響力を物語っている。(Google scholar 2022/7/9)
この論文は、恐怖条件付けの際に活性化した海馬の細胞(記憶エングラム)を光遺伝学によって再活性化することですくみ行動を引き起こすことができることを示した点が新しく、重要である。
入試問題では、導入として、チャネルロドプシンの説明、パブロフ型の条件付けとしての恐怖条件付けの説明、遺伝子組み換え技術による記憶の形成・想起を調べる手法の説明がなされている。
図1は実験プロトコールの説明。
ドキシサイクリンが添加されていないときのみ、活動している神経細胞でc-fosプロモーターによりtTAが発現し、AAVウイルスベクターで海馬歯状回に導入した、活性化したTREプロモーターに駆動されるChR2-EYFP(チャネルロドプシンと蛍光タンパク質)が発現する(図1a, b)。
実験は、ドキシサイクリン無添加状態で条件Bで恐怖条件付けが行われ、ドキシサイクリン添加状態で条件Aで光を照射しながらの行動測定(すくみ行動の有無)が行われる(図1c)。
ただし、入試問題ではDoxが欠如した際に遺伝子発現がONになるというシステムがややこしいためか、Doxの役割が逆転されている。
図2では、活動依存的なChR2-EYFPの発現と刺激が行われていることを確かめることで、この実験系がきちんと機能していることを示している。
具体的には、様々な時間スケールや条件でDoxの添加、恐怖条件付け、光照射を行う事で、Doxが欠如した際に遺伝子発現がONになるシステムが設計したとおりに働いており、光刺激により恐怖条件付けで活動していたc-Fos発現細胞が再活性化することを示している。
入試の問Eがこれを受験生に確かめさせる問題となっている。
図3は、この論文の主要な主張を示す図であり、恐怖条件付け後の記憶エングラム細胞の光刺激によりすくみ行動が誘発されることが示されている。
恐怖条件付けをしなかった場合やChRを発現させなかった場合に比べて、上述のシステムを用いた場合に、すくみ行動が起こる確率が上がる(図3a-c)。
入試の問F・Gがこの実験の論理を理解しているかを確かめる問題となっている。
一方で、入試問題でも言及されているが、一般の恐怖条件付け時のすくみ行動を示す確率(~60%)に比べて、人工的に恐怖記憶を想起した場合にすくみ行動を示す確率は低い(~15%)。
論文では、Doxの添加時期により恐怖条件付けに関するエングラム以外の細胞が活性化されている可能性、恐怖条件付けでラベルされたエングラム細胞が足りない可能性が述べられている。
一方で、入試問題ではそれ以外の可能性(limitation)として、問Lにおいてエングラム細胞の活動頻度が適切でなかったのではないかということが考察されている。
某有名予備校の解説では、人工的な光活性化の頻度が低いという解釈が載っていたが、論文の考察にあるように、バックグラウンドの活動が高いことも問題となるので、記憶エングラム(ラベルされた細胞)の中にもヘテロ性があり、適切な活動頻度(またはパターン)があるという解釈が正しいのではないかと思われる。
図4では、光に誘導される恐怖記憶の想起が文脈特異的であることを示している。
異なる文脈においては異なる歯状回細胞群が活性化している(文脈をエンコードしている)ことが、免疫組織化学的手法により示された(図4a-g)。
さらに、恐怖条件付けされた環境と異なる環境をエンコードする記憶エングラムが活性化されても恐怖記憶の想起(すくみ行動)は起こらないことが示され、さらなるvalidationとなっている(図4h, i)。
入試の問Hがこの実験の結果をそのまま予測させている。
この論文は、やはり光遺伝学により行動を引き起こすのに必要な細胞群を特定することができることを示したという意味で神経科学の金字塔的な論文なのだろうなと思った。
また、東大入試もここまで論文の流れをそのまま出題することはおそらく珍しく、これを解く受験生、この過去問をとく未来の受験生に、現代神経科学の基盤をなすこの研究を知ってほしいという強いメッセージ性を感じた。
入試問題として、研究の論理展開を追いながら、自然に重要な概念についての理解を問う出題をすると同時に、研究のlimitationに関する出題や、海馬の神経細胞のスパースな情報表現について考察させる出題をしている。全体を通して基礎的な知識や論理的思考力を測るとともに、論文を読んだり研究をしたりするときの過程をなぞるように構成されており、教育的価値の非常に高い良問だと感銘を受けた。