情報で捉える生物学入門#6 【発生生物学】
ゲノムには生物を構成する情報がすべて含まれている。
これは大雑把に言ってしまえば正しい。ゲノムは生体内で働くタンパク質の情報をすべて保有しており、遺伝子の発現制御に必要な情報もゲノムに含まれているからだ。
しかし、もう少し厳密に考えてみると、これは誤りである。今目の前にゲノム情報、またはそれを物理的に具現化したDNAがあったとしても、そこから生物個体ができることは決してない。DNAからタンパク質を人工的に翻訳し、生物で知られている濃度で混ぜ合わせても生物はできない。それどころか、現代の科学技術を結集してもゲノムから人工的に生物を再構成することは困難であろう。ゲノムからどのようなスピードでタンパク質が発現するか、タンパク質がどのように空間・時間的に制御されるかは、細胞内で非常に精巧に調整されており、まだ完全には解明できていない。
特に受精卵の段階の発生最初期では、このような制御は母親から受け継いだ母性因子によって制御されていることが知られている。よって、生物を構成する発生にはゲノムのほかにRNA・タンパク質の制御が必要である。
しかし、本当にゲノムの情報は不十分なのだろうか?母性因子もよくよく考えてみると、母親のゲノムから発現したタンパク質や、それに制御されて作られた物質によって構成されているはずである。もちろん母親もゲノムのみでは発生できないため、鶏が先か卵か先かのような話になってしまうのだが、どのようにタンパク質の時空間制御はなされているのか、いつか人類はゲノム情報を読み解くのみで生物の表現型をかなりの精度で予測できるようになるのか、といった問いは興味が尽きない。
今回は動物の体が情報が発現することでどのようにできるか、という発生を、次回は動物がどのように情報を保持・処理しているかという機能的側面にフォーカスして免疫や神経系を取り扱おうと思う。
胚発生の基礎
僕たちが何か複雑な形を組み上げていく際、プラモデルや車を組み立てるように、パーツを組み合わせることで外側から構築していくことが多い。しかし、発生はこれと異なり、内側から形を作っていく過程である。古くから研究されており、脊椎動物との類似性も高いウニの初期発生においては、卵は最初1つの細胞だが、受精後細胞成長を伴わずに細胞容積を半分に減らしていく卵割と呼ばれる急速な細胞分裂によって、外層が1つの細胞に覆われている中空の胞胚に達する。その後、胚の一方が原口から陥入を始め、管となって伸びて原腸を形成する原腸胚となる。消化管として働く原腸が内胚葉、原口陥入の際に胞胚腔へ落ち込んだ間充織細胞が中胚葉を、外側の細胞が外胚葉を形成する。その後、内胚葉は内臓や消化器系、呼吸器系に、中胚葉は筋肉、循環系、排出系、生殖器官に、外胚葉は皮膚、神経系、感覚器官へと分化する。
発生と遺伝子発現調節
ヒトを含む多細胞生物において、あらゆる細胞は同一のゲノム情報を有するが、細胞腫により形や役割は大きく異なる。このような細胞の多様性はどのように生じるのであろうか?
これは、それぞれの細胞腫で異なる遺伝子の組み合わせが発現し、また遺伝子発現ダイナミクスが発生過程において精巧に調節されていることによる。ここでは最もよく研究が進められている転写調節の機構について説明する。
真核生物の転写開始にはRNAポリメラーゼⅡと基本転写因子が必要だが、それらのみでは転写の効率は低く、様々な転写活性化、転写抑制因子が存在し、複雑な転写開始の制御が行われている。真核生物のプロモーター近傍の制御配列を近接制御配列、離れた位置の制御配列をエンハンサーと呼ぶ。エンハンサーに結合した転写活性化因子はプロモーターに近接し、転写開始複合体の形成を助ける。
真核生物のDNAはヒストンタンパク質とともに折りたたまれ、クロマチンと呼ばれる構造体を形成する。このヒストンはアセチル化、メチル化、リン酸化などの様々な化学修飾を受け、クロマチン構造の凝集・弛緩を調整している。このようなクロマチン構造の変化によっても転写因子の遺伝子のアクセスのしやすさが変化し、転写の調節が行える。これをエピジェネティックな遺伝子発現調節といい、発生過程での細胞分化に伴う不可逆な遺伝子発現のオン・オフに寄与している。エピジェネティックな発現制御は、細胞ごとに遺伝子(ファイル)のアクセス権限を管理していると言い換えることもできるだろう。
Hox遺伝子群と形態形成の制御
ここでは発生における遺伝子発現調節機構の例として、ショウジョウバエの胚発生で詳細な研究がなされたHox遺伝子群の発現と形態形成の説明を行う。Hox遺伝子群は胚の前後軸に沿った体節の位置で規則的に発現する。異なるHox遺伝子群内のホメオティック遺伝子は異なる体節に特有の発生プログラムを指示し、発生中の細胞に位置情報を提供する。ホメオティック遺伝子の発現が適切に制御されない場合、形態形成異常が起こり、例えばウルトラバイソラックス遺伝子に変異が生じたバイソラックス変異体では本来翅の生えない体節の位置のアイデンティティが変化し、翅が生えるため、通常の倍の2対4本の翅を持つようになる。このような遺伝子の機能異常による変異体の研究を通し、発生過程におけてHox遺伝子群が体の形態や構造の正しい位置をどのように決定するかが解き明かされていった。
Hox遺伝子群は進化的に保存されており多くの動物で発生に極めて重要な役割を果たすのみならず、体の前後軸で機能する位置と遺伝子のDNA上での並び方がハエからマウスまで保存されているという特徴がある。このようなゲノム情報の連続的な順序と表現型での順序の関係はほかで聞いたことがなく、何らかのとても重要な意義がありそうだ。隣り合う体の部位の遺伝子発現制御を共通して行えるなどの仮説があるが、決定的な理由はまだわかっていないようである。
ワディントンのエピジェネティック地形
受精卵は体のどのような細胞にもなれる能力を持っており、これは全能性という。受精卵が分裂を繰り返して発生が進んでいくに従い、エピジェネティックな機構などにより、細胞は徐々に様々な種類の細胞に分化する能力を失っていき、生物種にもよるが、基本的に成体の細胞の多くは分化能を失っている。僕たちの皮膚の細胞は肝臓にはなれないし、逆も然りだ。しかし、細胞が本来すべての遺伝情報を持っているからこそ、山中教授らが2012年ノーベル生理学・医学賞受賞に至ったiPS細胞のように、多能性を持つ細胞を分化した細胞から人工的に作成することが可能になったのである。発生過程において、遺伝子の発現という情報の読み出しが制限されているだけで、情報そのものは変わっていないという点は特筆に値する。