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蚊と蠅の恋愛 後編

空き缶の僅かな溜まり水や、日照りが2日も続けば多少の雨水なんかカラカラに干上がってしまいそうな場所に、往々にして蚊は卵を間違って生み落とす。
例えば、竹の切り口に止むなく卵を産んだり、まさか植物が水を吸い上げるなんて知りもしないで、植木鉢の受け皿に大切な卵を産み付け、敢えなく150個相当の卵が干からびてしまうと言う悲惨な出来事が後を経たない。

 従兄弟の友人で、雀とおしゃべりが出来るスピーチー蚊に名前は無いが、雀の群れを率いる若手のリーダーと大の仲良しらしい。
病を治す力を持つと言う幻のミラクル蚊を探し出す為に、群れの一員である雀達1匹1匹に尋ねてみることを快く引き受けてくれた。

 タエコの母、朝顔はもうかなりおばあさん蚊になりつつあった。
メスの蚊の寿命は孵化した後、生存可能な期間が平均4週間と言われている。
朝顔は、産卵の為に一生で4回人間の血を頂いた。その内の2回は、ご婦人の右と左の太ももを流れる血液だった。
あとの2回も、やはり彼女の柔らかな左右の耳たぶから頂いた。
ご婦人は、朝顔の為に充分血を吸わせてくれた。

 3回目の産卵に必要な吸血場面を、朝顔はよく思い出す。
大好きなご婦人の体臭と吐く息さえ、我が事の様に思える程、同化してしまっていた頃だ。
カゲロウの様にフワフワと飛び回り、白くて柔らかなご婦人の左耳たぶに着地した。
しかし、この時、既に深刻な病がご婦人の肉を蝕み、精気まで貪っていた。
小さな手鏡を持つ、か細い指まで小刻みに震えさせていた。 
年老いたオス鳥が胸を精一杯張ってメス鳥にプロポーズするかのように、ご婦人も姿勢を正し"春の小川"  と言う有名な童謡歌を丁度歌い終えていた時だった。
ご婦人は手鏡を覗き込み、頬がこけた自分の顔に溜息をついた。
その時、たまたま手鏡に映った朝顔を見て懐かしげに微笑んだ。

「まぁ、綺麗なイアリングだ事!」
「朝顔さん沢山吸ってね」
「いいお子様を育ててね!」

 暖かな励ましの言葉までかけて貰ったタエコの母、朝顔は恐縮した。
人間の大切な血を、盗人の様に吸血する自分の性を恥じた。
重篤な病を知りつつ、慈愛に満ち溢れたご婦人に感極まった。
忌み嫌われでも当然の虫ケラ、蚊如き分際に名前なんか!
誰がつけてくれようか!

 古来由々しき誇り高き種族に違いはないが、情けない思いに苛まれた。
人間様に少しでも役に立ちたい一心で、現在まで弛まぬ努力を重ねてきた3種の蚊族。
待てぞ暮らせぞ、そう易々と人間様との距離は中々縮まらなかった。
そんな胸に詰まる淀みを晴らしてくれたのが、朝顔と命名して下さった妙子様だった。
蚊族にとって、それが人間様のほんの気まぐれであったとしても全てが報われた気持ちに一瞬でもなれた事は奇跡だったのだ。
1200年の進化に光が射しこむ大事件でもあった。
蚊の世界を震撼させた出来事だった。
皆んなのモチベーションは高まり、人間界への信頼が一気に深まった。
言葉では言い表せなかった!
そんな、多大なるご恩を頂きつつ、何一つ恩返しもできぬ我が身を腹立たしく思い、最近はご婦人同様、睡眠不足で、真っ直ぐ飛ぶ事さえ儘ならぬ状況だった。
大恩人であるご婦人の病を何としてでも治して貰えるよう必死で、蚊の神ジーバに手を合わせた。
焦りが募る中、自らの命が数日あるかないか?
朝顔は残された寿命の少なさを恨んだ。

 今朝早く、娘のタエコが朝顔の無念な気持ちに寄り添い「必ず、ミラクル蚊を見つけ出しご婦人の病を治して差し上げるわ!」と、胸を張って誓いのダンスを兄弟姉妹と共に踊ってくれた。
とても嬉しかった。
朝顔は元気が湧いてきた。

 縁側でお地蔵さまの如く佇んでいるご婦人は、目を細め、庭に咲く花や木や鳥や虫を愛おしく眺めている。
余命いくばくも無い彼女の寂しい気持ちに共鳴してしまうエンパシー蚊の朝顔は胸を抉り取られる想いだった。
僅かながら残された命の短さ、尊さや儚さに心を揺さぶられている彼女の心情が、満月の夜、海辺の砂を攫(さら)う波のように、鮮明に朝顔の胸中にも押し寄せてくる。

 ご婦人のお顔に、怪しく不気味な影が浮きでている。
        不吉だった

「どうか!」
「神様、彼女をお救い下さいませ」
「彼女が元気になられるのなら、生まれ変わりが蚊ではなく、大嫌いな家グモになろうとも構いません」

 朝顔は手を合わせ祈った。
その願いが届いたのだろう。
タエコの元に朗報が入った。

 2日前、大豪邸に住んでいたスピーチー蚊を訪ね、友人である雀のリーダーにミラクル蚊を探して貰える様に頼んだばかりだったが、なんと!
雀達の情報網たるや!
ミラクル蚊を、早々に探し出してくれたのだ。
おもたせの果汁を溢さぬよう、従兄弟と母と連れ立って出掛けた日から、たった2日しか経っていなかった。

 それも人間の病をまだ一度も治した事の無い若い蚊だと言う。
2,3日前に孵化したばかりだとの情報を聞きつけ、
親切なスピーチー蚊が羽を風に靡(なび)かせ、タエコと朝顔の住む場所にわざわざ、そのラッキーな知らせを届けにやって来てくれたのだ。

 ミラクル蚊が人の病を一度治してしまったら2度目は無い。
急がなくてはならない。
早急にタエコはミラクル蚊の棲む場所に飛んだ。
ご婦人の病をどうにか治して欲しいとお願いする為に、無礼なき様、品のある花の香りを身体に擦り付け出かけた。

妙子は老いた母親の朝顔に、急いで、その朗報を伝えた。
母は咽び泣いた。

「あー」
「なんと、素晴らしいことでしょう」
「神様ありがとうございます」

 母は、顔に手をやり涙を拭った。
その所作は、まるで人間の様だった。
蚊は涙など出ない。
だから拭うことなど、本来ならしない。
この奇妙な動きこそ、エンパシー蚊ならではの同化反応だ。
血を吸った人間との絆が強ければ強い程、その人間の仕草や喋り方までそっくりになってしまう。
タエコの母もその症状が出ていた。
特に死を間近にしたら、その症状は頻繁に現れる。
タエコは覚悟した。
体力がかなり無くなりつつある母には、我が家で休んで貰うことにし、タエコとスピーチー蚊だけでミラクル蚊に会うことにした。

 その際も、熟れた野いちごの甘い果汁を口いっぱいに含みご挨拶として持参した。
力一杯、羽を広げ、風の向きを計算しながら日陰を選び、案内役のスピーチー蚊の跡を追った。
時々、休憩を取りながら15分程かけて美しい川沿いにある草むらに到着した。

 そこには沢山の岩があり、その苔むした岩の隙間が格式高きミラクル蚊のご家族が住むお屋敷だった。
その岩の隙間には、安心して卵を産みつけれそうな水がたっぷり溜まる窪みもあった。
日照りが何日続こうが、この場所なら水が枯れる事はないだろう。
その上、この辺りは犬の散歩道で人の血には困らない場所でもあった。

流石に立派な環境に住まわれている。

 タエコは緊張をし、口いっぱいに含んだ野いちごの果汁を溢しそうになったが、どうにかミラクル蚊の娘さんを持つご両親様に震えながら口移しすることが出来た。

 タエコの母、朝顔の苦悩を丁寧にお話しすると、ご両親様は感動された。
そして、ミラクル蚊として生まれた誉れ高き娘を、お呼びになった。
初々しいその娘は礼儀正しくお辞儀をされた。
両親から事情を聞くとニッコリ笑ってタエコの方を向いた。

「さぞかし、お辛かったことでしょう」
「もう、ご心配いりません」
「私が、明日、お母様のお慕いされている方の血を吸いに参ります」
「そのご婦人の病を私が頂戴します故、ご安心下さい」

 野原一面に咲く、満開の菜の花の如き後光がその娘を照らした。
タエコにその娘は手を差し伸べた。

タエコはつかさず一歩前に歩み寄り、その手を、畏れ多くも舐めた。
この行為は最高の謝意であった。
尊敬と感謝を込め、タエコとスピーチー蚊は地に頭をつけた
手を差し出されたとしても、ミラクル蚊に触れてはいけなかった。
頭を地につけ、跪(ひざまず)くのが礼儀だったのだ。

ご両親は、ミラクル蚊として生まれた娘に改めて誇りを抱いた。
そしてタエコに約束をしてくれた。

「明日にでも娘を交尾させ、心美しいご婦人の血液を頂き、病を治しに行かせます」
「娘は、一回だけの出産しか出来ませんが神様より多大なるご褒美を頂戴する事でしょう」
「全ては朝顔様のお導きのおかげです」
「何とぞ宜しくお伝え下さいませ」
「娘にも、そのご婦人は名前を付けて下さるかも知れないですし、美しい心の人間の血は蚊にとって最高の子宝に恵まれると言います」

両親は大層喜んで下さった。

 タエコは羽を2回広げ、敬意を表した。
相手に背中を見せる事なく後退りした。
そして静かにスピーチー蚊と一緒に飛び立った。

 帰宅したタエコは、母、朝顔にミラクル蚊のご両親から頂いた快諾の有り難い内容を事細かく話した。

「明日、ミラクル蚊の娘さんは婚約相手と交尾を済ませ、ご婦人の病を治す為、血を頂きに行くだろうから、お母さん、もう心配しなくていいわよ」

耳が聞こえにくくなった母、朝顔の耳元でタエコは優しく囁いた。

 そのご婦人の病が治り、元気になられたお姿を一度だけでも見せて、あの世に旅立たせて上げたかった。
奇跡を喜ぶ母の笑顔を見たかった。
しかし、朝顔はタエコから聞いたその素晴らしい話に満足したのか?
喜びの羽音(はおと)を、必死で鳴らそうとしてくれたがその音は残念ながら聞こえなかった。

 しかし、少しだけ目を開け微笑んでくれた。
そして、心配そうに震えるタエコをほんの数秒間だけ見つめた直後に、母、朝顔の手足が痙攣し始めた。
その痙攣が止んだ後、一気に朝顔の真っ黒だった瞳は生気を失った。
手足はしなだれ、身体全体が糸くずの様に縮んで見えた。
柔らかな風に左右に揺られ、綿棒の先にも満たない綿菓子をこねたかのように小さく丸まっていった。そしてタエコに先程まで笑いかけていた目は、月にある黒点に沈んだ。

タエコは、自分の目から出るはずも無い涙を想像し
母、朝顔が最後に見せた涙を拭う仕草を真似てみた。

 母、朝顔に敬意と感謝を表す儀式を兄弟姉妹を代表して一人執り行った。
羽を大きく広げ、大地に3度キスをし、再生を願い、母を悼んだ。
母の亡骸が風に飛ばされない様に、一晩中、抱きしめていたかったが、それは叶わぬことだった。

何故なら、タエコにとって最初の産卵期間が過ぎて居たからだ。
急ピッチで新しい家族を作らなくてはならなかった。
今回のミラクル蚊の件で、かなり世話になった従兄弟の友人でもあるスピーチー蚊にお礼をしたかったタエコはスピーチー蚊の三番目の兄からのプロポーズを受ける決心をした。

 早速、タエコとそのオスは空中で互いの周りをクルクル飛び回り、触覚で羽の音を認知し相手の健康状態を把握した。
遺伝子に不都合が、お互い無いと判断し、2時間空中を飛行しながら3回交尾をした。

 従兄弟の友人はスピーチーの才能を生まれ持っていたが、交尾をした兄さんは一般の蚊だった。
優しいお兄さんだったが、匂いが妙子の趣味では無かった。

 しかし、そんな我儘を言っている場合ではない。
蝿の研究をしている家の庭を、いち早く、我が住居にしなくてはならないからだ。
その家に住まれている男性の血を一刻も早く吸い、松の木の下にある、鳥用の水飲み石の窪みに産卵しなくてはならない。
この場所を逃したら、それこそ、竹の切り口か空き缶か、植木鉢の受け皿に産卵しなくてはならないかも知れない。
そうなったら、折角生んだ子達を殺す事になるかも知れない。
絶対嫌だった。

 中々無い理想の産卵場所であり、願ってもない環境の住居。
タエコは生まれて初めての吸血に胸が張り裂けんばかりだった。
多分、犬のつよし君を散歩させる男性の足首にある血管から貴重な血液を頂戴する事になるだろう。
あらかじめ、シュミレーションする為に現地に飛んで行き、何度か想像を膨らませてみた。

 タエコは、その憧れの家に住む家族構成や住人の細かな情報を、幸運にもその家のペット、つよし君とよくおしゃべりする犬専門に血を吸うスピーチー蚊の知人から聞いて知っていた。
その家には50歳の独身男性と73歳の母親が住んでいた。
古い屋敷だから蛇もムカデもいるみたいだ。
蚊にとって天敵である蜘蛛が庭に沢山巣を張り巡らせているので注意して飛行しなくてはならないし、いつ、何時、襲われるやも知れない。
この自然界を生き抜くには油断は禁物である。

そんな屋敷に住む親子は仲が案外いいみたいだ。
息子が、かなり親思いで滅多に喧嘩もしないらしい。
母親は、根っからの天然で、お気楽な性格。
息子は蝿の研究を長年している。
背は普通だが割に男前だと、飼い犬のつよし君は話しているみたいだ。
超有名大学を卒業し、自宅と研究所を往復するだけの生活で、結婚もせず50歳まで独身を貫いていた。
近所の人達は、その風変わりな息子に対し、少し冷ややかだと言う。
今まで女性と一緒のとこを見た事がないので、性癖がノーマルじゃあ無いと疑っているのだ。

「あの人、かなり癖がある男に違いないわよ〜」
「もしかしたら、家の中に小さい女の子を誘拐して監禁してるかもよ〜」
「ほらっ、去年、隣町に住む小学校3年の女の子が行方不明になって、いまだに見つからないじゃない?」
「なんだか?」
「あの男性、怪しい気がするのよねぇ」

そんな物騒な噂がチラホラ聞こえていた。

 だが、その主人と3年以上暮らしている犬のつよし君からの情報によれば、実際は気持ちは純粋で実直な人間らしい。
つよし君は、母親に甘えるのが大好きだが、実は勇敢で優しい。
毛色がコロコロ変わるヨークシャテリア犬種で、人間で言うならば28歳になったばかりだ。

 スピーチー蚊の才能は犬や猫、鳥などと話せる事だが、犬や猫や鳥にとっても自分達の愚痴や悩み、喜びを共有してくれるスピーチー蚊に感謝してくれている。
また、人間の気持ちや環境変化に関する情報は犬や鳥、猫達にとって必要不可欠だ。
ミラクル、スピーチー、エンパシー3種間ならではの特性を活かした情報や結束力で仕入れた貴重な人間社会の話題は、近所の猫や犬達にも絶対欠かせない大切な情報である。

 何故なら、彼等も、犬や猫、鳥達の井戸端会議に参加する限り、新鮮なネタを持ってない事は仲間はずれ間違い無しだからだ。
少なくとも、一つ二つの面白いネタや役に立つネタをご披露しなくては皆んなから馬鹿にされかねないのだ。
花火大会で例えるなら、仕掛け花火や、大玉花火クラスのネタをご披露したなら一躍有名人扱いされる。
そうなれば、締めたもんだ。
お目当ての異性にアピールし易くなるのは無論、沢山の友人に恵まれ餌の在処や、遊び場所にはこの先困らない。

 そう言った理由から、誰もが花形スターを目指す為、皆んながびっくりする話題を躍起になって仕入れたいのだ。
その点、飼い犬や飼い猫、インコやオウムなどと仲良しになれるスピーチー蚊の情報は、人間様の事を知るには天下一品だった。


 交尾を終えたタエコは、まっしぐらに蝿の研究者のお宅に飛んで行き、松の木の下に生えている苔の上で血を頂くチャンスを伺う事にした。
夕刻、犬の散歩をする研究者を少しドキドキしながら待った。
下手をすれば、殺されるかも知れない。
この世はサバイバルだ。
兄弟、仲間達の大多数は人間様が開発された有毒スプレーや蚊取り線香などで意識不明の痙攣を起こし、あえなくお陀仏になったり人間の掌で思いっきり平手打ちされてぺったんこになり押し花状態であっけなく死んでいた。

 母の様に身内の誰かに見送られて、寿命を全うする平安な死に方は蚊の世界では、滅多に望めない。
捕食されたり、意識不明、行方不明、薬剤の副作用に苦しみながら悶絶か!
頭はちぎれ、手脚もバラバラ、どこそこの誰々さんかどうか、見当もつかない状態の蚊はザラにいた。

「あっ!」

 研究者を引っ張るようにつよし君が玄関を飛び出してきた。
健康的な桃色の舌を垂らし、ピンと長い尻尾を立てている。
男性はTシャツと短パン姿で、手にはティッシュを何枚か入れたナイロン袋を持っている。

 蝿の研究者はタエコが想像していたより綺麗な顔立ちだった。
どちらかと云えば女性的な身体付きをしている。
足元を見ると素足にスリッパ履きだった。
血を吸いやすい。
ラッキーだ。

 昨日、行きつけのペットサロンで働くトリマーをしている可愛い女の人に、ナデナデされながらヘアカットをして貰ったつよし君は鼻高々だ。
見目麗しい姿に変身し意気揚々としている。
まして、今日は大の親友スピーチー蚊からの頼まれごとをやり遂げなくてはならない。
やる気満々だ。

「オットー」
「スピーチー君が言った通りだ!」
「産卵間近なメスの蚊が待機しているぞ」

つよし君は鼻を膨らませた。

 タエコに向かって大きな瞳を片方だけ瞬時に閉じた。
ウインクでご挨拶してくれたのだろう。
つよし君にスピーチー蚊の知人が話をつけてくれていたのだ。
情に厚くお利口なヨークシャー犬、つよし君のご先祖様は、もともと、すばしっこい動きを買われてヨークシャー地方の炭鉱や織物工場のネズミを駆除する為に飼われた番犬だった。
長い尻尾は、ネズミに察知されやすい理由で断尾されてきた悲しい歴史がある。
いまだにスタイル重視のしきたりを守る日本では、彼らの苦しみを無視し意味もなく断尾している。
この家のヨーキー、つよし君は幸せ者だった。
虐待を嫌う研究者の意向で長い尻尾はそのままだ。
その尻尾を振りながら、タエコが安全に吸血するグッドタイミングを見計らってくれている。

 早速、タエコの前で途切れ途切れのウンチをコロコロと落とし始めた。
研究者が屈んで少しずつ歩き、間隔を開けて放出されたウンチをティッシュで掴んでいる。
普段より飼い主がかなり手間取っている間に、つよし君は可愛い目をパチクリし、前脚を揃えて踏み締め後ろ脚で大地をキックした。
その振動がタエコの身体に伝わり、吸血の合図を示してくれた。

 人間の男性の肌は、女の人に比べ皮膚も硬く血液の流れも早い。
若いメスのタエコならどうにか最低3回は産卵の為に研究者の血をこれから頂戴できるはずだ。
研究者の左足くるぶしがターゲットだ。
比較的柔らかな皮膚を目掛けて急発進した。
無事、着地した。
初めて人間に触れたタエコは感慨に耽りたかったがそんな暇は無い。
肌の感触は苔や葉っぱと比べ留まりやすいが、何と言っても汗の匂いと体温に驚いた。
熱を持った物と直接触れ合った事がないからか?
最初は火傷するかと思うほどだった。
しかし、この暖かさによりタエコの身体を巡る体液が活発になって、これから子を持つ親に必要なエネルギーが活性化していく感覚が掴めた。
脂性の男性の肌は滑りやすいらしいが、この男性は違った。
皮膚が乾燥し産毛らしきものもなかった。
おかげで、しっかり脚6本を固定出来た。
思ったほど皮膚は硬く無い。
下唇にある直径0.002ミリの極めて細い6本の束になっている針を直角に血管に刺し入れる。

 外側2本の針は、皮膚を切り裂くためにノコギリのようにギザギザしている。
真ん中にある管が血を吸う機能を持っている。
その管から血がはみ出さない為に一対の針が密着している。
血を吸う前に血液を固まらせない液が、別の針から唾液が血管に注入され血を吸うのだ。

タエコは人間の血を初めて吸った。

 なんだろう?
この感覚は?
不思議としか言いようがなかった。
身体が急速に火照り始めた。

「うっ!」

燃えるようだ。

今まで、飲んでいた果汁なんか比べものにならなかった。
お尻から火を吹きそうだった。
甘くて芳醇なまろやかさが口中に広がりなんとも言えない。
幸福感と陶酔感に酔いしれた。

 この人間特有の風味ある濃厚な血液が、大切な卵を満遍なく丈夫に育てる理由がやっと理解できた。
初めて人間の血を吸い終えたタエコの身体は、かなり重たくなったが、それ以上に力が漲り、寧ろ身体を支える脚や羽の数が何倍も増えた気がした。
すると、突然、頭が大きく揺れた。

「何?」
「地震?」

 頭が右に左に傾いた。
数十秒後、タエコは血を吸った人間、つまり研究者の男性に同化してしまったのだ。
まるで人間に生まれ変わったかのようだ。
紅茶ポットに湯を注ぎ込むと茶葉の色が無色透明な湯にあっと言う間に染み出す様に、研究者の気持ちや、彼が今まで生きて来た中の重要な記憶が全てタエコは判ってしまった。

 研究者は、頭の毛や眉毛、睫毛はかろうじて有るのだが、首から下の体毛、脇毛やすね毛、陰毛が殆ど無い病気を気に病んでいた。

 昔、結婚したかった初恋の女性に毛のない裸を貶され笑われた過去があった。
その残酷な言葉は、彼を今だに苦しめていた。
それ以来、気の弱い彼は可哀想に女性恐怖症になってしまったのだ。

 もともと、研究者は両方の性を受け入れる事を厭わなかった。
つまりバイセクシャルだった。
だが、男性に声を掛けてまで恋愛をしたいとも思わなかった。
空想を楽しむだけで満足していた。
傷つくのはもうコリゴリだったからだ。

 彼や、彼の母が可愛がる愛犬の名前、剛(つよし)は、剛毛に憧れ付けた名前だった。
蝿に興味を持ち始めたきっかけも、剛毛の蝿に強烈に惹かれたからだった。 
毛深い蝿への執着はいつしか屈折した異常な愛へと傾いて行き、異性以上に性的感情を抱く様になっていた。

 
「男性の血液を吸うのは、女性に比べ大変だよ!」と言う情報を蚊の仲間達から結構聞いていたが、想像していたほどではなかった理由がやっと判った。

 研究者の主な研究目的は、日本ミツバチなどがダニ駆除の性質を兼ね備えている能力を蝿に反映させる事だった。
蝿を媒介とした細菌により広がる農作物の病気や、サルモネラ菌、赤痢菌、O157菌、ピロリ菌などなど、人間への感染不安などが現実問題として、いまだに解決出来ずにいる。
そのせいで、蝿は鬱陶しい害虫としてのイメージをどうしても払拭出来ないのだ。

研究者はそんな状況にいらずいていた。

 遺伝子操作により、ミツバチの様にウイルスや細菌駆除の性質を身に付けさせたかった。
害虫イメージを少しでも無くし、大好きな蝿を有益な昆虫のイメージに変えていきたかった。
長年に渡りその壮大なる夢を諦める事無く、抱き続けていた。

 愛する蝿が、悪役にされている現実に彼はどうしても我慢ができずに居たのだ。
実際、農産物の害虫駆除に一役買っている蝿もいるし、死骸などの分解にも蝿やウジの存在により土壌再生にも役立っている。
有機廃棄物の分解にも家蝿の蛆虫を利用すれば、従来の微生物を利用した分解技術に比べ、1年掛かっていた期間を、僅か1週間の短期間で分解出来る研究成果を出している会社もある。
大きな飛躍だ。

二酸化炭素や有害物質を発する事なく有機飼料や肥料を作り出しているのだから。

タエコは蝿の研究者の気持ちに、ほぼ、ほぼ、共感を得た。

 エンパシーの才能を有する蚊としての不思議なテレパシーが研究者の願いや過去の苦しみ、悲しみ、喜び、幸せを勝手に受信してしまう。
母、朝顔が大好きだったご婦人に異常なほど共感し、涙まで流しつつ彼女の悲しみや苦しみを我が事の様に語っていた気持ちがやっと理解できた。

 彼が異常なほど愛する対象の蝿に、自分が蚊である事をついつい忘れ、強烈に蝿と言う生き物に興味を持った。

 タエコは少しだけ開けられた窓の向こう側から研究者の部屋を覗き込んでみた。
レースのカーテンの隙間から充分見る事が可能だった。
その部屋には、なんとも沢山の蝿が種類別に6グループに分けられていて、大小様々なガラス製やプラスティック製のケースに入れられていた。

 ブンブン羽を鳴らし、忙しく飛び回る落ち着きのかけらもない蝿や、餌を無心で食べている食いしん坊万歳の蝿、"沈黙は金"を地で生きる哲学者の様に身動きもせずじっとしている蝿、手足の汚れが気になって仕方ない潔癖症の蝿と、見ているだけで楽しくて胸がワクワクする。

 交尾をしている蝿もいた。
蚊の交尾の仕方と違い、オスがメスにおんぶされる形で生殖器同士を合体させて居た。
蚊の交尾は、生殖器をオスとメスが顔を見る事なくお尻をぶつける形で行う。

蝿の交尾は少しエロティックに感じタエコの気持ちをくすぐった。

 窓に1番近い机の上には、タテ30センチ、ヨコ20センチ、高さ40センチの透明な箱があった。
部屋の中に沢山ある入れ物の中では中クラスの大きさだった。
その入れ物には蝿が逃げれそうに無い小さな穴が沢山空いていた。
そんなプラスティック製のケースの中に入れられているのは、直径10ミリ以上はありそうな1匹の蝿だけだった。
他の雄蝿に比べガタイは一回り大きく、漂うフェロモンは半端なかった。

その蝿には一風変わった名前がつけられていた。   
英語でアイロニカル(皮肉)と書かれた紙が、プラスチックケースに貼られていた。

       ーアイロニカルー

 研究者のお気に入りの蝿だった。
彼は、アイロニカルに遺伝子操作を施していた。
P1細胞、生殖作用を司る細胞を変異させ、より強靭な体力と精力を合わせ持ったスーパーマグナム級の蝿として進化させていたのだ。
優秀な蝿同士を、何世代もかけ合わせた選りすぐりの蝿でもある。
アイロニカルを超える子孫を雌蝿に沢山産んで貰う為、生殖機能をより強化したのだ。

 他の雄蝿とは比較にならなかった。
フォームの美しさと畏怖堂々とした存在感は蝿というか?
AIロボットみたいだ。
毛も太く、男性ホルモンを持て余しているのか?
生殖器が異様にデカく脂ぎってテカテカひかり輝いていた。
与える餌も、他の蝿達に比べ高脂肪、高カロリー、ミネラルたっぷりの栄養価の高い食品が与えられていた。

 タエコとアイロニカルの目があった途端、アイロニカルの態度が突如として変わった。
タエコに向かって敬礼でもするかの様に身構えた。
夜空の星ほどある瞳を一斉に輝かせ、タエコからけっして目を離さなくなったのだ。
すると、片方の羽を広げ小刻みに動かし始めた。
羽から奇妙な、しかし何故か胸躍る音がする。

タエコにはその行動が多分求愛だと直感で解った。

 蚊のオスも蚊柱と言う、毎秒1200回の羽音を出しメスの蚊にアプローチしてくるので、雰囲気から察するにタエコには言わずもがなであった。
そのオス蝿が発する強烈なフェロモンが、透明なケースの穴から漏れ出し、空気の流れに乗ってタエコの身体全体を包み込んだ。
嗅覚、知覚を麻痺させた。

 アイロニカルの放つ独特なフェロモンは、奇妙な物質を含んだ鉛のような物資となって、重力に逆らいながらタエコがいる窓辺に向かって地を這った。
その物質は、まるで生き物の様だった。
アイロニカルの分身として手となり足となってタエコに、なんとしてでも接触を試みようとしているかの様でもある。

 そのプラスティック製のケースにある無数の小さな穴を、数十分で塞いでしまいそうな濃厚な匂いをアイロニカルは惜しみなく身体中から発散させていた。
タエコも無性にアイロニカルに興味を抱き、種の異なる異性である事さえ忘れてしまうほど愛おしく、狂おしく思えてならなくなった。

 研究者の血液を吸い、エンパシーの力が働き、研究者が最も愛するオス蝿アイロニカルをタエコも、同様に愛してしまったのだ。
タエコにとっても、蝿の剛毛は蚊の体毛に比べセクシーで逞しく見惚れてしまう。
蚊の雄は、蝿に比べ毛が薄く異性としての色気など全く感じなくなってしまった。

 狭く透明なケースに一匹だけで閉じ込められているアイロニカルが可哀想になり、タエコはどうにかして外の景色を見せてあげたくなった。
そんな同情と、アイロニカルへの切ない想いを抱きつつタエコは産卵をする為、ひとまず、我が棲家となった水飲み場に急いだ。

 人間の赤ちゃんの頭くらいの大きさの窪みがある重厚な御影石が見えた。
産卵を急いだ。
吸った血液や卵の重みで、飛行状態のバランスが悪かった。
母親になる感激は、薄情かも知れないが湧かない。
好きでもないオスの蚊の子だからか?
否、違う。
愛するオスと出逢ってしまったからだ。
アイロニカル
オスの蝿だった。
蚊と蝿の恋愛?
まさか?
嘘でしょう?
タエコは自問自答をした。
心の隅っこで蹲(うずくま)って悩んでいる自分を俯瞰(ふかん)しながらも、アイロニカルへの渇望は募った。
この狂おしい気持ちは抑える事など、到底、出来そうになかった。

 呆気ないほど、簡単に産卵を終えた。
重たかった身体が一気に軽くなり、脚に力を入れなくては、僅かな風にでも煽られて何処かへ飛んでいきそうだった。
数百個は有るだろうか?
青みがかった2ミリに満たない小さな小さな物体が集まって水面に塊で浮いていた。
一般の蚊の世界では見た事の無い、蚊族ならではの希少な楕円形の卵を、母性より恋愛感情に征服されてしまっているタエコは、ただの排泄物としてボンヤリ眺めた。

もう、次の産卵まで吸血する必要はない。
一度の吸血分1ミリグラムの血液が栄養となってくれる。
タエコは、恋しいアイロニカルに丸3日間、毎日続けて何時間も会いに行った。
彼も、日に日にタエコを欲する気持ちが強くなり、他のメスの蝿には見向きもしなくなった。
研究者はかなり困っていた。

「何故?」
「交尾しないんだろう?」
「まだ、まだ、生殖器官が老化する年齢ではないのだが?」
「子を沢山作って貰わないと研究に差し支えるなぁ〜」

 研究者に寄り添う気持ちが強いタエコ。
「研究者の邪魔をしてはならない!」
自粛を決心し、丸1日間だけ彼に姿を見せない事にした。
そうこうしている間に、そろそろ2度目の産卵に備え、2回目の交尾をしなくてはならなくなった。

 タエコは、今まで感じた事の無い嫌悪感に襲われ目眩がした。
オスの蚊との交尾を想像しただけで吐きそうだった。

「嫌だ!」
「アイロニカル以外のオスに触られるなんて!」
「死んだ方がマシだ」

日に日に腹を膨らませる我が子を呪った。

「うん?」
「待って!」
「何故?」
「勝手にお腹の子達が成長しているの?」
「交尾もしてないのに?」

頭が痛くなった。

「はて?」
「あっ!」
「そうか!」

 大きな勘違いをしていた。
蚊は、一度きりの交尾さえしとけば良かったのだ。
蚊のメスの生殖器官には、授精嚢という精子を溜めておく袋があったのだ。
スッカリ忘れてしまっていた。
何故なら、タエコは研究者に同化していたからだ。
つまり、人間の性を共有しあっていたのだ。
人が妊娠するには蚊と違い、その度に性行為を要する。
蚊として、通常在るべき生殖本能が、研究者の強烈な性欲パワーに圧倒されて失念しかけていた。

研究者は複数の同性、異性との性行為を夜毎、想像していたのだ。
しかし、あくまで、その欲望は想像だけであって彼自信が、その行動を実際に起こす確率はかなり低かった。
何故なら、彼の高度な理性が邪魔していたからだ。
研究者の気持ちに強く寄り添うエンパシー蚊のタエコは、頭がこんがらがってしまい、メスの蚊である事をついつい忘れてしまっていた。
やっと、蚊は人間とは違い、交尾を何回もしなくとも産卵可能だと言う事を思い出した。

「2回目の交尾をする必要がないのだ!」
「あー」
「助かったわ」
「良かったぁー」

 タエコは、ほっと胸を撫でおろした。
今や、アイロニカル以外のオスに接触するなんて考えられなかった。
既に、研究者とアイロニカルに心の99%を占められていたタエコだったが、残り1%だけはアイロニカルに捧げたかった。
彼と1日だけ会わなかったが、それ以上は限界だ。
彼と会わなかったら死んだ方がマシだと本気で感じた。
彼もタエコが会いにくると他のメスには目もくれず求愛行動を盛んに行った。
じれったい想いが彼を狂わせた。
異常な行動を呈し始めた。
頭をプラスティックにぶつけたり、上下左右に飛び回っては失神を繰り返すようになったのだ。
神経性の病気にかかったみたいに、しょっちゅう頭部を激しく揺らしタエコを欲する激しい性の衝動と戦っていた。

 お互い直ぐにでも交尾をしたくて仕方なかった。研究者はアイロニカルの行動の変化を毎日記録している。
1日に1時間メス蝿を入れ、交尾の様子を観察しにくるのが日課だった。
しかし、この数日はメスの蝿との交尾を一切しなかった。
不思議で仕方ない研究者は苦悩していた。
タエコは、自分のせいで研究者を苦しめている事態を反省した。
その大切な研究時間だけでもアイロニカルや研究者の邪魔にならない様に姿を隠す事にした。
悲しみや嫉妬心をなるべく膨らませない為に、気分転換に花の蜜や果実の汁を吸いに出かけ、研究者が、時たま口ずさむ素敵なメロディ"いっそセレナーデ"を思い出しながら踊ってみたりした。

 しかし、心とは裏腹に研究者の強い願望に吸い寄せられ、アイロニカルの交尾を見たくて仕方なくなった。
怒りや焦燥感に駆られ、嫉妬心で気が狂ったとしても構わないとさえ思った。
かたや、アイロニカルに対する屈折した欲望が蠢いた。
このままだと、いずれ確実にメスの蝿と彼との交尾をタエコは見ることになるだろう。
彼とて、性欲には勝てない。
そうなったら、そのメスの蝿になったつもりで彼に抱かれよう。
擬似体験をしたくなったのだ。
研究者に寄り添う気持ちと、アイロニカルを欲する気持ちが入り乱れ、タエコが出した究極の答えが擬似性行為だった。

 研究者が部屋に入り、雌の蠅をアイロニカルのケースに入れるのを窓枠で待った。
彼に気付かれない様に花粉を身体全体につけ、タエコ自身のフェロモンがバレないように工夫した。
彼がタエコの匂いに気が付いたら、彼はメス蝿には見向きもしなくなってしまうだろう。
そうなれば、血液を頂いた恩義のある研究者を悲しませる事態になってしまう。
そんなことはしたく無い。
研究者が選りすぐりの若いメスの蝿を捕まえた。
その美しい蝿に何と!
オスの蝿を堪らなくする研究者が開発したばかりのフェロモンエキスをアイロニカルに微量につけたのだ。
タエコは驚いた。
その香りは強烈だった。
頭を朦朧とさせた。
流石のアイロニカルもこの誘惑には勝てなかった。
素早くメス蝿の背中をはがいじめにし、交尾を始めた。

 彼のアソコは1発でメス蝿の生殖器に挿入した。
その瞬間だった。
タエコは、自分の心境の変化にびっくりした。
研究者の気持ちと一瞬で共鳴してしまったのだ。
彼とメス蝿の卑猥な繁殖行為を見る事で、ドロドロとした陰湿な悦びを感じてしまった。

「胸の鼓動が、不思議にゆっくりと静かに脈打った」

「しかし、何か、おかしかった」

とてつも無い胸騒ぎがタエコを襲った。

 彼、アイロニカルが微動だにしない雰囲気で交尾をし始めるとメス蝿の後ろ足が落ち着きが無くなり無秩序に動き始めた。
同時に、研究者の彼はズボンのチャックを慌てて下ろし、ほのかに桃色がかった長い棒状の生殖器を取り出した。
研究者の右手がその生殖器をわし掴みにし、かなり急速なリズムで上下左右に震動をさせ始めたのだ。
それと同時に奇妙な現象にタエコは狼狽えた。
メス蝿の後ろ足の動きと同調するかの様にタエコの後ろ足もじっとしていられなくなったのだ。
階段を登ったり下ったりしているかの様な忙しないメス蝿の足の動作を無性に真似たくなった。

あー
メスの蝿になっていく
あゝ
なんて気持ちいいんだろう
研究者と一心同体になっていく
彼の果てしないアイロニカルへの愛を感じる。
彼も一緒なんだ!
私がアイロニカルを恋焦がれる気持ちと同じなのだ。
天にでも昇るかの様な快感に満たされていった

「うっ!」
「誰?」
「誰がいるの?」

 タエコの幸福をかき乱す何者かが、そっと擦り寄ってきて耳元で囁く。
凄い形相のメスの蚊がそばにいる。
近すぎて、その蚊が誰かさえ分からない。
見覚えはあった。
水溜りに映ったメスの蚊。
幾度となく見た事がある顔。
懐かしい香りがする。
嗚咽を伴う胸の痛みが、猛烈に襲ってきた。

「やめて!」
「お願い!」

 アイロニカルに羽交締めされたメス蝿が、もがけばもがくほど、タエコは怒りで震えた。
気が変になりそうだった。
そんな混乱した状況から救い出してくれたのは、研究者の奇異な行動だった。
エンパシーの力が、嫉妬心や性行為の疑似体験を上回ったからだ。

 研究者の不審な行動が気になって仕方ない。
右手の奇妙な動きは滑稽ではあったが、天に向かって聳り立つ棒が神聖な物に見えて笑うに笑えなかった。
きっと、人間にとって欠かすことの出来ない厳粛な儀式だと解釈した。
研究者はいつもと違う真剣な表情でその儀式を執り行っていた。
同化したタエコもその儀式に参加せざるを得なかった。
5分くらい経った頃、研究者が仰け反り白目を剥いた。
神聖なる棒の先から魔法の様な白い煙が勢いよく立ち昇った。

「あっ!」
「神様だ!」
「神様が抜け出されたのだ」
「なんて!」
「素晴らしいんだろう」

 神の匂いがした。
朦朧(もうろう)としつつ、知らぬ間にオシッコを垂れ流していた。

「シマッタ!」
「時既に遅し」

見てはいけないものを見てしまったのだ。

「多分、これで私は死ぬだろう」と覚悟した。

 窓の隙間から煙の如く忍び寄り、妙子を包み込んだ強烈な香りに後頭部を何度も何度もどつかれた。一瞬、気を失いかけてしまい、よろめいて大地に転がり落ちてしまった。
研究者は悦に浸り充足感と幸福感に満たされていた。
即座に共感してしまう妙子も、この上無い程、充足感に満たされ大地に寝転び広い空を眺めた。

「今、起きた体験は一体何だったのだろう?」
「夢だったのか?」
「あゝ」
「なんて狂おしいのか!」

タエコの母が死ぬ間際に見せた手脚の痙攣そっくりな症状が起きた。

「あゝ、これが死と言うものなのね」

 目を閉じアイロニカルに別れを言った。
しかし、幸いな事に数分足らずで羽根は動き手足もしなだれず、母、朝顔のように糸くずにはならなかった。
奇跡の復活を遂げたタエコは徐々に正常な意識を取り戻していった。
このショッキングな出来事のおかげで、明確に為すべき欲求を一つに絞り込めた。

愛する彼アイロニカルをこれ以上、他のメス蝿と交尾させてはならない。

 許せなかった。
残酷だと思った。
幾ら、命の恩人である研究者様のお仕事だろうが、恋愛の自由を奪うことは良くない事だ。
そんな大罪を、大好きな人間様にこれ以上犯してもらいたくなかった。
一刻も早くアイロニカルを脱出させなくてはならないと、タエコは決心したのだった。
毎日、決まった時間に几帳面な研究者が雌の蠅と交尾をさせる為、アイロニカルの居る箱の蓋を少しだけずらしメス蝿を放つ。
その時間が正確に分かっていたので、タエコは、犬のつよし君と仲良しのスピーチー蚊に相談に行った。
出来ればその時間につよし君がアイロニカルのいる机を倒してくれたなら、彼が脱出出来るかも知れない。

 「つよし君にその件を話してもらえないか?」
妙子は恥を承知で頼んでみた。
蚊の世界から見れば犬はかなり大きい。
机くらいなら、ひっくり返す事は楽勝だと考えるのも無理はなかった。

実際、その話をつよし君にしてみたら友人は鼻で笑われてしまったらしい。

「机なんか、ひっくり返す事なんで出来っこないよ!」
「ただ、蓋を開けた時に研究者の気を逸らす事は出来るかも知れないな」
「その瞬間にその蠅さんがうまく逃げれたら最高に楽しいなぁ」

 研究者の気を逸らす方法を、頭の良い勇気抜群のつよし君はスピーチー蚊の友人と話を練ってくれた。

タエコに運が向いて来た。

やはり、ミラクル蚊の力は本物だった。

 母、朝顔の切なる願いは、若いミラクル蚊の命と引き換えに朝顔の死後10日間で叶えられたのだ。
縁側で寂しく日向ぼっこしか出来なかったご婦人に、担当医も驚愕するほどの奇跡が訪れたのだ。

癌の影がかなり小さくなっていた。

 ご婦人のエネルギーはみるみるうちに漲り、以前のように庭の手入れも出来るしご飯も美味しく頂けるようになった。
痩せて顔色も優れず、窪みがちだった頬にも赤みがさし気持ちふっくらとしてきていたのだ。
元気になられたご婦人の姿は目を疑うものだった。
ミラクル蚊が棲んでいた方角を向いてタエコは手を合わせた。

「感謝します」
「どうが、来世も素晴らしいものでありますように」

亡き母、朝顔に、この奇跡を見せてあげたかったタエコは無念の涙を流した。

 健康を取り戻されたご婦人も歳のせいか?
先日、携帯電話が冷蔵庫から出て来たり、スーパーに通ういつもの道を迷ってしまった。

「一人で話す相手もいないせいでボケできているのかも知れないわ!」
「いけない!」
「いけない!」

 そう思ったご婦人は来週にでも医者に相談しようと考え、メモ書きして冷蔵庫のドアに貼り付けた。
しかしその夜、水を飲みに冷蔵庫を開けた際、その貼りついた紙を見たご婦人は首を傾げるなり、サッサとゴミ箱に捨ててしまった。
庭の花や虫や鳥につけていた名前を言おうとすると、ご婦人の眼の前を急に横切って走り去る何者かの影が、ここ最近、頻繁に現れるようになった。
そんな時に限って、昔の嫌な思い出や悔しかった出来事をつい思い出してしまう。
今朝は、主人の命日だと言う事も忘れていた。
お坊さんが来られなかったら気がつかなかった。

 昼食を済ませ、庭に咲く花々の手入れをしていたら、知らないうちにアロエが一つ自生していた。
ご婦人は、咄嗟にあの日を思い出してしまった。

「そうだ!」

 あの女が住む家の庭にもアロエがなっていた。
聳り立つアロエの卑猥さが蘇ってきたのだ。
生涯で1番、屈辱的な出来事があった日。
私から主人を平気で奪おうとした女。
貧弱な身体つきの女を思い出した。
まるで子供の様な顔をした、その女の顔が目に浮かんだ。
婦人は、無意識のうちに手に持っていた植木ハサミで、その20センチ程迄成長しているアロエを滅茶苦茶に切り刻んだ。

「あらっ、嫌だわ?」
「何故?」
「可哀想に、こんなに切り刻まれちゃって」
「誰にされちゃったのかしら?」

 ふと我に返ったご婦人は何事も無かったかのように、植木ハサミに付いたアロエの汁を拭き取った。
その時の彼女の表情は、いつもの柔らかで知性と思いやりのある趣を醸し出していた。

 その頃、タエコは幸せに胸を踊らせていた。
アイロニカルが、つよし君の機転の効いた行動のおかげで見事脱出に成功し、外の輝かしい世界に颯爽と飛び立つ姿を想像するだけで、幸せに感極まり呼吸を忘れてしまいそうだった。

「2人で何を話そうかしら」
「2人で何処に遊びに行こうかしら」

 2人で見つめ合う時を思った。
触れ合う時を空想した。
彼の逞しい羽が奏でる音楽に合わせ、タエコは香り高い花粉を手脚につけ、自慢の空中ダンスを華麗なる蝶々を真似て踊ろうと夢みた。

 初めて自分の名前を告げる時、アイロニカルに負けない可愛い花の名前がどうしても欲しくなった。
彼は、その美しい花の名前で優しく呼びかけてくれるはずだ。

「その度に彼に口づけをしよう」

タエコは閃いた。

 母親の憧れのあのご婦人に花の名前を付けて貰いに行こう。
あの方ならきっと、タエコに似合う花の名前をつけて下さるはずだ。
血を吸わなければ、出雲出身の3種の蚊族の掟を破らずに済む。
元気になられたご婦人の太ももにそっと着地し、もし、気付いてもらえたらタエコに優しい声を掛けて下さるかもしれない。
いくら血を吸いたくなっても、それだけはしてはならない。
3種の蚊族の掟は破ってはならない。
母親に名前を授けて下さった人間の血だけは、子々孫々絶対吸ってはいけない。

タエコは何度も自分に言い聞かせた。


 研究者はいつもの時間に、アイロニカルとメス蝿を交尾させる為に部屋に入った。
その日はペットのつよし君の様子が変で病気ではないかと老齢の母が心配していた。

「病院に連れて行かなくて、大丈夫かしらねぇ?」
「大好きなささみ肉も食べようとしないのよ」

 つよし君を抱っこしたまま、途方に暮れた顔を研究者に向けていた。
彼が研究室に入っても、お母さんはつよし君を優しく抱きしめてサランラップに包んだささみ肉をエプロンのポケットに入れ、研究室までノコノコ入ってきた。
研究者もしょんぼりしたつよし君を抱っこしてやり、大好物の湯通ししたささみ肉を母のエプロンから取り出し口元に持っていってみた。
しかし、つよし君はクンクンと匂いを嗅ぐだけで、食べようとしなかった。
研究者は母同様に心配をした。

「昼からドングリ犬猫病院に連れて行ってみるから、お母さん心配せんでええよ」

 つよし君の頭を撫でながら、ゆっくり床に降ろしてやった。
研究者はお母さんを慰めた。

「じゃあ、お願いねぇ」
「つよしちゃん、直ぐにお腹の調子良くなりまちゅからね〜」

 研究者の母は、つよし君のお腹をさすり終えると仕事の邪魔にならない様に、つよし君を置いて部屋を出ていった。

 普段なら、研究室をかけ回って大変だから部屋に入れることはなかった。
しかし、今日は足元近くで頭をしな垂れ、しょげ返っているのでそのまま研究室の床に座らせておいた。
いつものように元気のいいメス蝿を網で取り出し、アイロニカルが居る透明なプラスティックの箱の蓋をずらした。

 機転の効くつよし君はこの瞬間を見逃さなかった。
俊敏に立ち上がり、研究者のズボンの端を力一杯噛み引っ張った。
研究者はびっくりしたかと思う間も無くバランスを崩しアイロニカルのケースに手をやりひっくり返してしまったのだ。

 つよし君は「ヤッタァー」と声を上げた。
これで、蚊の世界は勿論、ご近所の犬達のコミニティーの中でつよし君は飛び切りのヒーローだ。

 つよし君が秘かに恋する3軒先の10歳も若いオシャレな雌犬のプードル、リップルチャンにもこの勇敢なお話しがお喋りな鳥達や犬達の噂の的になり、近々耳に入る事間違い無しだ。
そうなれば、鼻をツンと上にあげ自慢げに可愛いお尻をフリフリしながらお散歩するリップルちゃんに堂々とご挨拶できるのだ。
運が良ければ?
リップルちゃんのご機嫌さえ良ければ?

「そうだ!」
「仲良くなれるかも知れないぞ!」

黒光りする自慢の鼻を3回舐めた。

 つよし君は、元気よく研究者の部屋を飛び出し、座椅子に座って饅頭を食べているお母様の太ももの間を目指し駆けていった。
少しオシッコの臭いがするが我慢して頭を突っ込み研究者に見つからない様に隠れた。
つよし君を追いかけて行った研究者は、その光景を見るなり呆れ果て怒る気も失せた。
何も言わず、研究部屋を片付けに戻った。

 開け放たれた窓からアイロニカルは勢いよく飛び出して行った。
光輝く世界へ、彼女を探し出す為に羽を大きく広げた。
彼女の独特の香りを風が運んできた。
アイロニカルの下半身は疼いた。

ー抱きたいー

その愛おしい残り香を頼りに夢中で追いかけた。

自分に驚いた。
何故、こんなにも凄いスピードが出せるのか?
生まれた時から、小さなプラスティック製の箱の中しか知らなかったアイロニカル。
風を切る感覚!

ーなんて気持ちがいいんだろうー

 羽が乾いて、急に身体が軽くなっていった。
何処にだって飛んでいけそうだと思った。
目に映る青い空、鳥が鳴き、彼方此方へとなびく風、山の雄大さ、川のせせらぎ、其れら全てがアイロニカルの胸を熱くする風景だった。
何処か懐かしい草や水の香り、道を歩く人達の話す声、笑い声、全てが新鮮だった。
躍動する興奮と、自由の身になった解放感で言いようの無い幸せに酔いしれていた。

 無論、この世界に愛する彼女がいるからだ。
やっと2人で暮らせるからだ。
彼女に早く、自慢の羽が擦れ合う音楽を聴かせたかった。
美味しい食べ物も彼女に口移しで与えたかった。
勿論、誰も居ない場所で、心ゆくまで優しい交尾を何度もしたくてたまらなかった。
全身に漲る剛毛を彼女に見せ、触って貰いたかった。
力を入れたら剛毛がピクピク動く。
きっと彼女は笑い転げてくれるはずだ。
こんな胸の高まりを感じた事等、生まれてこの方なかった。
どんなに美しいメス蝿と交尾をしても、彼女を見てからと言うもの幸福感など沸かなかった。
彼女だと思って割り切らなくては、触る事も出来なかった。

「早く見つけなくては」
「名前は何て言うんだろう?」

 タエコは母の恩人の住む屋敷内の閑静な庭に到着した。
縁側に座りお茶を啜りながら、童謡歌を口ずさむご婦人を発見した。
初めてお顔を拝見させて頂き、母の教えてくれていた通り優しく穏やかな人間のイメージでホッとした。
暫く彼女の歌う美しい声に癒された。
庭の花や草木が風と戯れて踊る愉快な光景につられて、アイロニカルに恋をしている幸せ一杯のタエコも踊りたくなった。

 夕暮れ前に西からこぼれる太陽の雫が、池の上をスイスイと泳ぐアメンボウが作る波紋の様に、タエコの羽や手足に広がり急速に汗を乾かした。
嫌な匂いをご婦人に嗅がせない様、気を配り、太ももの右内側を目掛けて羽音を僅かにさせながら柔らかな白い肌に静かに着地し止まった。
彼女の口からは、何も聞こえなくなった。
六甲山の豊潤な樹々の香りを含んだ空気を吸い込んだご婦人の胸が、たおやかに膨らんでいた。
ご婦人は、下を向きタエコの存在に気づいて下さった。

「あゝ、私を見て下さった」
「なんて!」
「なんて!」
「幸せだろう」

 一瞬、ご婦人の視野に靄(もや)がかかった。
彼女の知性を束ねていた美しいリボンが湿気で緩み、重たげに解けた。
まとまっていた形ある知のかけらが粉々に砕け、脳みその一部が溶解し始めた。
そして怒りや嫉妬という、心の奥深くに埃を被って隠されていた過去の暗い悍ましい記憶の残像がその醜い姿を表したのだ。
若かりし頃の主人の過ちを鮮明に蘇らせ、ご婦人の温和な顔は歪んだ。
唇も震え始めた。
怒りでガタガタと歯が擦れる音がした。
ご婦人は冷静を装いタエコに名前をつけた。

「チューベローズさん、遊びに来られたの?」

 タエコは、天にも昇る気持ちで彼女を見上げ、お辞儀をした。
"チューベローズ"  忘れない為にその名前を何度も反芻した。

「名前を頂けたんだ!」
「なんて!」
「エレガントな響きなんでしょう」

素晴らしい響き!
魅惑的な花の名前。
幸せ過ぎて身体の震えが止まらなかった。

「やっと、アイロニカルに花の名前を耳元で囁いて貰えるんだわ」
浮かれているチューベローズのすぐ目の前で、自分を見下ろし凝視する彼女。

「何か変だ!」

 チューベローズは危険に気づいた。
彼女の分身が彼女の皮を無理矢理剥ぎ取り、さなぎから羽化したばかりの蛾の様な生物に入れ替わってしまったのだ。
しかし、身体が恐怖で固まってしまい羽さえ揺らす事が出来なかった。
彼女は大粒の涙をポロポロ流し始め「チューベローズさん、貴女は私の主人を奪ったのよ」
「覚えてらっしゃる?」
「花言葉通りの危険な関係、危険な楽しみの為に、主人を誑かし、貴女は私に隠れて何度も女の幸せを味わっていたのよ」
「貴女はチューベローズの習性の通り、夜になると甘く切ない香りを漂わせ、私の大切な主人の心を惑わせてしまったのよ」
「私は主人の浮気を知った日から、チューベローズが1番嫌いな花になったのよ」
「あの香りを嗅ぐと吐き気を催すほど」
「貴女はまさしくチューベローズ、私の血を勝手に盗みに来て、、、」

この後の彼女の話す声は一瞬で途絶えた。

 彼女が流す涙で全身を覆われたチューベローズには彼女の話す声だけで無く、世の中のざわめきさえもう聞こえる事は無かった。

 訳ありの男女が、夜間に密会しているかのように2輪だけくっついて咲く真っ白い花、チューベローズの名前を貰ったタエコ。
ご婦人の左薬指に嵌められた結婚指輪がタエコを、一瞬で砕いた。

 チューベローズは身体中のリンパ液が破裂した。
ご婦人の左太もも内側に、押し花の様な胴体と幾本かの脚、そして、産卵間近だった数百個の青みかかった卵も糊でくっついた様にペッタリ貼り付いていた。
手足は1,2本ちぎれ、衝撃で吹き飛ばされていた。
柔らかな風が吹く。
その風は、ご婦人の汗やチューベローズのリンパ液をあっという間に乾かせた。

 1番重たい頭部が剥がれ始めた。
湿り気のある土に吸い込まれるように、ハラハラとその枯れたチューベローズの花は舞い落ちていった。

 ご婦人は何事もなかった様に空を見上げた。
初めて担任を受け持った頃を懐かしんだ。
小学一年の生徒一人一人の顔を思い出していた。
そして、縁側で起立をした。

「音楽の授業を始めなくては!」

 庭は教室へと様変わりした。
咲き乱れる木々や花々は、純粋無垢な瞳を持った8歳の少年少女へと変わった。
1番大好きな童謡歌、夏の思い出という歌を教えたくなった。
愛する主人と甘い口づけを交わし、夜になると身体中の肌に舌を這わし、快楽のハーモニーを奏であっていた新婚時代に2泊3日で訪れた尾瀬沼。
その美しい沼に、一際目立つ花があった。
純白に輝く花。
神々しい花。
大輪の夏芭蕉(なつばしょう)を想いだした。
その凛々しい夏芭蕉の気高さを見習い、ご婦人は姿勢を正しあごを引いた。
右手をタクトにし力強く振った。
満面の笑顔で歌い始めた。

 アイロニカルは、タエコのフェロモンを頼りに追いかけ、やっと童謡歌を歌う声のする庭先に辿り着いた。

縁側の下で愛する彼女が無惨な姿で倒れているのを発見した。

「なんて事だ!」
「何が起きたのか?」

我を忘れ、一目散に彼女のそばに飛んでいき寄り添った。

彼女は死んでいた。

 すでに死臭を漂わせていた。
悲しみより、彼女の身体から発する饐(すえ)た強烈なリンパ液の匂いに下半身は疼いた。
交尾は到底出来そうになかった。
身体はぺったんこで、挿入口が見当たらなかったのだ。

 彼女を食べるしか無い!
自分の物にしたかった。
誰にも食べられたくなかった。
微生物や小さな虫が集まりつつあった。
ダメだ!
彼女は僕のもの!
僕だけのものだ。

 アイロニカルは自分をコントロール出来なくなった。
気が変になってしまいそうだった。
やけに腹が空いてきた。

 アイロニカルの脳内伝達物質の何かが狂い始めた。
タンパク質を溶かす酵素入り唾液をたっぷり彼女にかけた。
そしてドロドロになって溶けた身体の部分に、チューブの役割を担う器官を挿入し無我夢中で吸引し摂取し続けた。
筋肉やリンパ液、プチプチとした楕円形の卵、脈拍器官、触覚、羽に至る全てを溶かしアイロニカルの命へと変わった。

愛する彼女を全て喰い尽くしたのだ。

見上げて見ると、そこには歌い終えた老女がアイロニカルを愛おしそうに見下ろしていた。

そして、にっこり笑って、亡くなった主人の名前でアイロニカルを呼んだ。



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