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って、言うか?  

我が家に、蛇が来た。
縁起を担ぐ人にとったら、燕が家の庇に巣を作るくらい吉報らしい。
蛇は、財 
やみしろともいわれる。
天井を這う音が、毎週一回、同じ時刻に、同じ場所から聞こえてくる。

 初夏、縁側の庇に、赤色の金魚が二匹だけ、華麗な尾鰭をたなびかせているシンプルな模様の入った白を基調とした伊万里焼の風鈴を吊るした。

 風がやや強めに吹く時、風鈴も、天井裏の蛇同様、何かの原理に基づいて、同じ時刻に、同じ場所から、這いずり回る音をさせる様に、必ず、涼しげに鐘を鳴らした。

 その風鈴の水を打ったような音色は、蒸し暑さや激烈な暑さをそれなりに忘れさせるだけの癒しは確かにあった。
が、しかし、よくよく冷静に考えてみると風鈴は風が吹いているから鐘の音を奏でる

 ちょっと穿った考えをしてみると風が吹くから涼しく感じる。

「って言うか?」

それなりに風が吹けば、草木が揺れ、暑い気温が一瞬にして下がる。
その時を狙って、風鈴は冷ややかな音色をこれ見よがしに私達に届けてくれる。

「これって?」
「風が無く、気温が急激に下がらなかったら?」
案外、ここまで風鈴が夏の風物詩として讃えられる事はなかったのではなかろうか?

 しかし、風鈴たるもの、風の無い時に限って涼しげな音色を響かせはしない。
そんな自分の価値を下げるような下手を打たない。

そこに、風鈴のソコハカトナイ狡さを感じてしまうのだ
そんな風に思うのは、捻くれ者の私だけか?
多分そうだろう
だが、私の性分上、数%の "?"   を見逃す訳にはいかないのだ。
果たして、そこまで、風鈴は夏の風物詩として美化され得る価値が実際あるのだろうか?
風鈴に恨みがある訳じゃあーない
寧ろ、私は熊本産の赤く熟れた夏のスイカと変わらないほど風鈴が大好きだ!

 生まれて3度目の恋愛相手は、私の指より断然、綺麗な指をしていた。
その美しい5本の指の隙間から乾いた砂がサラサラと溢れ落ちる様に恋に堕ちた事があった。
その彼の指に匹敵するほど風鈴を愛している。
嘘ではない。
大袈裟でもない。

 だから、風鈴を侮辱する話をこれ以上繰り広げる気はさらさらない。
これからも素直に「チリーン、チリーン」と響き渡る美しい音色に聞き惚れ、ドンドン癒されるつもりだ。

「って、言うか?」

 それが少しでも涼しい気持ちにさせてくれるのなら「何も、小難しい文句なんか!言わなくていい!」
どう〜でもいい話だ。

冒頭の蛇の話に戻そう。

「何故?」
「我が家に蛇が来たか?」

 それは、又、ぶり返す様だが風鈴のせいだ。
否、風鈴のお陰だ。
私は蛇以上にしつこい。
古くから関東では「夜中に鈴を鳴らすと、蛇が来る」
関西では「夜中に口笛を吹くと、蛇が来る」
そう、聞いて育った経験を持つ人は結構いる。
私も歴(れっき)とした口笛派である。

 それなのに私は、風鈴を夕方に家の中に戻さず、縁側の庇に一晩中、何日間も吊るしたままにしていた。
夜中に、鈴を鳴らし続けていた訳だ。
つまり蛇を呼んでしまったらしい。
昔からの言い伝えは、決して馬鹿に出来ない。
何らかの根拠があって、脈々と伝承された知恵が現在まで生き残っているのだから。
私は風鈴を夕方になると家に納め始めた。
もうこれ以上、我が家に蛇を集めたく無かったからだ。
うかうか昼寝さえ出来なくなる恐れが出てくる。
蛇と一緒の寝間でクゥ〜クゥ〜寝息を立てたくはない。

 我が家の天井裏には最低一匹、蛇らしき生き物が既に住んでいる。
一匹なら我慢も出来る。
週に一回、同じ時刻に、天井の同じ場所で這いずり回る音くらいなら、どうって事はない。
彼か彼女か?
その蛇さんの性別までは分からない。
彼らも、水分が無くては生きてはいけない。
私達生き物全てがそうだ。
きっと、水洗トイレに溜まった水を飲んで生命を維持している筈だ。
我が家のトイレは、蓋をした事が無かったから丁度良かったのだろう。
あっ、それと蛇さんはかなり頻繁に脱皮をする。
その際、水に身体をつけて皮をふやかす必要がある。
その為にも我が家の水洗トイレの溜まり水は、かなり貴重なのだ。

 月に一回は、庭に来る雀か?
裏山を駆け回る野鼠を襲い、生きたまま飲み込んでいるのだろう。
夜中に天井裏から女の悲鳴みたいに甲高く、髪の毛ほどの細い声が時たま聞こえてくる。
多分、蛇の腹の中で溶け始めた野鼠か?
雀が最後に漏らす声だと察する。

「って言うか?」

 女が首を絞められ、苦し紛れに吐き出す悲鳴を、私はフィクションもののドラマや映画以外で、実際、聞いたことは無い。
無論、野鼠や雀が蛇の腹の中で最後に吐き出す鳴き声がどんなものかなんて知る術もない。
実際、野鼠や雀を飲み込んだ蛇を目撃し目の前で聞いた事などないからだ。
飽くまで推測でしかない。

「天井裏にいるだろう蛇らしき這う生き物が、本当に蛇かどうか?」

 知る由も無い。
これについては、知らぬが仏かも知れない。
決定的に蛇を目撃したとか、蛇の痕跡を掴んだとしたら、もしかしたら、今みたいに安穏とした心境ではいられないかも知れない。
しかし、今のところ有難い事にそんな確証はない。
飽くまでグレーなのだ。
思い込みに近い幻聴かもしれないし、うつらうつら眠っている際、夢の中で見るフィクションかも知れない。
そのどっちとも言い難い曖昧さが、ファンタジックで寧ろ心地よい。

「我が家に蛇が住んでいるとしたら?」

 このミステリー小説のタイトルみたいな ? から広がる想像の世界で、呑気に空想と戯れることが出来る。
真っ白な蛇?
黄金の蛇?
魔法を使える蛇?
もしかしたら?
などと、作家気分で悦に浸れる。

 だが、現実の蛇が実際、我が家の住人として1%でも存在している可能性がある限り、夢見る夢子さんのままでは許されない。
私にはしなくてはならない重大な任務が課せられてしまった。

 それは水洗トイレの水の管理だ。
蛇にとって命の水になる。
そう考えたら、トイレ掃除なんかあまりしなかったが、普段より随分トイレ掃除をマメにし始めた。
漂白剤を使ったら、1時間は蓋を必ずし水を何回も流した。

「トイレに溜まった水を、私が飲めるか?」
「飲めないか?」

 この厳しい条件をクリアしなくてはならない。
なんせ、財の神様と崇められる"やみしろ様"だ。
失礼があっては決してならない。

 風鈴さえ、縁側の庇に昼夜を問わず吊るしたりしなければこんな展開にはならなかっただろうに。
しかし、私はこの家に棲んでいる生物の営む音、風鈴が風と結託して奏でる音に間違いなく癒されている。
耳を傾けて、その微かな音でさえ聞き漏らしたくない衝動に、毎回、突き動かされる。
野鼠や雀が生きたまま丸呑みにされ、命が尽きる寸前に喘ぐ鳴き声が深夜に天井裏から聞こえて来ると、サワサワと風に揺らぐ宇宙ほど馬鹿でかい小麦畑にポツンと一人、大の字で寝転んで青白く煌めくお月様に照らされている壮大な気持ちになってしまう。

 命が尽きる直前に漏らす音色を何より美しいと感じてしまうのだ。
残酷だとか、可哀想だとか、どうしても思えない。
寧ろ、哀愁を伴う夕陽を背景に、何処からか流れてくる身の毛もよ立つほど美しい旋律としてしか思えないのだ。
それは、怖いほど静寂な闇夜に響く風鈴の音色にとても似ている。

「蛇を魅了し、引き寄せてしまうと言う夜の風鈴、昔からの言い伝えの真相に風鈴の何が?
どう関わっているのだろう」
「風鈴の音色にあると言う、F分の1の揺らぎなのか?」
「それとも高周波?」
「もしかして、命のリズム58?」
「あはーん、まだ、解明していない未知なるXか?」

 そのXは、我が家のリビングの天井裏から月に一度、聞こえてくる音、宇宙からのメッセージみたいに意味不明ではあるが、その空気を揺らす波動と一親等並みに強い絆で結ばれている気がしてならない。

 生き物が首を絞められ、死ぬ寸前に息を漏らす際、声帯を震わす。
その時、空気を僅かに揺らす波動や振動が生じる。
蛇の外側には耳は無いが、身体の内部に内耳がある。
その機能はかなり優れているらしい。
振動、波動に対して、私たちが想像を絶する程、骨や筋肉を通し過敏に反応する生き物と言われている。

 蛇の腹の中に捉えられた動物の鼓動が「ドクン ドクン」と弱々しくなって、遂には、その動きを止める寸前に響かせる空気の波動は、風鈴の音色から生まれる波動と、実は、蛇からしたらそっくりな所があって「その音のする辺りに蛇の餌となる生き物が沢山いるのではないか?」
と、単に勘違いして集まって来るのかもしれない。

     ー夜中に鈴を鳴らすな!ー
        蛇が来る。

 この言い伝えのスタンダードな謎の答えは、皆んなが寝ている時、鈴の音色や口笛を吹くと近所迷惑になるから「戒めの為に蛇が来る!」と脅したと言う説はさておいて、他に理由が有るとしたなら "蛇の単なる勘違い"   に違いないと私は思う。

「って、言うか?」

 そうとしか思えない。
弱肉強食、叫ぼうが、暴れようが、うんともすんとも変わりようがない自然界の秩序
天井裏で繰り広げられている自然淘汰。

「私は、蛇の共犯者か?」

 ふと、この頃、考える。
多分そうだ。
だって、清めた水を蛇に与え続けているからだ。

「って、言うか?」

 その生物を脅したり、蛇駆除業者を頼んだり、蛇などが嫌がる忌避剤を天井裏に敢えてばら撒いたりしなかった。
そもそも、追い出すつもりがないからだ。
蛇の餌になる雀や、野鼠が集まってきてくれる様にその捕食動物の餌になりそうな残飯を故意に庭に撒いてもいる。

 否、待てよ。
おっと!もしかして?
共犯者ではなく主犯格かも知れない。
蛇に棲む場所や生命に欠かせない水を、ボランティアで提供している訳ではないからだ。
蛇を生かしておかねばならない理由が、実は私にはあるからだ。

 白状しよう。
変わり映えのしない毎日に、魔界、天界の使者である蛇が、我が家の住人となった事を知った時、私の気持ちは明らかに高揚した。
エキサイトした。
夜中のトイレに行く時なんか、恐怖と期待が入り混じりショック療法に似たホルモン分泌のおかげか?
ここ最近、随分若返った。

「もしかしたら?」
「蛇さんに遭遇するのではないか?」

 そう思うと、何故か胸がドキドキする。
水洗トイレを、シェアし合っている事もまんざらでもない。
そう!
もはや、ちょっと危なっかしい蛇さんの気配がしないと、日常生活が物足りなくなってしまったのだ。
蛇さんとの共同生活を願っているのは、私の方で、野鼠や雀を殺す手立てを企てている主犯格も、実はこのワタシ?
の様な気がしてきた。
だからといって開き直る訳ではないが、小動物を蛇に喰わせている事を悪いとは全然思えない。
かと言って善良か?
その問いには、ポーカーフェイスでノーコメントだ。

「って言うか?」

 そんな事は、どっちでもいい話しなのだ。
 
 月に一回、天井裏から奏でられるメロディが、宇宙で繰り広げられる星の消滅や誕生同様、自然の 摂理であるだけのこと。

 そのメロディを聞くと「我が家の蛇が、まだ生きる意欲を失くしていないんだ!」
「逞しく生きようとしているんだ!」

そう感じる瞬間に、私の脳の何処かにも新しい星が誕生する。

「何と!」
「素晴らしいことか!」

 幸せだなぁ〜と素直に思う。
嬉しくなる。
私に生きていく勇気を与えてくれるのだ。

「蛇さん、ありがとう」

「って、言うか?」

「あー」
「それも、もう、どっちでもいいかぁ」

 トグロを巻いて、欠伸んなんぞしているピンクの蛇さんの漫画を描いていたら、なんだかお腹が異様に空いてきた。

 駅前に新しくオープンしたばかりの蛇に似て非なる鰻を料理する店にでも行って、蒲焼なんぞでも喰いに行くとしよう。

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