見出し画像

夏のある日    

軽井沢を目指し、ボーイフレンドとドライブ。
2人は、互いを激しく求め合っていた。
山間の見知らぬ道を無言で走りながら、悪戯を仕掛ける私の人差し指を掴み、焦ったい顔を向け狂おしく舐めた。
山道の路肩を見つけた彼は、その場所に車を止めた。

 私の手首を素早く掴み、山の中へと連れて行く。
彼の歩幅は私より長い。
引っ張られる形で足早について行った。
枯葉や雑草を踏みつけながら、2人だけで旅立つプラットフォームを探した。
欲望と言う名の列車に乗り込める1番ホームが目の前に広がっていた。
乗客は、私と彼だけだ。
スカートを捲りパンティを膝まで下げた。
11歳下の彼は、少し恥じらいつつジッパーを下ろす。
柔らかな風が、ほんのり汗ばむ2人の脇や股の間を擦り抜けた。
頭上が、何やら騒がしい。
天を仰いで見た。

「えっ?」

息を呑んだ。

 何万、何十万匹の見た事も無い蝶が、まるで羽を広げた様だった。
寄りかかった大木には100を超える枝が伸び、空を埋め尽くす勢いで初々しい葉っぱが茂っていた。
僅かに見える青い空と息を呑むほど美しい緑色の蝶の群集を、時たま見上げながら気づかれない様に息を潜めた。

蝶が一斉に飛び立たない様に、重い息を慎重に枯葉に落とす。

 藪蚊に足を刺されたらしい。
車に戻り、足の腫れに気づいた。
何故だか?
私だけが噛まれていた。

「祐子の血が美味そうだったんだよ」

彼は、茶化す様に笑った。

 その腫れは2か月の間、化膿と治癒を繰り返した。
治ったかと思ったら、睡眠中、無意識に掻きむしった跡があり、そこから細菌が入り又化膿した。

 私達の関係をまるで真似てるかの様だった。
大喧嘩をしては、怪しげな月光や何万光年先から届く星の輝きが、背中合わせの2人を一緒のベッドに誘(いざな)った。
彼に会う度に、足の腫れを自慢気に見せてはオデコを合わせながら笑いあった。
それは、この上無く幸せな時間だった。

彼に会えない日は、足の腫れが何回も気になり見てしまう。

「治っていたらどうしよう?」
「嫌だ!」
「どうか、まだ赤く腫れてます様に」

 痒みが有ると、何故か安心した。
そんな日は、無邪気にはしゃいだ。
暇さえあれば、1人照れながら人差し指でツンツンと突いてみる。

「うーん」
「なんとも言えないけど、気持ちいい」

 薄めのカーディガンを羽織る肌寒い頃になると、流石にその痒みは無くなってしまった。
足の腫れも完全に治ってしまい落胆した。

「あー」
「治っちゃった」

 その深い溜息は、突然の不幸を呼びこんだ。
互いが嫌いになった訳でもなく、浮気が原因でもなく私達は、何故か別れた。

「ふぅ〜」

 6000度の表面温度を持つ太陽から発せられたチリチリ煌めく木漏れ日に照らされ、何万、何十万匹もの、見たことのない蝶が群生する木に必死で縋りついたあの夏の日。
敏感すぎる粘膜は収縮と弛緩を、リズミカルに繰り返した。
ズンズンズンズン突き上げられていく身体は、まるで尺取り虫の様に木をよじ登っていった。
"ある瞬間"  を2人が迎えた時、あともう少しで蝶に手が届きそうだった私達は、あっという間に大地に落とされたのだ。
その恐怖は凄まじかった。
地球上に幾つかあると言うブラックホールに吸い込まれていくような感覚だった。
堪えきれずに奇声を上げた。
その聞き慣れぬ音に驚いたのだろう。
一斉に羽ばたいて行った摩訶不思議な蝶達。
その光景は一生忘れる事はない。
20年近く経った今でも、蚊に刺される度に思い出す。

 腫れた皮膚の弾力を、人差し指でツンツンと突っついてみる。

 あの若い頃の様に、無邪気に楽しむ事はもう無い。
だけど、あの僅かな葉っぱと葉っぱの空間に広がる果てしない青い空に向かって、恐ろしい程の蝶達が飛び立っていった "あの壮大なる感覚"   だけは決して忘れる事はない。
彼が、その蝶々達を驚かさない様に息を殺し、私の中にある銀河に三億個もの精子を解き放った瞬間でもあったからだ。

 その中の0.06mmしか無い1個が成長し、私の背丈をいつの間にやら追い越した。
数日前、2億9999万9999個を蹴落とし勝利した男は、東京の大学に通う為に意気揚々と引っ越して行った。
伽藍堂(がらんどう)になった息子の部屋に蹲(うずくま)り、西の窓一面を覆い尽くす燃える様な夕陽を眺めた。
一匹のやぶ蚊が、右足の外側のくるぶしにとまった。
同じ場所だった。
息を止める。
細い針が皮膚を破った。

「うっ」

 時計の秒針さえ進む事を躊躇わせた、あの狂おしい感情。
彼の未熟な愛も、純粋すぎる想いも、永遠に続くことのない情事さえ、全てを受け入れた。

「私の血は、まだ美味しいのよ」
「沢山吸って頂戴ね」

痒いのを、どうしても我慢出来なかった血湧き肉踊る頃を懐かしむ。

 もう一度、血を滲ませるくらい掻きむしり、あの頃の様に化膿しては治癒し、又、化膿を繰り返したくなった。


******************

長編、短編、シリーズ小説も書いております。
これから随時、公開していきます。
今なら、バルドー姉さん著書、デビュー記念でお手頃な価格。
読み応え抜群ですので、ぜひ読んでいただければ幸いです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?