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蚊と蠅の恋愛 前編

雌(めす)の蚊のほとんどは哺乳類や鳥類の血を、交尾を終えたら産卵の為に栄養補給しなければならない。
メスの成虫だと、約3、4週間と言われる寿命の間に平均4回か5回程、一回につき、おおよそ1mg吸血する。
産卵期に血を吸わなければ、健康な蚊の赤ちゃんを産む事が出来ないのだ。

 ここ神戸は岡本にある閑静な住宅地に樹齢100年を超える立派な楠が聳え立っていた。
その大木に抱かれるように鎮座するお地蔵様の周りを縄張りとする蚊の家族が、涼しくなった夕刻に羽の音を鳴らす。
その中に一匹だけ親から名をつけられた稀有な蚊がいた。

 タエコと言う。
タエコと言う名前は、タエコのお母さんが敬い慕う人間様の名前を拝借して付けられた。

 今更言うことではないが、基本、蚊に名前は無い。
しかし、タエコのお母さんは "ある名前"   を人間様から奇跡的に与えられたのだ。
人間様から直々名前を頂戴すると言う極めてあり得ない僥倖に恵まれた蚊には、その栄光を讃えんが為、子々孫々、長女にだけは好きな名前をつけて良い習わしがあった。

 蚊にとって雲の上の存在である人間様から名前を頂く出来事はお祭りどころの騒ぎではなかった。
何十年、否、何百年に一度あるかないか?
天の川に散らばる銀河系の2000億個あると言われる星の中、年老いた星が爆発する頻度以上に珍しいことだ。
この幸いは、蚊のアイデンティティを格段に上げる天からの祝福として捉えられ、誉高い名がつけられた蚊の記憶を末永く伝承する意味でも、タエコの子々孫々、一番始めに孵化した子には名前をつける習わしが、これから受け継がれて行くこととなる。

 タエコの母は、まさにその100年に数匹しか居ないであろう貴重な蚊であった。
そのノーベル賞を上回る貴重な名前は "朝顔さま" と、敬意を持って蚊の仲間から呼ばれていた。 

 実は、タエコや朝顔と呼ばれる蚊は人間界には知られていない摩訶不思議な蚊の子孫でもあった。
その蚊達は、日本に生息する約100種類の蚊の仲間内では「蚊族」と呼ばれ、特別な位置付けを与えられていた。

蚊族には不思議な力を持つ3種類の蚊が存在する。
その蚊族のルーツは島根にあった。

 かの有名な空海が和歌山は高野山に真言宗の聖地を開いた同年、1200年ほど前に蚊の神を祀る神社が、島根県のとある村の小高い山の中腹に建立された。
蚊の媒介によって、運悪く発症した脳炎で、大切な妻を失い、途方に暮れ、失意のどん底にいた十兵衛が一代奮起して建てたお社である。
この男、情に厚く勤勉だ。
朝夕休まず畑仕事に精を出す頑丈な肉体と、一度決めたら最後までやり抜く強靭な精神力を併せ持っていた。
お金がちょっとでも貯まれば、お社作りに費やした。
夏冬問わず、たった一人で道造りに精を出した。
両手の指には血豆が何度も何度も出来ては潰れ、タコができ、指は二倍の太さにまでなった。
石垣を積み、10年以上の歳月を経て、やっと小さなお社を完成させたと言う。
何故に十兵衛、妻を殺した憎き蚊を敢えて祀るお社を作ったのか?
無論、妻が亡くなった後の数年はこの世に蚊など一匹たりとも存在せぬ世の中を望んだ。
夏になれば、日々、水に溜まる蚊の幼虫を探し出し
両手で掬って大地に放り投げ、草鞋の底で「コンチクショウ」と唾を吐き、踏み潰したりもした。
しかし、ある日、蚊の幼虫が成虫になろうとする場面に出くわしたのだ。
それは、奇跡と呼べる瞬間でもあった。
幼虫の形とは、全く違う生命体だった。
その神秘に魅せられた十兵衛は、はたと気がついた。

 こ奴らも、ワシと同様
何ら変わりはない
この世に必要な生き物だ
親は子を作る
こうして、安全な場所に卵を産み、子孫を残しておる。
小さな世界でも、愛する者を守り育てておる。

元来、気のいい十兵衛は、パンと手を打ち、憎しみを弾き飛ばした。

「そうじゃ!」
「蚊と言えども、一つの命」
「人間と、何が違おうか!」

 己の傲慢さに涙が溢れた。
ただ、蚊の媒介によって家族を失う様な辛い想いを村人にさせたくはなかった。

「さて?」
「どうすれば、互いが丸くおさまるか?」
「あっ!」
「そうじゃ」
「蚊のお社はどうじゃろか?」

 蚊を祀る神社の噂を、一度も聞いたことがない。
十兵衛は考えた。

「あー」
「蚊を敬う人間が居ない事を蚊は悲しく思い、その腹いせに、日本脳炎や様々な病を人間にもたらしているのではなかろうか?」
「一寸の虫にも五分の魂と言うではないか!」
「もし、そのことが原因であれば、農作物を荒らす鳥や害虫を増やさない為に一役買っている蚊に感謝するお社が日本に一つくらいあったっておかしくなかろう」
「蚊達は、人間だけに病を齎している訳では無い」
「害虫や鳥にも病を媒介し、自然界のバランスを保っておる」

 親戚に賢い人間がいた十兵衛は、蚊の生体を少しだけ聞いて知っていたのだ。
そういった経緯から十兵衛は奮起し10数年間、お社造りに自分の人生を捧げた。
村人達の中には、自分達の親や子や孫が脳炎にならぬ様に蚊を祀るお社に参拝をし始めた。
不思議なことに、参拝に出かけ、帰宅する迄の間、誰一人蚊に血を吸われることがなかった。
この事が村中に噂となり、殆どの村人達は月に一度
山の中腹にあるお社を目指した。
十兵衛が血を献上している姿を見た長老が、その儀式にえらく感心し、自らの人差し指の先にも針を刺した。
その村の長老の影響もあって、村人達も次々に血を献上し始めた。
すると、信じられないことに、嘘の様に蚊による被害が激変したのだ。
睡眠障害や、皮膚の痒み、ただれ、傷口からの化膿による高熱といった被害が全く無くなった血の献上儀式は、いつしか習わしとなっていった。
始めてから、嘘のように蚊による被害が減ったことを実感した村人達は十兵衛を崇め始めた。
そのうちに、じゅうべえ様、じゅうべえ様と人伝に受け継がれていくうちに、その名前が訛って、いつしか蚊の神ジーバとなったのだ。

 森羅万象に神々が宿り八百万の神様が日本中から集まる島根県は出雲という村にその小さなお社は出来た。
その辺りから日本各地に蚊族の子孫は、まるで水面に落ちた小石が作り出す幽玄な波紋を真似るかの様に生息地を広げ、その3種類の特異な蚊族は僅かながらも確実に繁殖していった。

 7月、8月、9月の満月にはその村に住む家々の長が、その蚊の神ジーバを祀る神社に集まり神聖なる儀式が執り行われた。
指を針で刺し、新鮮な血を集めてその蚊の神社に祝詞を上げ奉納するのだ。

 満月以外の夏の日には当番制で動物の血を献納していた。
信心深い村人の中には、満月以外の日にも自分の血を入れる小皿と針を持って参拝し、血を指から小皿に垂らし奉納する敬虔な村人もいた。
蚊が子育てに困らない様に、又、村人を疫病から守ろうとする心優しい人々により、そのお社は支えられ、実際、ご利益は想像を絶するものだった。

 その奉納された血が固まらないうちに集まった何千匹もの蚊は奉納された血を吸い命を繋げた。
人間様や動物の血を命をかけて吸血する必要が無くなったおかげで、人間様との共生の知恵を育んでいった。
いつしかその地方の蚊ならではの特殊性が確立され、遂には、信じられない奇跡によって素晴らしい能力を開花させたのだ。

 村人も、夏の蚊に安眠を邪魔されず熟睡出来た。刺された後のしつこい痒みやただれに不快感を抱く事もなくなった。
夜、蚊帳(かや)を張る必要も無論なかった。
窓を開けて涼しい夜風を招き入れた。
村人達は健やかな身体を手に入れ、田地田畑を耕し、多種多様の優れた作物を何処の村より大量に生産出来ていたと言う。

 脳症を発症したら20%が死亡したり、30%が精神障害や麻痺、痙攣に至ると言う怖い日本脳炎になる人もその村には1人として出なかった。

 蚊の神ジーバを祀るお社に宿る神様と村人の深い信仰心によって、ある満月の夜、摩訶不思議な事が起きたのだ。
お社のそばにある山椿の群集が、妖しい月の光を浴びていた。
数分もしないうちに、何処からかやけに冷たい風が吹き、その月を厚い雲が遮った。
その直後、稲妻と落雷が同時に起き、お社の横に聳え立つ杉の大木に直撃し発火した。
その樹齢300年の直径1メートルを超える幹が、頂上から真っ二つに割れたのだ。
大きく大地が揺れ、神のご加護があると言う花や、種を持たぬ霊草と呼ばれるシダ植物、菌糸植物が一斉に芽を吹いた。
何処からか声がする。       

「でやしたぁ〜」
「でやしたぁ〜」

 まだ固い膨大な数の椿の蕾が、一斉に膨らんだかと思うと真っ赤な花ビラを次から次へと広げた。
すると、その椿の花の開花を待ち侘びていたのか?
拳大程の大きさの浮遊物が、何処からか出現しフワフワと漂っているではないか!
怪しげな青い光や、炎のような赤い光、黄金に輝く光3体がくっついたと思ったら離れたり、上に行ったり下に下がったりしていた。
その怪しい3色の光は、境内に偶々居た3匹の蚊を見るなり、凄い速さで蚊の遺伝子にそれぞれ潜れ込んだ。
その後、数百年もの間、その蚊の子孫は突然変異による進化を繰り返し、人間社会と軋轢無く共生していく3種類の特殊な力を備えた蚊族となった訳だ。

 1種類は、血を吸うとその人の生きて来た歴史や心情が即座に判り、共感してしまうエンパシー蚊と、2種類目は人の血を吸うとその人が何らかの病を持っていた場合、その病を一つだけ奇跡的に治す力があるミラクル蚊。
このミラクル蚊は希少だ。
1000万匹中1匹の割合で生まれてくる。
3種の蚊の中でも最高の地位を生まれながらに授けられていた。
蚊の仲間がミラクル蚊に出逢ったら、その僥倖を伝えるため、羽を2回広げ厳粛な態度で接するのが礼儀であった。
3種の中で最も尊ばれ、棲む環境は安全で人間の血を吸いやすい住処を優先的に与えられた。
更に、ジーバから病を治したミラクル蚊には死にゆく前に素晴らしい褒美を下さると云う。
夢や希望を念じれば蚊の神様ジーバが必ず叶えてくれるらしい。

 3種類目のスピーチー蚊は、血を吸えるのは犬と猫と鳥に限られていて2度同じ動物の血を吸うと、その犬や猫や鳥とお友達になれて色々なお話が出来る。

 エンパシー蚊とスピーチーの蚊であっても、その特殊な能力を授かって生まれる確率は100万匹に1匹の割合でしかなかった。

 タエコはエンパシーの蚊の親から生まれた。
沢山いる兄弟姉妹の中で、母 "朝顔"   を除き、唯一エンパシー能力を受け継いでいた。
兄弟姉妹には1匹もその才能を持ち合わた者は残念ながら生まれて来なかった。

 タエコの母は "朝顔"    と言う名前を、最初の産卵の為、血を吸わせて頂いた人間様から光栄にも賜った。
その名前を下さったご婦人の名前は 妙子さん だった。
朝顔は、この世で1番大好きな人の名前を崇め、恐縮ながらも一番最初に生まれた我が娘に "タエコ"    と名付けたのだ。

 そのご婦人は、兵庫県下で一番水質がよく、下水が一滴たりとも流れていない清流、住吉川近くの一軒家にお一人でお住まいになっていた。
ご主人は8年前に死んで子供には恵まれなかった。
可愛いダックス犬も16年飼っていたが、先月呆気なく眠る様に亡くなってしまっていた。
庭には四季折々に花々が香り、道行く人達も癒される桜や梅、薔薇の花、萩の花、水仙等が植えられていた。

 雑草を抜く度にそのご婦人は蚊に刺される。
しかし、彼女は虫に刺されない為のスプレーを敢えてしなかったし蚊取り線香も炊かなかった。
何故なら、ニューギニアやビルマの激烈な戦争に、19歳で駆り出され、9年間も青春を犠牲にし熱帯のジャングルで寝起きした父の為だった。
大好きだった父は戦地にいる間は、人は仕方なく殺さねばならないから、虫だけでも死する日まで殺生はしないと心に固く決め、無事に日本に帰れるように祈願したと言う。

 ご婦人が幼かった頃、父のお膝に抱っこされ、父が酒に酔ってご機嫌になる度、幾度となく聞かされた話だった。

「お父さんが大きな怪我も無く、マラリアやデング熱に侵されて死にかけても、嘘の様に助かり、激戦地から奇跡的に帰国の途に着けたのは、蚊や蝿や小さな生き物を殺生しなかったからだよ」


 大好きな父の素晴らしい誓いとその成果を聞いて育ってきたご婦人は、蚊や蝿こそが父の命の恩人であると信じた。
「小動物の殺生を決してしてはならない」
そう誓ったのだ。 

「父が死なずに9年間も、激烈な戦地から帰還出来たのは蚊や蝿さんが父を守ってくれたんだ!」

 癌に犯され、余命を宣告されている73歳の彼女ではあったが、幼い頃から子煩悩で姿形が美しく男らしい父の話を、この老齢になる迄、疑った事は1度もなかった。
だから、彼女は25年も前に77歳で逝った父亡き後でさえ小さな虫への感謝を忘れなかった。
父の供養として害虫であっても殺生はしなかった。
父を死ぬまで愛していた母も、父がこの世を去った5年後に後を追うようにくも膜下で急に亡くなった。
その母も、天に召される当日の夕方まで父の戦地での苦労を偲び、小さき命ある虫達への敬意を忘れる事は決してしなかった。

ご婦人のご両親様2人、偶然にも77歳で天寿をまっとうされた。

 妙子さんは、鳥や蝶や蚊やダンゴムシや蝿にも、名前を付ける心優しい女性へと成長した。
虫達に付ける名前は、庭に咲く花や樹々の名前を好んで使った。
クロッカスちゃんとか、金木犀さんとか、ほとんどの人が忌み嫌う烏(カラス)にさえ、黒松殿と名を付け畏(かしこま)って呼んだりもしていた。

 大学を卒業し、教員の資格を取得し、家から歩いて30分もかからない小高い丘にある小学校の先生になった。
2年目の春、小学1年生の生徒を早々と担任として受け持った。

 背中よりランドセルの方が大きな生徒達の未来に希望を託す純粋な眼差しがとても眩しく愛おしかった。
歌が上手く優しい彼女は、受け持った生徒達から当然慕われた。
彼女にとって、授業をしている時が何より充実していた。

 同じ小学校に高学年を受け持つ教師として大先輩の男性がいた。
5年前に、奥さんを病で失った10歳上の背の高い男性だ。
真面目を絵に描いたような大人しい感じのする、歯を滅多に見せず笑うその男性は、度の強い黒ぶちのメガネをかけていた。
7対3に分けた、今時珍しい髪型をしたその男性が妙子さんに声をかけてきたのだ。
彼女が教師になって1年目の夏、激しい雷雨の日だった。
女子トイレから出てハンカチで手を拭いていたら、唐突にその男性が目の前に現れ、交際を申し込まれた。

 妙子は、その突拍子もない割に、覚束無い彼の様子に笑いが溢れた。
受け持つ小学校一年生のヤンチャな少年が、お漏らしをした事を下を向いてモゾモゾと報告しているみたいだった。
両方の拳を握り締め、若干小刻みに震わせていた。しかし、彼の実直な眼差しは彼女の瞳を捉えて離さなかった。
度のキツそうな眼鏡の奥から真剣な目をして話すその男性に妙子は好感を持った。
半年後には、その真面目すぎる男性は妙子の両親に結婚を許して貰う為の台詞を必死で練習していた。

「お嬢様との結婚をお許しください」
「お嬢様を大切に致します」

 たった2行だけの文言を呪文の様に何回も繰り返していた。
その成果をご披露する為に、ご両親との約束の日時には、一張羅(いっちょうら)のネクタイを締め、彼女の自宅を一目散に目指した。
緊張しすぎだ彼は、前日、百貨店で奮発して買っていたマスクメロンの手土産を台所のテーブルの上に忘れたまま彼女の実家に着いた。
ドアのチャイムに目もくれず、引き戸を開けた。

 彼に自分の遺伝子情報を惜しみなく捧げたであろう、顔も背の高いとこもそっくりなお母様が、忘れていた手土産のメロンを届けに来て下さった。
妙子の実家で、彼が15分毎にトイレに3回も立った時、汗を拭い息を切らしわざわざ持って来て下さったのだ。
妙子が客間に、お通ししようと何度か促したが、お母様は挨拶だけされて急いで帰られた。

 妙子の父は、格式高き寺院正門の左右に立つ仁王像の様だった。
山門を潜る参拝人それぞれの了見の善し悪しを、確(しか)と見定めるその眼光を間近に見たら、誰であろうが、びびらずにはいられない。

我が子を愛して止まない妙子の父は「誰にも娘を盗られてなるものか!」と必死だ。

 反政府デモの先頭に立ち、棒を高らかに上げ、クタバレ!とマジックで書かれた鉢巻を、頭にキツく結び、その覚束無い情緒不安定な男性に戦いを挑んでいた。
笑顔一つ見せようとしない仏頂面の父と、微笑みを絶やさない母の前で、結局、その男性はたった1時間の間、これと言った話しをするでも無くトイレに4回も立った。
結果、あれだけ練習を重ねてきた台詞二行さえ、メロン同様、ド忘れして帰って行った。
その男性が家を出るなり、彼女の父は怒鳴った。

「わしの家をトイレだとしか思っておらんのか!」「小便ばかりしやがって!」

そう言った矢先、優しい母が小さな声で言った。

「お父さん、小便ばかりじゃなかったんですよ」「あの方がトイレに行った際、数分ほどして私もトイレを使用しましたの」
「そしたら、ホラッ、大の方の臭いがプーンってしましてよ」

 そう言って、母は吹き出してしまい、腹を抱え笑い始めた。
笑い出したら、暫く止まらない能天気な母を横目に、腹の虫が治らなかった父は妙子に嫌味をぶちまけた。

「気の利いた話しひとつも出来ん奴が、よく小学校の先生が務まっとるなぁ」
「ありゃあ〜」
「何の役に立つんやら?」
「わしは、よぉーわからん」
「妙子、もう一回、考え直してみなさい」

 それだけ言うと、自分の書斎に入って行った。
そんな苦難の経緯を乗り越え、彼女はどうにか、両親を説得し結婚に漕ぎ着けたのだ。

 40年の結婚記念日を待たず、主人は病に負け、彼女の手を握りしめた。
彼女の前で、最初で最後の涙を流し「ありがとう」とだけ告げ息を引き取った。

 2人には子が出来なかったが、約40年間、労わり合い、慈しみ合って仲も悪くなかった。
念願の家も建てた。
彼女は、大好きな植物に囲まれた庭付きの一軒家で、教員生活をお互いしながら幸せを噛み締めた。

 ただ一度、妙子は離婚を意識した事があった。
結婚生活15年目で主人は浮気をしたのだ。
相手は、当時、主人が担任を受け持っていたクラスの子の中で1番やんちゃな生徒のお母さんだった。
その浮気相手は、真面目な主人をまんまと唆(そそのか)した。

 主人が家庭訪問し通された部屋の隣の3畳間には布団が敷きっぱなしだった。
所々、破れたり、穴が空いた襖は開かれたままで、その方向への視線を避けるため座布団を斜めにして座らなければならなかった。
母親はと言うと、これまた、目のやり場に困る程の格好をしていた。
肌の露出度が極めて激しい服装で、最も肝心な息子の指導方針について話す事をつい忘れてしまった。

「子供は、両親の家に遊びに行って居ないから暫く夕ご飯までは帰らないの」
甘ったるい声で、その女が言うと、黙って主人を熱く見つめた。

「先生、大好きよ!」
「私を抱いて」

 その女は声を上げ大胆な行動に出たと言う。
本当か嘘か、抱きつくなり、主人の唇を吸いに来たと言う。
主人は驚きの余り、身体が硬直し抵抗も出来ず、その女のなすがままだった。
アソコを触られチャックを降ろされ、舐めて来た。
真面目な主人だったが、まだまだ男としては現役だ。
心とは裏腹にいきり立つ下半身をコントロール出来る訳などなかった。
今迄に経験した事が無いくらい、アソコは硬くそそり立ち勃起してしまっていたのだ。
堪らなくなり眼鏡を外した。
女が着ていた前開きの薄手のブラウスを一気にはだけさせ、ボタン2つを飛ばした。
もう、理性は無くなり、貧乳に舌を這わせた。
少女のような華奢な裸に背筋が震えた。
アソコの毛は無く割れ目がクッキリ見えた。
初めてのパイパンに興奮し、無我夢中でその女を抱いた。

 それ以来、女は父親ほど違う20歳上の主人にゾッコンになった。
彼が家に尋ねてくる度、幸せそうに世話を焼いた。
行為後には、ワイシャツにアイロンを当ててくれたりした。
こうして、肉欲を貪るだけの関係が一年も続いたらしい。
その30歳の女は離婚したばかりで、場末のスナックでホステスをしていた。
貧相な身体つきで、何処か具合でも悪いのか?
異様に青白い肌をしていた。
少女のようなあどけなさとは裏腹に唇に塗られた赤い紅が妙に男心を唆(そそ)った。

主人の浮気現場を見た当日、妙子は4着だけ仕事用の服を持って実家に帰った。

 主人は、妻、妙子とは違う小学校に2年前から転勤になっていた。
1年程前辺りから毎月2回決まった曜日に普段より3時間遅れて帰宅する様になった。
同じ教師仲間との食事会だと嘘を付いていたのだ。
ある日、主人の着ていたスーツから妙子が大好きな花、夜になると香るチューべローズの白い花の様に甘く官能的な匂いが漂ってきたのだ。
妙子は主人の浮気を勘ぐった。

「誰と会っているのか?」
「どんな女なのか?」

 突き止めなくては気が収まらなかった。
勤務先の小学校には、急用が出来たのでと嘘をつき早退をさせて貰った。
主人が通う小学校の下校時間に間に合うように、美容院を経営している馴染みの先生にカツラを借り、マスクをして待ち伏せをした。
そして主人の後をつけた。

 10分程、経った頃、軽四の自動車も通れない狭い路地に突き当たった。
その道に主人はなんの躊躇いも無く入った。
そして、右手に広がる20坪ほどの空き地を抜け、その敷地の隣に建つ見窄らしい平家の中にノックもせずに入っていったのだ。
1時間半程したら、その家から子供と見間違うような小さな女と主人が出てきた。

 蚊の様に腕や脚が痩せ細ったその背の低い女が主人の腕の血管から吸血でもする勢いでへばりついていた。
今からおんぶでも強請るかの様に背の高い主人を見上げ、歯を出して笑っていた。
その顔の表情は少女では無く、まさしくサカリのついた牝猫の顔をしていた。
台風が来たら直ぐにでも壊れそうな家の玄関の引き戸を閉めるなり、二人は鍵もせず出て行ったのだ。

 その荒屋には2坪程の庭があった。
そこには1メートルを超える見事な鉢植えのアロエが、子供用の自転車と後ろにも前にもカゴがある錆びついた自転車の真ん中に堂々と聳え立っていた。

 妙子の目には、そのアロエが卑猥に見えて仕方なかった。
その庭らしき場所には、花が咲きそうな植物は一切なかった。
よく目を凝らして見ると、発育不全のネギとニラが、申し訳なさそうに庭の隅っこに植えられているだけだった。

 妙子は勘ぐった。
皮肉めいた言葉を言いたくなった。
その女の欠点を嘲笑いたくなった。

「自分の色艶が未熟なもんだから、美しく成熟した花を見るのが辛いんだわ」
「発育不全の自分の身体にコンプレックスを抱いているのね」
「アンタなんか、若いだけが取り柄」
「直ぐに捨てられるわよ」
「今のうちに、せいぜい笑っとくがいいわ!」

 薬味になって重宝する筈のニラやネギが、この見窄らしい庭で見ると益々貧しさを象徴し、食欲を減退させている気がした。
妙子は腹立たしさを押さえきれず、泣きながら家に帰った。
悔しくて情けなくてどうしようもなかった。
今から追いかけて行って、道に転がっている尖った石を拾い、浮気相手の女の顔を滅茶苦茶にしてやりたかった。
甘えて笑う顔に反吐を撒き散らかしてやりたかった。
しかし、妙子は我慢した。
あんな女に負けたくなかった。
空気を何度か吸い、天を仰ぎ涙を拭いた。

「あんな子供みたいな女!」
「あんなロリコンの亭主!」
「こっちが願い下げだわ」

 主人とその未熟な女が、聳え立つ卑猥なアロエと貧弱なネギとニラの様に思えて仕方なかった。
家に帰り、主人の部屋の机に座った。
浮気現場を目撃した事実を、警察官の取り調べに応えるかの様に事細かに便箋に綴った。

「如何にショックだったか!」
「何故に、夫婦間を壊す行為をしたのか?」
「自分は、妻としてこれからどうしたらいいのか?」

 抑えきれない自分の感情を素直に、主人に宛てた手紙にぶつけた。
残り5枚しか無かったその季節外れの模様が入った便箋に、隙間なく苦悩や葛藤、憎しみ、不安が綴られた。
置き手紙を寝室に残し、家を出た。
1か月間は我が家に戻らなかった。

 その間、5回、主人は実家にやってきた。
反省した様子でやつれ果て、髭も剃らず実家を訪れた。
母が言うには実家に来るたび、彼の着ているしな垂れたジャケットのシミが彼方此方に増えていたらしい。
5回ともよれよれの同じスーツ姿だったそうだ。

 唯一笑顔で出迎えてくれる義理の母に「我が家へ帰って来て欲しい」とだけ告げて、玄関先で深く一礼をし、肩を落としてヨロヨロと帰って行った。
2階にある自分の部屋の窓の隙間から主人のやつれた情けない後ろ姿を見ては溜息を深くついた。
気の利いた反省の気持ちを表す品物さえ、一度も持たず、手ぶらで実家に訪れる不器用で鈍感な主人の背中を思いっきり両手で叩きたかった。

父は、噛み付くように吠えた。

「ほらっ見ろ!」
「アイツは柳みたいな男だ。」
「風に逆らう気合いちゅうもんが欠けておる!」
「女に迫られ、断る勇気もない奴は、又、同じ過ちを繰り返すのがオチじゃ」
「子種が無い男で良かったじゃないか!」
「あんな奴と暮らしたら、お前は一生、世話を焼くだけの人生をおくる事になるぞ!」
「別れて帰ってきたらええからな」
「お前は料理が上手いし、お母さんもワシも助かるよ」

離婚を強く促して、言うだけ言うと自分の書斎へと逃げ込んた。

妙子は、毎日涙で枕を濡らした。

 あの発育不全のニラやネギみたいな痩せ細った身体を壊れるほど抱きしめ、子供じみた乳に喰らい付き、身体に似合わぬ色っぽい唇や唾液に濡れた舌を舐め回す主人の顔を想像しただけで気が狂いそうになった。
猫の額にも満たない庭で、イキイキと聳え立つアロエを包丁で切り刻みに行きたかった。
性行為中の、あの女から溢れる喘ぎ声が寝る前になると部屋の四隅から、こだまの様に聞こえてきた。
その声は耳にこびり付き、布団を被ろうとも、流行り歌を聴こうとも頭から離れなかった。

ある日、とんでもない事が起きた。

 主人が何の連絡も無く学校を休んだらしく「自宅に何回、電話しても誰も出ない」と言う内容の電話が実家にかかってきたのだ。

「どうやって、実家の電話番号を調べたのか?」

 動転して分からなかったが、主人の勤めている小学校の校長からひっ迫した声で知らせが入った。
妙子は取るものも取らず、慌てて我が家に帰った。
主人は睡眠薬を飲んだらしく、いびきを掻きぐっすり寝入って居た。
枕元には、誰もがよく知っている睡眠導入剤の薬品名が印刷されたブリスターパックと、水が半分残ったコップあった。
5錠、無くなっていた。

 寝ている主人に大声で名前を2回、呼び掛けたら目を覚ました。
ひとまず、水をたっぷり飲ませ、彼の様子を伺った。
命には別状は無かったが、かなり精神的に弱りきっていた。
主人のあまりの憔悴ぶりに妙子は反省をした。
この人は、不器用なだけだ。
根はいい人
多分、これからは浮気はしないだろう。
妙子にはなんと無く分かった。
これ以上、我を張っても仕方ない。
今度、同じ事が有ればキッパリ別れたらいい。
妙子は割り切った。
そうでも思わない事には、妙子自体、身が持ちそうに無かったからだ。

その晩、2人は話し合った。

 浮気の一部始終を正直に話す事を条件に、もう一度やり直すつもりだと伝えた。
主人は淡々と話をしてくれた。
深々と頭を下げ、妙子に謝った。
主人は涙だけは見せなかった。
同情を買う男の泣き顔だけは、大嫌いだった妙子はホッとし、ヨレヨレになってシミだらけのジャケットやえりや脇の黄ばみが著しいワイシャツ4枚をクリーニング袋に入れた。
それ以来、元の暮らしに戻った。
妙子は賢明だった。
その忌々しい記憶を封じる為に、親鸞聖人のありがたいお言葉、"念仏者は、無碍(むげ)の一道なり"
を信じ般若心経を、1カ月、毎晩唱えた。
何ものにも妨げられることの無い、自分の進むべき道を歩むと言う教えである。

浮気について口に出すことは2度となかった。

それから25年して、主人は膵臓癌で呆気なく逝ってしまった。

 3年間は蝉の抜け殻みたいになった。
しかし、強風に煽られようが、雨にずぶ濡れになろうとも木に縋り付いて必死で生きた。
ある日、何気なくテレビを観ていた時、韓流の若くて可愛い男性に目が釘付けになった。
それからは、憑き物が落ちた様に元気になった。
その売れっ子俳優の写真を定期入れに忍ばせ、いつも持ち歩いた。
食卓にも寝室にも、その若い男優の等身大のポスターを貼った。

 その俳優が妙子をいつも優しく見つめてくれた。
生きる意欲がなくなってしまった妙子を蘇らせてくれたのだ。
暗闇からの脱出を手伝ってくれた。
いつしか、亡くなった主人を思い出す日が減っていった。

 大好きな歴史小説を読んでは、その本に書かれていた場所を訪ねたり、主人や両親の供養を兼ね、国内にある寺巡りの旅を1人でゆったりとした。
数少ない大学時代からの友人2人と、月に、2,3回お昼を共にしたりして、じっくり友情を育くんだ。

余生を、それなりに楽しんでいた。

 そうして、時は流れ、もうすぐで74歳を迎える今日この頃、韓流の可愛い俳優も悲しいかな、歳を取り、随分前から興味が無くなってしまった。
家に貼っていたポスターも知らぬ間に無くなっていた。

 今の楽しみは、もっぱら亡くなった主人や両親との会話だ。
ありし日を偲んだ。
座椅子に座り老眼鏡をかけ新聞を熱心に読んだり、前屈みになって足の爪を摘んでいる主人や、書斎で好きな書物を読んでいる父にお茶や和菓子を運び、窓から見える庭の樹々や花の話をしたり、最近行った旅先で得た情報を聞いて貰ったりしている。
亡き母とは洗濯物を一緒にたたんだりして、近頃の芸能ニュースや事件について不満や悪口、イライラする話しを聞いてもらっている。

1人笑ったり、泣いたり、愚痴を言ったり、怒ったりしながら幻影と会話をするのが日課になっていた。

 時には沢山ある写真アルバムの中の一冊を拡げて、無作為に一枚を取り出し「この写真を撮影した日に、何をしたか?」
思い出したりしている。
これが結構楽しいもんで、たった一枚の写真から様々な出来事を思い出し、知らぬ間に2時間くらい
一人で想い出に浸って、泣いたり笑ったりしてしまう。

「写真の背景から予想して、誰と何処に行ったか?」
「着ている服は何処で買ったか?」
「何歳頃か?」
「何を食べたか?」

 老眼鏡をかけて、懐かしい写真を眺める。

 日課として欠かせないのは、大好きな庭に咲く花や木の手入れをする事だった。
朝日に手を合わせ、夕日に首を垂れ、何も変わったことが無い事に感謝して深い眠りについた。

 そんな穏やかな生活を送っていたが、たまたま、何かにあたって食中毒を起こしてしまった。
夜中にトイレで吐いたら血が混じっていたので、翌日、近くの病院でバリウムを飲んだ。
その後、胃カメラや生検をした。
担当医が神妙な顔をして私に告げた。
胃にかなり大きな腫瘍が見つかった。
胃がんでもタチが悪いタイプだった。
既に手遅れで「持って半年だ」と宣告されてしまったのだ。

動揺は少しあったが、何故か泣けなかった。

「そうなんだ!」
「私、癌になっちゃったんだ」

 大切な友人の1人も、2年前に癌で亡くなっていたからだろうか?
冷静だった。
病院での待合室で肩を落とし生気を無くしている方々を見て「この人達も、私と一緒なのね」と何故か諦めがつき、我が家に帰ったの記憶している。

 宣告された日の夜、ある嬉しい偶然に気づいた。
77歳で両親2人が亡くなった事と、偶然にも私が逝く事になるだろう年齢が、75歳で死んだ主人と一緒である事実に気づいたのだ。
縁深き2組の夫婦の不思議な共通点に気づき、胸が熱くなり嬉し涙が溢れ出た。

 自分が死ぬ宣告をされても涙は出なかったが、こんな事で嬉し涙を流す自分に呆れ、笑ってしまった。
やっと大好きな皆んなにもうすぐ逢えると思ったら、ホットして眠気が襲ってきた。
妙子は不思議に死を怖いものとは捉えなかった。

「美味しそうとは思えない食べ物だけど、誰もが、一生に一度は食べなくてはならない、お忙しい神様が丹精込めてお作りになった料理」
「その一品が皿に盛り付けられ私の目の前に置かれたんだわ」
「神様に失礼なき様、残さず頂戴しなくては!」

厳粛に受けとめた。

 元々、妙子は若い頃から生きる事にそれほど執着は持たない方だった。
告知後の生活は全く変わらず、庭の植物や樹木の手入れを相変わらず楽しみ、朝早く起きて、近くの川沿いを30分ほど鼻歌を口ずさみながら散歩した。
早かれ遅かれ入院するだろうから、その準備はしていた。
遺言書も知り合いの弁護士に預けておいた。

 まだ、割合元気で動けて、朝昼晩の食事も8割方は食べれたので彼女は掃除洗濯、食事の支度を普段通りテキパキとこなした。
神様や仏壇に毎日手を合わせ、今までの幸せに感謝し「もう少ししたら、そちらに行きますのでどうぞよろしくお願いします」と呟いた。

 その日は湿気も無く、気温は夏としてはあまり高く無かった。
六甲山の新緑が吐き出す新鮮な空気を含んだ清々しい風が、サワサワと吹く気持ち良い朝だった。
庭には、多種多様の朝顔が一斉に咲き始めていた。
花が直径15センチはある暁の海と言う品種がまず目を引く。
濃紺の見事な大輪の花弁は見事だ。
平安の紅などと高貴な名前に恥じない朝顔も、一輪だけだが見事な花を広げていた。
中心が可愛い白で、花びらの淵がフレアスカートの様にヒラヒラ揺れて、見てる此方まで身体がフワフワしてしまう品種もあれば、スカーレットオハラと言う大好きな女優さんの名を彷彿する朝顔は、気高く可愛らしいピンク色の花弁を風に震わせていた。

 自己主張をしっかり持った朝顔達が、この季節は我が庭の女王様達だ。
どの種類も甲乙つけ難い程、鮮やかで美しく神々しかった。
高さが1メートル以内の鉢植えの朝顔もあれば、地植えで2メートル以上茎を伸ばし、まだまだ成長著しい朝顔もあった。
小石の混ざったゴツゴツした塀にツルを這わせ、沢山の花を見事に咲かせている。
蝋燭の炎みたいな形をした白い蕾の先っちょには、誰かさんが気まぐれに、様々な色の絵の具を筆で塗ったかの様だった。
その蕾が葉っぱから顔を控えめに覗かせている。

 中には「私を見て!」と言わんばかりに、葉っぱ2、3枚を押しのけて、今にもパッと花が開きそうに膨らんでいるものもあった。

「まぁ、なんて!」
「綺麗なんでしょう」

妙子は、朝顔が大好きだった。
暫く眺めてその美しさに癒されていた。

 朝食を摂り、散歩も終わり、彼女が好きな色、薄紫色で膝下まである麻のスカートを履いて、庭の雑草を抜き始めた時だった。
彼女の白く柔らかな太腿の内側を流れる毛細血管を狙って血を吸っている一匹の蚊を見つけた。
彼女は蚊が刺した感覚を微かに覚え、静かにスカートを捲ったのだ。
癌に侵され、死にゆく己の血を命をかけて吸う生き物の姿を愛おしく見つめた。

「私の血が、赤ちゃんの栄養になる」
「新しい命の役に立てる!」
「なんて素晴らしい!」

「蚊として蘇るのも悪くないな!」と妙子は呟いた。
彼女は微笑みながら「朝顔さん」と、その蚊に向かって声を掛けた。
その時、その蚊はわずかだが震えた気がした。


 蚊にとって、人間に名前で呼んで貰える幸せは最高の名誉でもあった。
人間社会で言うなら、ノーベル賞か文化勲章を頂いた様なもんである。
まして、その人間の血を頂いている最中、名前を呼ばれる事なんて滅多やたらにある事では無かったのだ。
朝顔さまと呼ばれた蚊は、嬉しさの余り武者震いをしオシッを漏らしてしまったほどだ。

 タエコの母は、こうして稀有な蚊の仲間入りを果たし、生態系の頂点に立つ人間様から最高のアイデンティティを頂いたのだった。

 タエコは、そんな最強運な母、朝顔さんを誇りに思い、自分も出来るならば人間から名前を頂戴したいと強く願う様になった。

 人間から命名された名前がなんと言っても最高位でタエコと言う名前は、所詮、母から貰ったラッキーなご褒美にしか過ぎない。
格付けとして2番目に素晴らしいと表向きでは言われてはいた。
確かに、蚊の仲間達からは崇拝され、何処へ行ってもタエコ様と呼ばれてはいたが、裏では親の七光りと囁かれ実際は疎まれていたのだ。

 蚊の仲間達から、嫉妬をされ陰口を叩かれている事は重々知っていた。
それが堪らなく寂しく悔しかったのだ。
寧ろ、中途半端な名前なんかない方がマシに思えた。
どれほどタエコと言う名前を捨て去りたいと願ってきたか!
近い将来、我が長女にも名前を命名しなくてはならない蚊族の習わしを考えると不安でいっぱいだった。
自分と同じ苦しみを娘に味合わせたくなかった。
周りからの嫉妬や妬みを受けるくらいなら、名前などつけたくなかったのだ。

 3種の蚊の社会では、母の縄張りを犯す行為は絶対タブーで子供であるタエコ達は自分の縄張りを見つけ自立し生きていかなければならない。

 現在、蚊の神ジーバを祀った出雲地方にある神社は悲しい事に廃墟となっていた。
僅かながら塀らしき石垣と土塀は残ってはいたが、跡形はほぼ無くなって雑草や低木、シダ植物に覆いつくされていた。
祠もかなり朽ちて、辛うじてその面影がわかる
程度だった。
誰も参らなくなって、神社への道も無くなり、その代わり、けもの道らしき跡が見えた。

 しかし、どんなに朽ち果てようが、その社に祀られている蚊の神ジーバの存在は、3種の蚊族達皆んなにとっては、今なお、絶対的存在であった。
掟破りは大変なお叱りを受ける事になるし3種の蚊の世界から追放間違いない行為であった。
蚊の生まれ変わりは今後のぞめないだろうし、兄弟全てが村八分は間違いない。
喉から手が出るほど人間様から直接名前を授けて貰いたかったタエコは、縄張り破りを犯してでも、母に "朝顔"    と名付けてく下さったご婦人の元に、今すぐにでも飛んで行って、自分にもちゃんとした名前をつけて貰いたかった。
しかし、そんな浅はかな願いを恥じた。
強欲にも程があると、出雲の神に詫びた。


「ダメよ」
「何考えてるの!」
「母の縄張りを犯すなんて、ジーバ神を裏切る行為じゃないの?」

 名前などない蚊が当たり前。
欲どしい自分を恥じた。
普通に子を宿し、母となってエンパシーの力で人間様の気持ちや生きて来た歴史を共有し、名誉ある"タエコ" と言う名前で生きて行こう。
それだけでも充分すぎるほどの幸福なのだから。
母、朝顔の強運を目の当たりにして育ってきたからか?
ついつい、同様の奇跡を夢見てしまう。
タエコは改心した。
夜空の星やお月様に手を合わせ謝った。

 出産の適齢期を迎えたタエコは友人から産卵するにはもってこいの場所を聞く事が出来た。
その友人の蚊は、鳥や猫、犬などと話せるスピーチーの1種で、その場所を所有する住人に飼われている犬の血を2回吸って友達になり、仕入れた貴重な情報だった。

 蝿を研究していると言う、少し変わった男が住む家だった。
そこのお屋敷には小ぢんまりした庭があり鳥用の水飲み石には窪みが掘られてあった。
その穴には苔が生え、雨水や鳥の糞が常時溜まっているらしい。
庭にある大きな松の木の影にその水飲み石はある為、木漏れ日程度しか陽射しがあたらない。
その鳥用の水飲み場は、蚊の赤ちゃん達が生育する為に必要な湿度と気温が理想的に保たれた場所だったのだ。

 必ず、雨以外の夕方にはその男性が犬の散歩に出かけるらしいとのありがたい情報も聞けた。
男性はどこでも舐め回る可愛い愛犬や、我が家で繁殖させている研究対象の蝿達の為に蚊取り線香や虫除けスプレーは絶対使用しないらしい。
タエコはその情報に飛びついた。
タエコにとって夢のような話しだった。
子を育てていく上で、これ以上望めない最適の環境だった。

 犬の散歩に出かける人間は、注意が犬に向かい油断しているし、片手には犬のリード、もう一方にはうんち入れのナイロン袋やティッシュを持っているので蚊に刺されやすい。
蚊にとっては平手打ちされる心配も少なく、かなり安心して血を吸える対象であった。

 犬や猫に比べ断然、人間の血は栄養豊富である。
人間の男性の血液であれば、なおさら丈夫な子に恵まれるだろう。
タエコは、出来るだけ早く、母、朝顔に孫を見せてあげたかった。
それと、人間様の血を吸うことで得るエンパシー同士ならではの会話を母とするのが夢でもあった。

 しかし、タエコの母、朝顔がこの頃めっきり沈んでいる。
何故なら、眩いほど銀色に光輝く長い髪を三つ編みにし、頭の後ろで、その束を上手に一つにまとめ上げ、鳥達にも負けない程、美しい声で歌う事が大好きなご婦人の病状が急速に悪化していたからだ。

 庭先で、数十分だけの日向ぼっこが、やっと出来るくらいの体力しか、今は無く、あれ程大切にして来た植物の世話も残念ながらできない状態らしい。
多種多様の見事な朝顔さえ、水不足のせいで葉っぱはハラハラと地に落ち、茎は茶色に変色し、ところどころが括れてしまっていた。
やっと蕾が付いたと言うのに、花芽は丸々萎んでミイラ化状態だ。
エンパシーの蚊、朝顔は、血を頂いた人間の生きてきた思い出を全て共有出来る。
そして、知らず知らずのうちにその人に寄り添い、他人事では無くなってしまうのだ。
そのご婦人は、定年迄小学校の教師をして居た。
ご主人と共稼ぎだった為、亡くなった主人の世話や料理を充分に出来なかった事を悔んでいらした。

 ご主人が、随分昔、浮気をした際に実家に1か月帰り、主人が許しを乞うても許すことがなかなか出来なかった事を、苦々しく思い出していた。
毎晩、実家で忍び泣き、枕を濡らした。
誰も居ない山道を散歩して、悔しさをぶつける為、叫んだ事も若き日のほろ苦い思い出として懐かしんでいらした。

 今なら笑える話を聞いて貰える人も亡くなっていた。
寂しさが、彼女の胸を締め付ける。
死を宣告されて4ヶ月、初めて、後悔や懺悔の気持ちがふつふつと湧き出てきたのだ。
縁側で、浮雲の様に坐る彼女の目から溢れる涙を見て、朝顔は彼女の気持ちが痛いほど判る分、自分が話し相手になってあげれたら、どんなに彼女を幸せにできるだろうかと悔しく思っていた。
朝顔は、滅多やたらに姿を見せないミラクル種の蚊を、何が何でも探しだす決心をした。

 誇り高き名前を彼女からもらった朝顔は、彼女を是が非でも救いたかった。
充分な血液を安心して頂き、子供達を立派に育てる事が出来た恩返しをしなくては死んでも死にきれないのだ。
鳥の血を2度吸って、鳥と話ができるスピーチーの蚊を探せば、もしかしたらミラクル蚊の居場所が分かるやも知れない。
鳥は行動範囲が広く視野が広いし、おしゃべりが大好きだ。
鳥同士のコミュニティ情報は宝の山だ。

 ミラクル蚊の存在は貴重だから、鳥同士の間ではかなり噂になってても不思議じゃあない。
病を治す力を持つミラクル蚊の住処を知っている確率はかなり高いはずだ。
エンパシー、ミラクル、スピーチーの蚊は一般の蚊とは違う。
誇り高き一族なのだ。
団結力も絆もかなり強い。

 1200年前に創建された、歴史ある蚊の神ジーバを崇める祠に、心清らかな村人達の大切な血が奉納され、由緒正しき血液を頂いて育ってきた蚊の子孫達。

 神ジーバ様の恩恵に預かるに相応しい、特別に優秀な蚊の末裔である。
この子孫は、特異な才能を持っているだけではない。
この3種類だけにしかわかり合えない匂い、飛ぶ時に出る羽の音の波長で互いに会話が出来、3種類間のコミュニティが脈々と積み重なって、よく似た文化や慣習の中、親戚以上の関係を保ち1200年以上を生きてきている。

 現在においても、この蚊族達は7,8,9月の満月には、厳粛に各自が月を崇める。
羽を広げ、蚊の神ジーバを讃え、感謝の意を表すのだ。
寿命が満月に間に合わない場合は、どんなお月様にでも手を合わし感謝の意を表す蚊は、幸せに死を迎える事が出来ると言う言い伝えもある。
こんな古き習わしが息ずく中、時代に即応した新しい常識が蚊族の中で生まれていた。
10年程前から、タブーとされて来た3種間での恋愛が許されるようになったのだ。
何故なら、少子化が大きな原因だった。
蚊に対する予防薬品が急速に進化している事も然(さ)ることながら、最悪にも、近年、蚊の遺伝子を操作し、蚊の生殖能力を撲滅する方法が成功しつつある。

 上水設備の普及や下水処理が進み、各家には当たり前だった井戸も次から次へと無くなってしまい、過疎化した田舎へと蚊族の住処は追いやられている。
この現象は深刻な問題だった。
人間との距離がどんどん離れてしまう事は、蚊族にとってある面、絶滅を意味した。

 スピード重視とする人間社会の変化を、いち早く知らなくてはとんでもない事態に遭遇するだろう。
崇拝する人間様の素晴らしい頭脳、知恵、取り巻く環境の変化、発展を糧とする思考を随時学んでいかなくては蚊族だけに限らず、人間と共生して生きる者にとって致命的である事は言うまでもない。
子孫繁栄祈願の為に、満月に羽を広げて蚊の神ジーバ様だけに委ねる時代では、既になくなってきているのだ。

子が出来なくなる様に遺伝子操作されたオスの蚊の情報にしてもそうだ。
この話を、我々蚊族の会合でスピーチー蚊から聞いた時には、腰が抜ける程、驚愕した。
手も足も出ない我々蚊族は、肩を落とし溜息ばかり落とすしか術はなかった。

 人間様からの情報が如何に大切かを、ほんの一例だけ挙げるなら、先日3種間同士の通例会があった際、エンパシーの蚊から蚊族長に重大な報告があった。
10年間、人間の都合で荒れ地にされゴミ捨て場になっていた土地が1週間後に更地になるという情報が舞い込んできたのだ。
そこは、何千、何万もの蚊の世帯にとって思い出深い故郷であり、愛着ある住み慣れた場所だった。
それなのに、一夜にして、巨大なブルドーザーが更地にして新築マンションを創ると言う。

 そんな悲惨極まる情報の一例をとっても、如何に人間の行動をいち早く察知しなくてはならないか?
その重要性に身が縮む思いである。
廃屋の解体情報などにしても、いち早く入手し一般の蚊にも出来るだけ早く伝えてあげなくては、縄張りや住処、懐かしい故郷を下手すれば、一瞬で失くしてしまう。
否、それどころか!
せっかく苦労して、沢山の卵を生み落とした水溜りを壊されたりしたら、益々少子化に拍車がかかり、蚊族継承自体が危ぶまれる事になり兼ねない。

 1200年前に出雲地方で突然、誕生した3種の魂を持つ奇異な蚊族。
エンパシー、ミラクル、スピーチーの種族にとって人間様は偉大なる神であり、かけがえのない家族である。
高らかなる声を上げて、共生を叫びたかったが、それは叶わぬ夢。

 本来なら掟破りではあったが、3種類間の恋愛を許さなかったら我々は滅亡の一途を辿っていたかもしれない。

「それはどうしてか?」

  ー信じられない奇跡が起きたからだー

 3種間同士の交配から生まれた蚊の子供の中には、新しい薬品にめっぽう強い耐性を持った子や、遺伝子操作されたオスのフェロモンさえも、瞬時に見極める力を備えた雌の蚊も、次々と生まれてきているのだ。

信じられない現象に歓喜した。

「やはり、出雲の蚊の神ジーバ様はいらっしゃる!」
「私達をお守り下さっているんだ!」

 夜に光り輝くまん丸のお月様に向かい、羽を何度も広げ感謝した。
私達出雲の蚊族は、誇らしげに羽音を響かせ、手を合わせた。
我々蚊族に希望の灯りが見えた時、会合で集まっていた皆んなは飛び上がって喜んだ。
肩を寄せ合い咽(むせ)び泣いた。

 3種全ての才能に恵まれる子供も、驚くなかれ!いると聞く。
2種類の才能を持つ子もチラホラ増えて来ている。
自然の摂理は、我が蚊族にもその恩恵を恵んでくださり救いの道を照らして下さったのだ。

 新しい時代に適応した蚊族達が、将来、人間を苦しめる病気の媒介役にならない為に、ウイルスや細菌を自己免疫力によって撲滅し伝染源とならない進化をしてくれる事を、更に祈るしかない。

 人間様の貴重な血液を頂くのだから、むしろ、我々に刺されたら病気になりにくい成分が体内で生成され、血を頂戴する代わりにその魔法のエキスを人間様に差し上げる事が出来たなら、どんなに素晴らしいことか!

 ミラクル蚊の病を治す力を受け継ぐ蚊の遺伝子が進化を遂げ、その魔法のエキスを作り出す日もそう遠い夢の話ではないかも知れない。
3種の蚊族達の会合では、そんな前向きな話し合いが常に行われていた。


 タエコは、母、朝顔の切なる願いを叶えんが為、病を治すミラクル蚊を必死で探した。
従兄弟に当たる蚊に雀の血を吸うスピーチー蚊の友人が居た。
早速、従兄弟に頼んでその友人に会いに行った。

 おもたせとして野いちごの汁を口に溜め、雀とおしゃべりが出来るスピーチー蚊がいる場所に朝顔とタエコは従兄弟に連れられ飛んで行った。
かなり古い一軒家に到着した。
そこには10坪ほどの庭があった。
現在では珍しい井戸も残っていて、幸いにも使われていなかった。
その稀有な井戸に、そのスピーチー蚊の家族は住んでいらした。
タエコと朝顔は、こんな立派な城壁に囲まれた大豪邸に足を踏み入れたことなどなかった。


 有難い事に、そのスピーチー蚊には、親友と呼びあう雀がいた。
気軽にいつでも、おしゃべりが出来る雀だと言う。

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