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おもいつき     

この5年間、いぼ痔を患い、この半年は座る事さえ儘ならぬ状態だ。
私は寺の坊主である。
職業柄、正直言ってほとほと困っている。
医者に言われた通り、肛門に塗りこむ2種類の軟膏を朝夕付けてはいる。
痛み止めの内服を一錠、食後30分したら胃に流し込む。
そして、気合いを入れて檀家の法要に出掛ける。

用意されている座布団に座り、腰と肛門の痛みと格闘しながら30分のお経を唱える。

 いぼ痔を発症する直前、運良く見合い結婚をした。
新婚旅行に行く当日の朝、親指の爪くらいの大きさのドス黒い袋二つが肛門から飛び出していた。
こんなものが、見合い前に出来ていたら結婚どころではなかった。
いぼ痔のせいで、絶対、断られていた可能性大だ。
デートの時に円座を持参する男など、色気も何もあったもんじゃない。
妻の実家は、千光寺で有名な尾道の波止場から1時間に一本だけ出港するフェリーでしか行けない島にあった。
橋も無く、アクセスは海上を航行する船のみだ。
妻の父は、その島内にある小学校の校長を定年まで務め上げ62歳でその島の町長となった。
妻の家族は、そういった経緯から島民の尊敬をいまだに集めている。
内科、整形外科を専門とする診療所がその島にはあった。
その診療所を35年間、経営、管理している温厚な医者が、妻を紹介してくれた世話人だった。

 その医者は、私の母と親戚筋に当たる。
35歳にもなって嫁を貰わない息子を心配する母の愚痴を聞いた医者が気を利かせ、由諸ある寺の跡取りになったばかりの私に、うら若き女性との縁談を持ってきた。
9歳も若い女だった。
そろそろ、身を落ち着けたかった私はふたつ返事で快諾した。
お見合い写真の印象は悪くなかった。

「無難」と言う言葉が何より好きな私にはもってこいの女性だった。

 トントン拍子にお見合いの運びとなった。
最初の印象は、想像していた通り可もなく不可もなかった。
ただ、見合い写真で見るより肌が透き通るほど白かった。
寺の境内の片隅に咲く水仙の花のようにも感じた。
その存在は控えめではあるが、何処かしら色香漂う女性だった。
それと、見合いに着て来た洋服があまりにも似合っていたので誂(あつらえ)たのか?
市販のものだろうか?
そっちの方が、気になって仕方なかった事を記憶している。

 結婚し3年ほどして、2歳になったばかりの愛娘との拙い会話を中心に家でオムライスを食べていた時だった。
妻の悦子が見合いの時、着ていた服にそっくりの衣装を纏ったタレントが偶然テレビに映った。

「なんだ!オーダーメイドでは無かったのか」

 やっと、気になっていた真相が分かったので嬉しかった。
テレビのボリュームを少し上げて、そのタレントが出演する番組を暫く黙って鑑賞した。

 清楚さと知性を売り物にする、今やどの番組にもひっぱりダコのタレントよりその紺色とも青色とも言えないワンピースの着こなし方は、お世辞では無く悦子の方が似合っていた。
その事を正直に話すと、悦子は顔を赤らめ恥ずかしそうにしていた。

 悦子は広島の大学を卒業し2年ほど広島市内の信用金庫で働いていた。
麗しげな目元はどことなく寂しげな影を湛えていたが、その暗さは何事にも控え目であり思慮深さを持つ瞳だと前向きに捉える事が出来た。

 贅肉など全くなさそうな、すらりとした体つきを最初見たとき、スカートに隠れた彼女の太ももを無性に見たくなったのを覚えている。
案外、太ももは肉付きが良いのではないか?
そうであってほしかった。
身長150センチくらい、体重は40キロあるかないか?
あの時に上に乗らせても、きっと疲れないだろうと推測した。
本来、肉感的な女性に性的な欲求を募らせる方だが、悦子の独特な妖艶さを醸し出す身体つきには唆られた。
絶妙なアンバランス感が何とも言えなかった。
他の華奢なだけの女とは違って下半身を疼かせる何かを隠し持っていた。

 アダルトビデオで自慰行為をする際、1か月から2ヶ月毎に女優の顔や喘ぎかたや声の好みは心変わりするが、ぽっちゃり型の体型に欲情する嗜好だけは10代から変わらなかった。

 その時々のトレンド物やマイブームのアダルト女優が出る動画を早送りして一応最後まで観る。
その女性が最もクライマックスに達する迄の場面に巻き戻しをしてから、再度、じっくり鑑賞しながら射精する。

 自慰行為は3日に一度が通例だった。
睾丸に溜まった3日分の精子は10億個近い飽和数となりドロドロの白濁した精液になる。

 現実問題、生身の女を相手に3日に一度、自慰行為同様、夜の営みをコンスタントにしていたら身体が持たない。

 結婚生活を継続していく上、身体が疲れない事を最優先すべきだと考えている。
色欲に負けてしまいそうなぽっちゃり型の女性は、何かにつけ疲労の原因になりかねないという判断に至り、見合いで知り合ったスレンダーな悦子との縁談を進めて貰う運びとなった。

 1年もすれば、女は大概、夫の情がない同じ手法のセックスに飽きるのが常だ。
48手技法の興味や長時間挿入への欲求、前戯の不満、何度もクライマックスを迎えたい愚痴を、最初の頃は男に甘え、拗ねて訴えるだろうが、所詮、そんな戯言を言ったところで無意味である事に、この賢明な女なら1年足らずで気付き、欲求不満解消の為に何をすべきか?

最善の思索を、自分なりに導き出す筈だ。

 手の込んだ料理や掃除に洗濯、檀家さんへのお接待、寺にある幾つもの植栽の手入れに疲労困憊し、それどころでは無くなるだろうが。
そうこうしているうちに子が宿り、育児に追われ、亭主は金を儲ける機械、もしくは雨風に晒されず、安心した住居を提供してくれる人型をした対象物としてしか認知しなくなるはずだ。

 島民の羨望と尊敬を集める悦子の実家の両親は、親戚縁者に恥をかかせない様、幼き頃から厳格な躾をしてきているだろう。
決して離婚などしないように妻として、母としての心構えをしっかり植え付けられている筈だ。

 3つ上の兄も、村の消防団長をしている。
いずれは父の跡を継いで町長になるつもりらしい。悦子の会話の端々から体裁をかなり気にかけている事が伺えた。
結婚するならこう言う保守的な家庭環境の中で生まれ育ち、手枷、足枷のある女に限る。
地位や名誉を重んじるが為、がんじがらめになり、派手な生活もできぬ生真面目な女性の方が、何かにつけて安くつくと父から教えられてきた。
口数の少ない父だったが、今更ながらに感謝しきりである。

3か月も待たず、スピード結婚に踏み切った。

「離婚はしないだろう」
「離婚は金も時間も無駄になる」

私は、腹を括った。

 寺の嫁として最も大切なことは、檀家の応対をそつ無くこなせるかどうかだ。
これが一番の条件だった。
3回食事に連れて行き、見事その難関をクリアした。

 初対面の男友達3人との会食時、悦子はその場の空気を一層和ませた。
笑顔で聞き役に徹する中、相手に対し恐縮しつつ、自分の意見もほんの少しだが言っていた。
笑い声に品が有り、率先して完食した皿を下げたり、酌をして回ってくれた。

 5回目のデートで初めて抱いてみて、おおよそ女としての素因が中の上である事が分かった。
乱れ方や喘ぎ方が理想とはかけ離れていたが、あまり好きものなのも妻や母としていかがなもんか?
この程度の性欲加減が丁度良いと納得した。
満たされない性欲は、年に数回行くソープや馴染みのデリヘル嬢との浮気で発散させればいいだろうと思い直した。

 悦子は、交際中もよく気を配ってくれた。
ラブホテルに入るなりお茶を出してくれたし、風呂に湯を溜める際、湯加減を再々気にかけてくれた。
自分の脱いだ服だけで無く、私の服や下着を嫌がらずたたんでタオルで覆い隠しもしてくれた。

コンドームの用意もしっかりしていた。

「ラブホテルにある避妊具は信用ならない」と、悦子はさりげなく呟いた。
「前の若い客が、安全ピンで未使用のゴムに見えない穴を何箇所か空けたりする悪戯話を噂で聞いたの」と恥ずかしげに言った。
そして、悦子はコンドームの入った高級そうな箱をバックから取り出し差し出した。
質の良し悪しもわからない様なラブホの避妊具では無く、わざわざ薬局に行って適正価格で品質の良いのを買ってくれていた。
本当によく気がつく女だと改めて感動した。

「可愛い女だなぁ〜」

その時、初めて思った。

 シャンプーやリンスも、知らない客の精液が混入してる場合があると携帯から調べ知っていた。
悦子は行為が終わると、持参して来た試供品のシャンプーアンドリンスを使用し髪を洗っていた。
私にも一袋くれた。
慎重で几帳面で、だらしない女では無いと安心した。

 結婚して、早5年が経った。
家族らしい暮らしをつつがなく送っている。
妻は想像した以上によく出来た女だった。

"当たりだった"

 妻、悦子は、土日以外は一人娘の手を取り、幼稚園年中組に朝早くから連れて行く。
その帰り道は、海や船や美しい橋が見渡せるいつもの市道を歩く。
古くから軒を並べる風情ある商店街に寄って、夕飯の食材を買って家路に急ぐ。
寺の仕事が終わる頃には、栄養バランスが考慮されたおかず三品が必ず食卓に並んでいる。

理想的な家庭だと感謝している。

 しかし、風俗遊びはさておいて、一つだけ夫婦間で内緒にしている事が実はあった。
私は、勤勉な悦子の密やかな娯楽を3年前から知っていたが、いまだに口を閉ざし続けている。
夜、私が寝静まるとアイロンをしたり裁縫をする部屋に悦子は忍びこむ。
週に1~2度、息を殺し音を立てない様に寝室を抜け出すのだ。
私は、その怪しい行動の一部始終を知っていた。
衣装部屋に錐(きり)を使って小さな穴を開け、隣接する、その3畳程の部屋を覗いているからだ。
妻はその事には全く気づいていなかった。


 悦子もある事を知っていた。
主人が、覗き穴から自分の淫らな行為を見ている事を。
結婚して子を産み、母乳期間を終えた頃から始めた一人エッチを主人がこっそり覗いて楽しんでいる事は、アイロン部屋と衣装部屋を隔てる板壁に空いた小豆粒大の穴が2年ほど前にこっそり教えてくれた。

 寝室にある衣裳部屋の隣にあるアイロン部屋に行き、鍵を閉める。
主人の視線を感じながら、息を殺し自慰にふけるのが悦子は何よりの楽しみであり息抜きであった。
好きな俳優を思い浮かべたり、時には知り合いのママ友の旦那との情事を想像したりもする。
何より面白いのは主人がすっとぼけて、私のオナニーを見ながら自分もオナっている癖に、"知らぬ存ぜぬ"  の顔をしているのを見る事だった。
私は、決してこの秘密は主人には言わない。
主人も絶対言わないだろう。

ーまさに秘すれば花ー

それは、お互いにとって何よりも強い絆であり、最高に愉快な快楽だからだ。

 
 満月の夜、珊瑚は一斉に産卵を始める。
大潮の流れに乗って、広範囲に卵を届けるためだ。
野生の血が騒ぐのか?
主人も射精の時、珊瑚同様、飛び散る速度が高まり快感がより増すのだろうか?
満月の夜に限って月に一度、淫売女を彷彿させるパチンコ玉程ある薄紫色の    乳豆 を執拗に吸いにくる。
主人は乳首とは言わない。

「乳豆(ちちまめ)を吸いたい」
と必ず哀願してきた。

 月に一度きりの要求に悦子は頭が痛くても、お腹が緩くても嫌だと拒否した事は今までなかった。
主人は前戯として乳豆を舐め回したり柔らかめに噛んだり、赤子が喉を鳴らし母乳をゴクゴク飲むかの様に乳豆が喉チンコに当たるくらい吸い上げ、必ず乳房の何処かに数箇所の内出血跡を残した。
乳豆に対し異様なまでの執着をし終えた後、悦子を横座りにさせる。
これから読経でもするかの様に、悦子の前でいぼ痔を庇って軽く胡座(あぐら)を組み、ネグリジェとパンティを丁寧に脱がす。
そして、全裸にして股間を少しだけ開かせ、その暗黒の世界に厭らしい眼光を向けながら半立ちの男根を上下に揺らす。

 肩を冷やしたくないと言う理由から、主人は上着のパジャマは脱がないが、ボタンだけは自分の乳首を吸ってもらう為に全て外している。
そして、下半身だけ裸になるのだ。
そんな情け無い格好を見ても主人に不平不満は一切言わない。
主人の要望通りに身を委ねることにしている。

 そして、痔持ちで腰痛にいつも悩まされている主人を庇い必ず上になった。
悦子がオーガニズムに達する時の顔を、主人が見下ろす事は、結婚記念日だろうが誕生日だとしてもあり得なかった。

 結婚前にした6回の性行為は、全て正常位だった。
しかし、灯りを消した中での出来事だったせいで
主人を見上げた記憶は残念ながら無かった。
目を見つめ合ったり、主人の裸に触る事さえ恥じらいがあったので無理も無かった。
真っ白な肌にこんもりと膨らむ乳が、縦に横に僅かながら揺れる騎乗位しか新婚旅行から今までした事はなかった。
主人は、以前、悦子に漏らした事がある。

「お前の華奢な身体と、今にも泣き出しそうな寂しげな潤んだ瞳を見るといつも弱いものいじめをしている感覚を覚えるんだ」
「それが、堪らなくいじらしいんだ」

 主人がイク時、悦子の腰を掴む両手に力が入る。
力み過ぎて爪を立てる。
痛みを我慢した悦子の顔をオーガニズムと錯覚するのか?
主人は悦子の腰を激しく揺らす。

「うっ!」
「悦子、いきそうだ!」

 そう叫ぶと、悦子は反射的に腰を引き、愛液に塗れたペニスを抜く。
右手5本の指全てを使って、かなり強めにペニスを握り締め上下にスピードを上げて擦り続けるのだ。
数十秒以内に、その男根はまるで深呼吸でもするかの様に尿道が膨らむ。
悦子はその変化を見逃さない。
主人がイク寸前のペニスの先を臍に向け倒す。
その直後、主人の胸下辺りに牛乳ゼリーらしきものが迸(ほとば)しる。
その放り出された液体を見る度に、悦子は白い血液だと思い背筋がゾワゾワしてしまう。

 荒い息遣いが収まらないまま、悦子は熟練された看護師さながらの手つきで白い血液の後始末をする。
まとめ買いしている可愛い猫の写真が印刷されたティッシュボックスから埃の出にくい潤いのあるティッシュを7枚ほど静かに抜き取り、主人のみぞおち辺りに溜まった粘度の高い液体を丁寧に拭き取る。
ペニスの先から、だらしなく垂れている僅かな雫を悦子は最後に味見する。
舌を出し猫の様に舐めるのだ。
今まで溜まっていたものを一気に失ってしまった喪失感と空虚感を伴い、かなりナーバスな気分になりかけたペニスは、その控えめなフェラチオを歓迎する。
小さな呻き声を先っぽの小さな穴から漏らす。
酸味、粘り気、鼻をつく精子独特の匂いが毎回ちょっとずつ違う。
悦子の桃色の舌にある味蕾は、その僅かな違いを毎回自慢する。

 そして、沈黙の中、精気を奪われ、まるでゴミ処理場に廃棄されたマネキンみたいな主人に下着とパジャマを履かせるのだ。
その一連の作業が終わるとシャワーをする為、ネグリジェを羽織り浴室に行く。
寝室に戻ると、既にいびきをかいて寝ている夫に布団を肩まで掛け、背中合わせで眠りにつくのだ。

 30歳を迎える前日の朝、悦子は歯磨きを終え鏡を見た。
見慣れた顔がいつもと何処か違う事に気づいた。

「うん?」

少し近づいて顔を凝視した。

「あっ!」
「嘘」

 今まで、全く無かったほうれい線が薄く出来ている事に気付いたのだ。
一瞬頭が揺れた。
マグニチュードで例えるなら6クラスだった。
吐き気と眩暈が同時に悦子を襲った。
深呼吸をした。
両手で顔を覆った。

「なんて事!」

 焦りと怒りが、時速500キロの猛スピードを上げ、脳の神経回路をサーキット場にし煙をあげている。
もう、女としての時間が無くなりつつある事をやっと悟って急ブレーキを踏んだ。
水を飲んだ。
喉を鳴らしゴクゴクと飲んだ。
頭の中にあるナビに自分が進むべき目的地を冷静に設定した。
その目的地を表すゴールには、生理中に排出されるドス黒い血液がベッタリ付着した旗が血飛沫を弾かせながらはためいていた。

 その重たい旗のポールを両手で強く握りしめる男を探すのだ。
私から流れでる体液、汗、唾液、愛液、そして血を舐め尽くす男に無茶苦茶抱かれたかった。
壊れるくらい激しく突いて欲しかった。
私を見下ろし、迸(ほとばし)る汗を顔にボタボタ落として貰いたかった。
悦子はお気に入りの石鹸でテカリの目立つTゾーンを入念に洗った。
髪を櫛で整えた。
唇を少しだけ意地悪気に舐めてみた。

「急がなくては」

 悦子は自分を見下ろして、自分がいく時の顔を、最後まで見届けてくれる男を探した。
万が一、浮気がバレたとして離縁を言い放たれたとしても実家に帰る気など毛頭無かった。
島民に選挙の度にバッタの様に頭を下げ、楽しくも無いお茶会に付き合い、作り笑いをする両親と同じように自分を犠牲にした世界で暮らすなんで真平ごめんだ。
精悍な体つきを維持する為に、毎日ランニングやハードな筋力トレーニングを欠かさない兄。
島人との交流が大好きで、今時珍しく村の行事や祭りが命の熱血漢の兄。
兄の顔に泥を塗ることになっても構わなかった。
寧ろ、恥をかかせたかった。

 兄は1度、悦子を犯したことがある。
中学3年の夏、高校3年の兄と海に一緒に行った。
人が沢山いる砂浜から随分離れた場所にデコボコした岩が幾つか集まった岩礁があった。
そのとんがったり、へこんだ岩を用心して何個か渡りきると、枝ぶりの良い大きな松の木の向こう側に辿り着く。
そこはプライベートビーチの様だった。
小さな砂浜にヒョイと飛び降りると、裸になって打ち寄せる波と戯れたくなるような場所。
しかし、14歳の悦子は秘密めいたビーチより岩場に興味があった。
そこには、海水が溜まり、見た事の無い小さな魚が泳いでいたからだ。
魚を指で触って無邪気に遊んでいたら、その光景を手を翳しながら眩しそうに見ていた兄が叫んだ。

「悦子ぉ〜」
「こっちに来いよ」

その秘密めいた小さな砂浜に、兄は私を誘った。

「何?」
「お兄ちゃん」

 穏やかだった兄は、砂浜に悦子の真っ白な右足が降りるなり豹変した。
今まで見た事の無い顔つきになって襲いかかってきたのだ。
驚き、泣きじゃくる悦子の口を塞ぎ、スカートが付いた水着のパンツを脱がされ、処女を無理やり奪われた。
激しい痛みと悔しさでグッタリしてしまった。
知らぬ間に両手は砂を握り締めていた。
行為自体が終わると、いつも通りの兄に戻り穏やかになった。
泣き疲れた悦子は、水着を着せられ座らされた。
兄は悪ぶれる事も無く照れ笑いをしながら「ごめんな」と呟き、意味不明の言い訳をした。

「俺がしたんじゃないんだ」
「違う奴に憑依されて、やらされただけなんだ」
「俺は犠牲者なんだ」
「何がなんだか分からなかった」

 満ち潮の波の音に掻き消されて、何を言っているのか?
よく聞こえなかった。
それから、急に黙り込んで下を向いてしまった兄はもはや被害者だった。
攻める気も失せた。
何もかもアホらしくなった。
若気の至り?
発作?
否違う。
ただの性の吐口でしょ?
死ね!

 その日から高校2年になる迄、兄と一言も喋ったことは無かった。
目も合わす事もなかった。
両親は、私達兄妹の不穏な関係に気付いていた筈だ。
あれだけ仲良かった二人だったのに、急に海水浴場に行ってからと言うもの、全く目も合わせようとしなくなるなんて!
おかしいに決まっているじゃ無いか?
娘を気遣ってもバチは当たらないはず。
だが、肝心な母でさえ、その事に一切触れようともせず気遣ってもくれなかった。
世間体を異様に気にする両親は見て見ぬふりを貫いたのだ。

「どうかしたの?」
「何かあったの?」
「お母さんに話してごらん」

期待していた言葉は、全く無かった。
何も聞いてくれなかった。

ー何故か?ー
「恐れたからだ」
ー何を?ー
「世間体」
「息子の将来?」

 真実を知る事に耐えれなかったからだ。
万が一、自分達の息子と娘が近親相姦を現実にしでかしたと知ったら彼らはこの島を出るだろう。
将来、兄を何が何でも町長にしたい両親の痛いけな想いを察し、悦子は悔しさや無念さを両手の拳で何度も握り潰した。
しかし、幾ら握り潰したところで小砂利は指の隙間から溢れた。
その砂粒は悦子の肺や気管に散らばって、通常の吸入すべき酸素量を徐々に低下させていった。

「もう、この辺で死んだ方が楽かな?」

 死に場所を探しに河原に行った。
そこそこ大きな石でも僅かだが流されていく。
その情景に心を奪われた。
何日も、何日も、同じ場所に行き、同じ石を観察した。
流され方や転がり方に興味を抱いた。
流れに逆らわず下流を目指す石。
右にソレたり、左にズレたりして、何らかの自然法則に従って動くその石には、きっと意識なんてモノはあるはずもない。
だが、疑念を抱いた。
ほんとに無いのだろうか?

 時たま、予想外の流され方を見せる石。
何故?
そう、まるで何かを突然、思いついたみたいに動きを変える。
悦子はその石の様に生きたくなった。
死ぬことなんかどうだって良くなった。

 時間とは不思議なもんだ。
歳月が経てば、河原で踏ん反りかえっている巨大な岩でさえ、まん丸な石ころに変わってしまう。

 両親の前では、極力明るく振る舞った。
太陽の直射日光をズンズン浴び、澄み切った川の水に流されていく石コロになりきった。
兄とも少しずつ喋り始めた。
あの海水浴以来、幸いにも兄は悦子を襲うことはなかった。
大学二年になった兄に初めての彼女が出来、1度謝ってきた事があった。
その時、悦子は兄に聞いた。

「何故、私を求めるのを止めたの?」

兄は下を向いて呟いた。

「良くない事だと思ったからだよ」

私はハッキリ断言した。

「あの日の事は忘れるわ」
「気にしないで」

 兄は苦笑した。
男尊女卑の翳りが、その笑い方に薄らと現れていた。
この家に脈々と蔓延る身分制のしきたりに、ずっと守られてきた兄は、あの時の様にいじらしく下を向くことは無かった。
高校3年の頃の兄の方が、まだマトモだった。
悦子は、その日の夜、スタイルだけは抜群だが顔はかなり不細工な彼女さんと兄とのセックスを餌に自慰行為をしてみた。
翌日は、兄の口を覆い手足を縛り騎乗位で私が犯している想像をした。
兄には射精を絶対させなかった。
イキそうになったらすぐ抜いてやった。
何度も何度も焦らしてやった。
かなり興奮したのを覚えている。
しかし、そんな畜生と変わらないお下劣な行為をする自分がそら恐ろしくなって、実の兄を餌にしたオナニーはその晩を最後にして止めた。

 中学生の時、友人とふざけてマニュキュアを手の指に塗って以来、十数年ぶりに薄桃色のマニュキュアを足の指に塗ってみた。

主人は決して気づかないだろう。
否、気付いても言わないだろう。

 暗闇にほんのり灯る小さな明かりの中で慎ましげに営む20分ほどのまぐわりでは、彼女の足に塗られた少しだけ薄い桃色の爪など目に入るわけがない。
目に入ったとしても妻の足の爪が尖り金色にでもならない限り興味等持たないだろう。

 市場でよく買い物をする餅屋があった。
仲の良い夫婦2人が30数年賄ってきている。
変わらぬ餡子の味を守り続け、盆、正月代休も碌(ろく)に取らず真面目に営業している店だ。

 私より18歳上の、その餅屋の大将が、今時、珍しく鉛筆で携帯番号を書いたレシートをあん餅3個と一緒に、額から噴き出る汗を手拭いでこまめにツンツン拭きながら手渡してくれた。
実直そうな餅屋の大将をその気にする為、巧妙に仕掛けた罠に早速喰らいついたのだ。
人の良さげな素朴な餅屋の大将が、その仕掛けに嵌るまで3週間とかからなかった。

 お釣りを受け取る時、さりげなく大将の手を触り唇を半開きにして見せた。
おカミさんが違う客と接客している時には、大将と少し世間話しをしながらシャツのボタンを一つ外し暑そうに手で仰いだ。
色気を誘う大粒の乳首が薄っすら見えそうな薄手のブラジャーをワザとつけ、透けたブラウスの上に羽織っていたカーディガンを彼の前でさりげなく脱ぐ。
大将は目を見開き、私の胸に釘付けになる。
私の指は、柏餅を指す前に大将のあの部分に、さりげなく指を向けた。

「大将、これ頂戴」

そして、お釣りを貰い、肌色のカーディガンを彼の前でゆっくり羽織るのだ。

 私より多少背は低いが、肩幅があり筋肉質な大将と毎週一回だけ密会を重ねた。
隣町にある寂れたホテル近くに、自動車教習所の看板が取り付けられた電信柱がある。
その脇にある薄暗い路地で、ロングのかつらを被りサングラスをして餅屋の大将と待ち合わせをした。
1時間たっぷり、彼は私を下にしたまま可愛がってくれた。
男の泣きそうで苦しそうな顔。
何かやりのこしたのか?
チョッピリ悔しげな顔に悦子は萌えた。
生まれて初めて、目元や唇に男の汗がポタポタ落ちてきた。
待ちに待った経験だった。
やけに感動した。
その塩っぱい汗を舌を出し舐めて見た。
餅屋で売られている大福餅の甘さとは真逆の塩っぱさだったが、悦子にとって切なすぎる程、それは甘美なものだった。

 優しい餅屋の大将は腰を激しく打ち付けることを一旦止めて、慌ててタオルを手に取り悦子の顔に垂れた自分の汗を優しく拭いてくれた。
汗でビショビショになった自分の顔も頭髪も急いで拭い取った。

 約一年その関係が続いた。
肌が異様に合った2人の欲望は日を増すごとに高まった。
オーラルセックスも生まれて初めて体験した。
立ったままの姿勢でもやった。
私は何度もオーガニズムを迎え、身体全体の痙攣が止まらない程、悦に浸った。
大将の切なる願いも叶った。
アナルセックスの再度の要求に悦子は首を縦に振ったのだ。
お互い、初めての行為に興奮し過ぎてシーツを汚してしまった。
その時、悦子は人間とは思えぬ声で絶頂を迎えた。

 市場に行くと餅屋に必ず立ち寄った。
前歯2本がチグハグで威勢の良いおカミさんは、悦子に対して疑惑など全く無いみたいだった。
いつもの掛け声と愛想はあいも変わらずだった。
大将も以前と変わらぬふりをして、愛嬌を振り撒いていた。
笑顔であん餅や豆餅を包んでくれる。
プッと吹きそうになるが、我慢した。

「いつもありがとうございます」とおカミさんは麗句を言い、買った商品を優しく手渡しして下さる。
時には、私の色気と美しさを褒め称えながら手を添えてお釣りを渡してくれたりする。
貴女の旦那が、どんなに凄いセックスが出来るのか?
挿入から射精するまでの過程を生々しく撮影した動画を見せつけてやりたい衝動にいつも駆られた。

 餅屋のおカミさんは、ある時から、きっと自分が女だと言うことを忘れているのだろう。
薄汚い肌にくっきり刻まれた皺、シワ、しわ。
紫がかった歯茎は無様に剥き出しになり、笑うたびにその卑猥な粘膜を人様に曝け出さなくてはならない。

 死んでもそんな女性になりたく無かった。

 その餅屋のおカミさんみたいに、おじさん化しつつある女性の姿を見ると無性にイライラして性悪な女になってしまう。
怖いのだー
そんなに醜くなっても、夫から捨てられることもなく、妻の座を守っている女達が怖かった。
そんな女達にあって、自分には無いものを強制的に見せつけられているようで我慢出来なかった。
悦子が唯一、おカミさんに勝てる武器はただ一つ。活きの良い鮑のように伸縮するアソコだけだった。
おカミさんの顔に刻み込まれたシワや、口腔内にある剥き出しの歯茎が堂々と、その事をもの語っていた。

あの人達にあって、自分に無いものは理解した。
しかし、あの人達に無くて自分にあるもので勝負はできる。

 大将と会える日が待ち通しくて、アソコがピクピク跳ねた。
ハマグリの殻長(かくちょう)ほどある淫部は粘り気のある透明な糸を放った。

 その日から3日目の事だった。
とんでもない事が起きてしまった。
心優しい穏やかな餅屋の大将が死んだのだ。
急激に冷え込んだ日だった。
いつものように、夕食前に風呂に入ったらしいが、そのまま帰らぬ人となった。
健康診断で引っかかった事もない心機能。
まさかの心臓発作で呆気なく逝ってしまったのだ。

 大将と会う為、新しく買った口紅を塗り、首元に狐の毛皮が付いたコートを着て電車を待っていた。
すると、向こうから顔見知りの女性が喪服の様なものを着て、こちらに向かって歩いてきているのが見えた。
なんと、餅屋のおカミさんだった。

「嘘でしょ?」

まだ店が開いてる時間帯だった。

「何故?」

 悦子を見つけるや否や、足早に駆け寄って来て真正面に立ちはだかった。
加齢による眼瞼下垂の重たそうな目を、力一杯見開いて意味不明の事を告げた。
結びつきそうに無い三つのワードだけが、頭を軸に月や地球のようにグルグル回って軌道を保っていた。
ー風呂 大将 心臓発作ー

「うっ」

 思わず手に持っていたバックを落としてしまった。
暫く、拾うことも忘れた。
立ちすくむ悦子の代わりにおカミさんはバックを拾い、埃を手で払ってくれていた。
ありがとうございますの言葉さえ発せなかった。

 待ち合わせの時間と大将からのラインが気になり、渡されたバックから携帯を急いで手に取った。
密会の時間は、あと15分後だった。
ラインは誰からも入って無かった。

「風呂?」
「心臓発作?」

 向かう駅は二人違ったが、項垂れたおカミさんと一緒に釈然としないまま電車に乗り込んだ。
何も聞きたく無かった。
この女は、もしかしたら、私と旦那との浮気を知って気が触れてしまったのかも知れないと勘ぐった。
穏便に会話をしなくてはー

「何処へ行かれるのですか?」悦子は控えめに聞いてみた。
「司法書士の先生に相談があって」
おカミさんのか細い声は、車両同士を繋ぐ接続部の擦れる音に掻き消されて、はっきり聞き取れなかった。
「あっ、そうなんですか」
悦子は適当に相槌を打った。
次の駅に着きドアが軋みながら開いた。
おカミさんに慌てて一礼をし電車から降りた。

ー気色が悪かったー

胃液が喉元までせり上がってきた。

「私達の仲を知って、おカミさんは意地悪をしたんだわ」
「怖がらそうとしただけ」
「大将は私を絶対待ってる」
「そうよ」
「あんなに元気だった人が死ぬ?」
「そんな馬鹿なことあるわけない」

 いつものように、いつもの場所に行ってカツラを被りサングラスをした。
白い息を指先に吐きながら大将を待った。
10分、20分経ったが、まだ来なかった。
今まで遅れたことなどなかった。
携帯のラインにも、通知は全くなかった。

「日にちを間違えたのかしら?」
「今日じゃ無かったかも知れないわ」

 1時間待った。
足元が冷えて感覚がなくなりつつあった。
結局、大将は来なかった。
息は白くなくなった。
頭は真っ白だ。
唇が小刻みに震えて止まらなかった。
悦子は知らぬ間に見知らぬ道を歩いていた。
喫茶店に入り、熱いホットミルクを頼んだ。
ようやく血流が全身を巡り始めた。
今日、起きた出来事を冷静に反芻してみた。
しかし、記憶にあるのは餅屋のおカミさんの黒ずんだ唇だけしか思い出せない。
何かを悲しげに話していたのだが。

 帰りの電車の中でやっとあの人が亡くなった事に気づいた。
寒さとは違う悪寒に全身が襲われた。
しかし、不思議と悲しみは湧かなかった。
不倫相手の妻から告げられたからだろうか?
それも密会の約束をしている時間間際に偶然会って
「亭主は亡くなりました」と告げられたからだろうか?
泣いてはいけない気がした。
泣く権利は無いとも感じた。

「アンタなんか、私の亭主のペニスだけが狙いだったんでしょ?」
「ただのメス豚じゃないの?」

 ホームで交わした会話の中で、電車が通過した際、聞き取りにくかった言葉があった。
あの時、おカミさんが発した言霊は、きっと呪文だったに違いない。

ー生霊は流石に怖いー

忘れよう。
忘れるしかない。

 駅からの帰り道、我が寺の山門にある重厚な屋根瓦が見え始める場所がある。
その地点から参道となっていて、道の片方側に手すりが設けられている。

「あっ」

 そのなだらかな登り道を東へ少しだけ曲がった所で、悦子は立ち止まった。
車庫の横手に小さなミラーが取り付けてあった。
そこに映った女の唇は品の無い紅によって淫靡さを漂わせ、年季の入った淫バイ女の商売道具である襞(ひだ)を連想させた。
まさにメス豚の様だった。
悦子は慌ててハンカチを探し出し、唇を何度も拭(ぬぐ)った。
家に急いで帰り、買ったばかりの口紅をバックから取り出し、朱に滲んだハンカチと一緒に台所にあるゴミ袋の底に捨てた。

 暫くアイロン部屋での自慰をして無かったが、又、悦子の唯一の楽しみに変わった。
主人と私の臍の緒が、一年ぶりに復活した。
主人は相変わらずポーカーフェイスを貫き、日常の暮らしは以前と変わらなかった。

「あっ」
「そうだ!」
「そう言えば、大将と付き合っていた時、可笑しなことが一回あった」

 初めて、満月じゃない日に主人が求めてきた事があったのだ。
私が自慰行為をしなくなって、2か月くらい経った頃だ。
覗きが出来なくて、欲求不満にでも陥ったのだろうか。
その時の主人は、確かにしつこかった。
滅多にしないバックからの性行為も求めてきた。
しかし、その異常な行動は一回限りだった。
多分、あの覗き行為を気づかれたくなかったからだ。
迷信かも知れないが、いつもと変わったことをしたら、バレなくて良い秘密が露見し易い。
小心者で用心深い主人が、凡(おおよ)そ考えそうな事だと思った。

 そんな主人は痔の痛みと、未だに格闘していた。夜の営みは、相変わらず騎乗位のままだった。
正常位から比べたら女側の体力をかなり消耗することが分かった。
餅屋の大将との激しいセックスと比べても、主人とのたった20分程度の騎乗位の方が疲労度は断然大きかった。
肉はあまり好きで無かったが、満月の前になると豚肉、鶏肉、牛肉いずれかを極力食べた。

 餅屋の大将の死から半年ほどたったある日、とうとう我慢強い主人が根を上げた。
お経を上げる事さえ出来ない痛みに襲われてしまったのだ。
それと、機を同じくして主人の耳に朗報が舞い込んできた。
主人より3歳若い同業の友人が、痔の手術のおかげで二時間以上の座禅も難なく熟(こなせ)るくらいまで回復したと言う話を聞き、やっとメスを受け入れる気持ちになったのだ。
1週間入院すれば驚く程、良くなると言う。
昔から信頼していた友人の説明を受け、やや遠方だったが、その名医に委ねる決心がついたのだ。
手術は成功した。
一週間の入院を終え帰宅した主人が、ダイニングテーブルにある椅子に円座を外して座った時、長いこと会っていなかった60過ぎの叔父さんを招いて会食をしている感覚を覚えた。
主人らしき男性は、よく喋った。
よっぽどい嬉しかったのだろう。
いぼ痔は、日に日に良くなった。
笑う顔など、今まで滅多に見なかったが、最近は黄ばんだ歯を恥ずかしげも無く見せて、豪快に笑う事が多くなった。

 長年、痔を庇う為に腰が悪くなっていたせいか、腰痛も随分マシになった。
毎朝早くに起きて30分はウォーキングで汗を流し、1週間に2回はジムにも通い始めた。
牡蠣エキスや男に差が出る亜鉛などと名打った精力のつくサプリも飲み始めた。

 悦子を求める日も満月でなくなった。
月に一回が10日に一回になり、騎乗位よりも正常位を好む様になった。

「信じられない」
「同じ男性とは思えなかった」
「以前、あれだけこだわっていた満月の夜の儀式は何だったのか?」

悦子は首を捻った。

「まぁ、人も世の常も変化はつきもの」
「悩むべき問題では無い」

小さなため息をついて、ほとん四角形になっている円座を押入れの奥に片付けた。

 パジャマの上着も脱ぎ裸になった。
眉間に皺を寄せ、無言で悦子を見下ろした。
汗玉をボタボタ、顔に限らず乳豆にまで垂らした。
娘が2歳の時、買ってやった小さな傘が私にも必要だと感じた。
全身汗だくになる程の持久力や盛り上がった筋肉を1か月もすると主人は自慢し始めた。
騎乗位から正常位になって、主人の顎と首の間に小さなホクロが並んで2ツある事を7年目にして初めて知った。
そのペアホクロに偉く感動はしたが、主人がほとばしる汗を流そうが、歯を食いしばりエラを張って頑張る姿を見ても、感動も快感も何故だか湧かなかった。

「何かが違ったのだ」
「そう、欲望だ」
「心から相手を欲する気持ちが違った」

 主人とのセックスは、まるで軟禁され犯されている気がした。
兄の様に無理やり犯すだけがレイプとは限らない。
痔を手術する前までのセックスの方が余程癒された。
悦子にとってある意味、ソレは聖なるものだったからだ。
夫婦という形式に則った、月一度しかない満月の夜の厳粛な儀式だった。
しかし、今や、ソレは聖域から遠く離れてしまった。
売れ筋の悪いアダルトビデオ並みの粗暴なものへと劣化の一途を辿っている。
主人にとって、悦子は都合の良いダッチワイフそのものになった。
そこには、白い聖なる血液と呼べるものは見当たらなかった。
野蛮さとエゴが混じった白濁した排泄物だけが、腐敗臭を漂わせていた。
ハニカム構造の様な六角形の穴が、悦子の女体(にょたい)の彼方此方にこじ開けられ、その何百と出来た穴に蜂の卵が次々と産み付けられているようでもあった。

ー性奴隷?ー
ーダッチワイフ?ー
ーどっちだろうと、あまり変わらないー

 唯一、夫婦間で本物のセックスと呼べる行為は、あの衣装部屋の穴から覗き込んでオナる主人と、アイロン部屋で息を殺し主人が観ている事を知っていながら自慰行為をしてきた時間だと感じた。
あの行為以上に互いを尊重し、労り合ったことはない。
そこには、何がしかの絆が少なくともあったからだ。

 主人は、八十八ヶ所参拝の先達さんとして出かけていて、明日の夜にならないと家には帰らない。
蒸し暑い夜だ。
頭が朦朧とする。
狭苦しいアイロン部屋でクーラーもかけず、二回目の自慰にふけった後、テーブルの上に昨日飲んだ牛乳瓶が置いてある事に気がついた。
   
  ーその中に、1匹の大きな蝿がいたー

 牛乳瓶の底に出来たチーズの様な塊に消化液を吐き、ドロドロに溶かしてはストロー状の管を突き刺し吸い上げていた。
黒い斑点の如く微動だにしなかった。
お尻には産卵管がない。
つまり、この蝿は雄だ。
雄の蝿だと分かった段階で、悦子は見方を180度変えた。
まるで膨張し切った男根がメス蝿の膣深くに入り込んだまま、生暖かな粘膜に包まれ陶酔し切っている様に見ようによっては、見えなくもなかった。
悦子の存在など、その蝿の眼中には全く無かった。
蝿に無視されたままだった。
その時だった。
子宮が、ピクッと疼いたのだ。


「ちっ!」
「胸糞が悪かった」
「ムカデや蜘蛛と並行して薄気味悪い節足動物の蝿ごときに魅了される自分を恥じた」

 舌打ちを二度した。
発作的に、横にあった牛乳瓶の蓋を手に取って、そっと閉めてやった。

「バーカ」

 その雄蝿は、自分が閉じ込められた事にまだ気づいていない。
牛乳瓶の中で食事を終えた蝿は、手や脚に付着した雑菌やタンパク質を落とす為に忙しなく動き始めた。
蝿特有の刺々しい毛に全身が覆われている。
醜く、おぞましい。
しかし、その雄蝿は己の姿形を跳ね飛ばす程の強い色気を発散させていた。

つい、口を半開きにして凝視した。

 人間の女を、生意気にもその気にさせる蝿を憎らしくも愛おしく思い「ふっ」と笑みを垂らした。
今まで、この強烈な色気に惑わされ交尾を受け入れてきたメス達を妬んだ。
2度とメスの蝿と交尾など出来ないように、この牛乳瓶の中に永遠に閉じ込めたくなった。

その逞しい生殖能力を彷彿とさせる威風堂々とした立ち居振る舞いに嫉妬を覚えたのだ。

「そんな性力なんか泡と消え失せてしまえ!」

 罵倒した。
忌み嫌われ、醜く鬱陶しい奴、叩き潰されて当然の害虫「アンタは、ただの蝿なんだよ」と言う現実に是が非でも気づかせたかった。

ガラス瓶を持ち上げ、中にいる蝿の目線に目を合わせた。

 4年ほど前の見合いの席で、ラクダが居眠りした様な顔の主人を見て、笑いを我慢するのに苦労した日を思い出した。
トキメキなど感じるはずも無かった。
将来、好きになる事などきっと無いだろうと判って結婚をした。

「何故?」

 その方が腹が立たないからだ。
喧嘩もする必要なんかない。
好きじゃないからだ。
それが一番の理由だった。
それと、一つだけ気に入ったところがあったからだ。
主人の美しい指を気に入ったのだ。

 人差し指、中指が理想の形で太さも長さも申し分なかった。
その指でイカして欲しかったのだ。
しかし、主人は指を使うのを拒んだ。
何度かしてくれたが「手が疲れる」と言ってしなくなった。

「まっ いいか!」
「大して上手くもなかったので、してもしなくてもどうだって良かった」
主人の指を見るのは今でも嫌いじゃあなかったが、残念ながら、それ以外に数ミリの魅力も、数グラムの感激すら見当たらなかった。

 今頃になって、筋トレの延長としか思えない正常位プレイを自慢げに見せつけられ、ブァギナを突き上げる回数をカウントして悦に浸っている主人。
私を、単なるスポーツマシーンの一部としてしか扱っていないセックスに吐き気を催す。

オスとしての主人と、牛乳瓶の中にいる雄の蝿を比較し、再度、ゆっくり観察してみる。

「あー」
「やはりそうなんだ」
ある重大な事に気づいた。

 主人が放つ僅かながらのフェロモンより、この若い雄の蝿から滲みでる色気の方が圧倒的に強かった。
蝿が勝ち誇っていた。
その現実に彼女は憤(いきどお)った。
屈辱だった。
惨めだった。
主人は陰茎白飯症だ。
ペニスの一部が真っ白くなっいる。
そのまだらに白い部分に蝿の卵を産み付けられ、蛆虫が一斉に孵化したかのように感じ寒気を催した。
舐められるにも程があった。
悔しかった。
唇が微かに震えた。


 透明なガラス瓶の中の蝿は、やっと悦子の存在に気付いた様子だ。
その厭らしい蝿は慌て始めた。
羽をばたつかせている。

「複眼の目2つと頭頂に1つの目を持つ蝿の広い視野は、まるで三面鏡の様にこの世界を捉えているのだろうか?」だとしたら、なんだかワクワクし嬉しくなった。
牛乳瓶を持ち上げ、蝿の二つの複眼に目一杯顔を近づけてみた。

「この生き物も憎しみや嫉妬や恐怖、不安と言う概念を抱くのだろうか?」
「出来るなら抱いて欲しかった」

 そして、その蝿を痛ぶるよう3回軽く揺さぶってみた。
最初は、ゆっくり優しく。
すると、その揺さぶられている蝿が主人のイボ痔に見えてきた。
にわかに腹が立って来て、その瓶の中に居る大きな蝿を失神させたくなった。
髪を振り乱し、力の限り揺さぶる。

 蝿は、最初、羽を必死で羽ばたかせたが数十秒もしないうちに気を失ったみたいだ。
ピクリとも動かなくなった。
もしかしたら死んだのかもしれない。
主人が手術をして取り除いたと言う、黒ずんだいぼ痔をやはり連想してしまう。

 悦子は笑った。
腹の底から声を出して笑った。
こんなに笑った事は、兄に犯されて以来なかった。

蝿に感謝した。

 涙が出るほど笑かせてくれたのは、7年近く同じ屋根の下で暮らしてきた主人でもなく、一年弱ラブホテルだけで密会を重ねた心優しい餅屋の大将でも無かった。

ーこのがたいの良い単なる雄の蝿だったのだー


悦子は躊躇無く、気を失った蝿の羽を摘みカラカラに乾いた口に投げ入れた。

そして、台所に行き水を思いっきり飲んだ。

 次の日の朝、悦子はいつもより15分遅めに目覚めた。
目覚まし時計をオンにしていなかった。

「昨夜の出来事を覚えていた」
「夢を見たのだろうか?」

 アイロン部屋に行き、脚の短い小さなテーブルの上に何喰わぬ顔で佇む空の牛乳瓶を見つけた。
紙の蓋が畳に落ちていた。

その空の牛乳瓶には、蠅など居なかった。

「飛んで逃げたのだろうか?」
「やはり夢だったのか?」

頭をひねったが、いくら考えでも明確に思い出せなかった。

ーもう、どうでも良かったー

 娘を起こし、髪を三つ編みに結い、朝食の支度をしなければならない。
いつもより気合いの入った早朝のお勤めが始まっていた。

「えっ?」
「今日の夜に帰るはずじゃあ無かったのでは?」
「昨日の夜の記憶が飛んでしまっていた」
「やだわ!」
「主人に言ったりしたら、ボケたと思われちゃう」
「知らん顔が一番」
「くわばら くわばら」

 甲高い声が、御堂に響き渡り耳の奥の鼓膜を揺らす。
右耳が異様に痒くなった。
右耳を小指で掻いた。
粘った耳カスが小指にべったりと付いたので、石鹸で三度も洗った。

 今朝は、娘と牛乳抜きの朝食を済ませが主人の朝食には毎朝届く新鮮な牛乳瓶を置いた。
飲むはずだった2本の牛乳はシンクに捨て流水で洗った。
可愛い一粒種の我が子の髪を三つ編みに結い、うさぎの顔が付いたゴムで先っぽを締め上げた。

「ママァ〜」
「今朝は、牛乳が無かったね?」
「パパァ〜、何で今日は牛乳飲まないの?」

主人は慌てて、牛乳を飲み始めた。

「美知子、牛乳飲みたいなぁ」
「だって、友達の沙羅ちゃんより背が高くなりたいんだもの」と、朝食が済んで、鏡に映っている可愛いウサチャンを撫で撫でしながら、小さな唇をとんがらせてお喋りをしている。

「美知子、パパの牛乳飲むか?」

 主人が飲みかけの牛乳を娘に差し出した。
その牛乳に、娘が指を這わせ様とした。
悦子は、咄嗟に娘の手を取って急いで玄関に向かった。

 今朝は急がなくてはならない。
美知子が大好きな海やお船が見える道を通っていたら間に合いそうになかった。
電車が行き交い、車がビュンビュン走る騒がしい県道沿いの歩道を少し早めに歩いて幼稚園を目指すことにした。
脇目も振らず、早足で美知子の手を握り歩いていたら、娘が通っている英語教室で何度か見た事のある40歳半ばの男性とすれ違った。
互いに挨拶を交わした。

 彼は1年前に妻と別居し3歳の男の子を引き取りこの近くの実家に引っ越して来たらしい。
私の胸や足を、申し訳なさげに見つめる眼差しは、まんざらでも無く悪い気はしなかった。

「もしかしたら?」

彼だったら、私を涙が出るほど笑かせてくれるだろうか?

悦子はふと思いついた。

        ーそうだ!ー

     新色の口紅を買いに行こう

 明日から少し化粧を派手めにして、青く煌めく海も、優雅な船も、美しいアーチ状の橋も見えない喧騒慌たゞしいこの道を、ゆっくり物欲しげに歩くことにしよう。

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