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夏の夕立 

私は、真夏の夕立が好きだ。
3Zに象(かたど)った稲びかり、雷鳴を伴う激しい夕立が、大好きだ。

 蝉達は一斉に鳴き止み、山は、彼らの沈黙を静観する。
秋祭りに備え、和太鼓の練習に精を出す若者達の飛び散る汗をバチが弾けさせ、その気高い音が体育館に高らかに響き渡る。
半端ない熱量を放出する大太鼓の音さえ、誰の耳にも届かなくさせてしまう呪文塗れの "魔法の雨"

 街の喧騒も、工場の軋む機械音も、喧嘩しあう恋愛中の男女のとんがった声も丸ごと飲み込んでしまう夏の夕立が私は好きだ。
真っ黒なアスファルトの道路を一瞬で白く煙らせる夕立。

 肌色と薄い墨色の2本のベルベット。
その2本が絡まってリボンを作っていた。
そのリボンの気怠い結びかたが気になった。

「そう!」

 まるで、貴方がソファで寛いで両手を伸ばし欠伸をしているその姿そっくりに見えたのだ。
嬉しかった。
懐かしかった。
その帽子に結ばれたリボンに「貴方〜」と声をかけそうになった。
だから、つい買ってしまった夏用の帽子。

 それと、先日、思い切って買ったワンピースがあった。
三ヶ月間、お小遣いを貯めて、先日手に入れたばかりだった。
貴方が大好きだった若草色のワンピース。
絶対、貴方が気にいるワンピース。
私は急いで、それを着てその帽子を被り、激しい雷雨の中に飛び出した。

 昨年、8月19日午後3時55分から、貴方は私の前から居なくなった。
この馴染み深い街の隅々を野良猫の様に歩き回って探したけど、貴方は見つからなかった。

「あっ!」
「アソコなら居るかもしれない」

 貴方のお気に入りの洋食屋に行ってみた。
いつも座っていた一箇所だけタバコで焼けたシミがある赤い皮の椅子、そこに腰掛けタンシチューをフォークに突き刺し旨そうに頬張る貴方を思い出す。
我が家の廊下で、すれ違う事も無い。
2階にある貴方の隠れ部屋、書斎だと言い張って苦笑いしていた。
その扉をノックし、貴方の名前を3回呼んでみる。
貴方からの返事は1回たりとも返って来なかった。
貴方と私しか知らない溢れんばかりの35年もの記憶だけ残して、貴方は逝ってしまった。

 あれから、一年。
この神戸の、懐かしき山本通りに夕立が降っている。
今日は、8月19日、今、まさに3時55分。
あの日と同じ凄まじい雷雨だ。

 偶然にしては奇跡の様な時間だった。
あの日、主人が最後に伝えたかった言葉。
どうしても、聞きたかった言葉。
力の限り振り絞って口を開いてくれた。
私だけを見つめて貴方は、微かな声を出してくれた。
なのに、激しさを増した雨と雷鳴が重なり、全く聞き取る事が出来なかった。

「情けなかった」
「何が言いたかったんだろう?」

 呆然とした。
この時以来、夕立や激しい雷雨を大嫌いになってしまった。
心から憎んだ。
あの日から、その聞き取れなかった主人の最後の言葉を探し回った。
貴方が読んだはずの書籍棚にある本を暇さえあれば捲ったり、私とのラインのやり取りを見直しては、ため息を何度もついた。

 今日は8月19日。
貴方を探し始めて、丸一年。
奇跡が起きたのだ。
貴方が最後に私に伝えたかった言葉をやっと聞く事が出来た。

 いつも一緒に散歩していた道で、貴方の声がした。
凄い雨で、1メートル先さえ真っ白で何にも見えなかったけど、確かに貴方の声だった。
あの時と同じ激しい雨や雷だ。
午後3時55分
雷が止み、一瞬、私達だけを雨が避けた。

 誰1人、歩いて居ない道。
東に見える、山のてっぺんにある空が急速に青空に変わっていく。
蝉の声が、遠くから聞こえてきた。
激しく滝のように流れる大粒の雨は、途切れ途切れになって10Hの鉛筆で描かれた薄い線の様な雨に変わった。

 若草色のワンピースと気怠いリボンが結ばれた麦わら帽子はびしょ濡れだ。
貴方がプロポーズしてくれた時、照れながら差し出したプラチナの指輪に頬ずりをした。

「生まれ変わっても、君を必ず見つけるよ」

貴方の最後の言葉。
一年ぶりに返事を言えた。

「ありがとう」
「貴方」
「私も必ず、貴方を探す」

 胸を張り、陽が射す東の方角を目指し、小雨の中、私は歩いていく。

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