『小説』Parisのロックダウン
1/20/2025
2、セーヌ川沿いの散歩と過去の記憶
ポン・デザール(芸術橋)に差し掛かると、彼は足を止めた。かつて恋人たちが永遠の愛を誓い、南京錠をかけたこの橋は、今ではその重みに耐えかねて、南京錠は撤去されている。橋の欄干に残る無数の傷跡が、かつての賑わいを物語っている。しかし、橋から見える景色は、昔と変わらず美しい。ルーブル美術館のピラミッド、オルセー美術館の重厚な建物、そしてセーヌ川を行き交う遊覧船。しかし、その景色はどこか寂しげだった。かつては観光客で賑わい、写真撮影をする人々で溢れていたこの場所も、今は閑散としている。セーヌ川の流れも、どこか淀んでいるように見えた。
大学時代、この橋で佐々木葵と出会った。彼女は日本の大学から交換留学でパリに来ていた。図書館からの帰り道、夕暮れ時のポン・デザールを歩いていると、彼女は橋の上でスケッチをしていた。リュックサックから取り出したスケッチブックに、鉛筆を走らせる彼女の横顔に、彼は目を奪われた。夕日に照らされた彼女の横顔は、まるで絵画のように美しかった。
勇気を振り絞って声をかけると、彼女は驚いたように顔を上げた。大きな瞳が、少しだけ戸惑いを含んで彼を見つめていた。「すみません、邪魔をしてしまいましたか?」と彼は尋ねると、彼女は優しく微笑み返してくれた。「いいえ、大丈夫です。夕日が綺麗だったので、スケッチをしていたんです。」その笑顔は、まるで春の陽だまりのようだった。
その後、二人はよくこの橋で待ち合わせをした。夕暮れ時、セーヌ川に沈む夕日を眺めながら、他愛のない話をした。葵は日本の文化や歴史に詳しく、彼は彼女から多くのことを教わった。彼女の優しさ、芯の強さ、そして何よりも、彼を理解しようとしてくれる姿勢に、彼は惹かれていった。葵といる時間は、彼にとってかけがえのないものだった。彼女といると、心が安らぎ、日々の疲れを忘れられた。
しかし、2020年の春、世界は一変した。新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るい、パリにもロックダウンが発令されたのだ。何万人もの観光客が押し寄せていたパリの街は、嘘のように静まり返った。シャンゼリゼ通りも、モンテーニュ通りも、人影はまばらになり、まるでゴーストタウンのようだった。普段は観光客でごった返すルーブル美術館の前も、静まり返り、異様な光景だった。
当初、人々はこの状況を一時的なものだと考えていた。「過ぎ去れば、また元の生活に戻れるだろう」と楽観視していた。カフェのテラスで談笑する人々、公園でピクニックを楽しむ家族、美術館の前で記念撮影をする観光客。そんな日常が、すぐに戻ってくると信じていた。しかし、現実は違った。ロックダウンは延長され、感染者数は増え続け、人々の不安は日に日に増していった。街の雰囲気は日に日に重苦しくなっていった。
カフェ「ル・ショコラ・ブルー」も例外ではなかった。観光客を主な顧客としていたカフェは、ロックダウンによって完全に休業せざるを得なくなった。姉のマリーとソフィー、そして両親は、店の将来を案じ、不安な日々を送っていた。特に、父は長年かけて築き上げてきた店がこのような状況に陥ったことを深く嘆いていた。マリーは毎日のように政府の支援策について調べ、ソフィーはテイクアウトメニューの開発に奔走していた。
マークも、モデルの仕事が激減し、収入が途絶えてしまったため、生活費を稼ぐために様々なアルバイトを探さなければならなかった。デリバリーの仕事、倉庫での仕分け作業、そして、知り合いのレストランでのウェイター。日々の生活は、以前とは全く違うものになっていた。
ロックダウン中、マークと葵は会えなくなった。外出は必要最低限の買い物に限られ、人々は家に閉じこもることを余儀なくされた。電話やビデオ通話で連絡を取り合っていたが、直接会って話すことは難しくなった。画面越しに見る葵の笑顔は、どこか寂しげに見えた。二人の会話は、日々の出来事やニュースの話題が中心になり、以前のように心の内を深く語り合うことは少なくなった。
ロックダウンが解除された後も、パリの街は以前のようには戻らなかった。観光客は以前ほど戻らず、カフェの経営は依然として厳しい状況が続いた。人々はマスクを着用し、ソーシャルディスタンスを保ち、以前のように気軽に外出することをためらうようになった。街の雰囲気は一変し、どこか緊張感が漂っていた。かつては活気に満ち溢れていたカフェのテラスも、閑散としていることが多くなった。
マークと葵も、以前のように頻繁に会うことはなくなった。会う回数は減り、会話の内容も以前とは違ってきた。将来のこと、仕事のこと、そして、互いの不安。二人の間には、目に見えない壁ができてしまった。以前はどんなことでも話せたのに、いつの間にか、互いの気持ちを素直に伝えられなくなっていた。
そして、ある日、カフェ・ド・フロールで、彼女から別れを告げられた。彼女の言葉は静かだったが、その瞳には強い意志が宿っていた。「もう、前みたいには戻れないと思う。」彼女はそう言った。マークは何も言えなかった。ただ、彼女の瞳を見つめることしかできなかった。カフェの外は雨が降っていた。冷たい雨が、二人の別れを象徴しているようだった。
3、スタジオは、グラン・マガザン・ルミエール
メイクアップアーティストによって、軽くメイクが施された後、いよいよ撮影が始まった。スタジオは、グラン・マガザン・ルミエールの最上階に設けられた、天井の高い広々とした空間だった。大きな窓からは、パリの街並みが一望できる。スタジオには、大型のストロボライトが何台も設置され、白い背景紙がセットされている。床には、無反射の黒いシートが敷かれ、足音を吸収している。
カメラマンは、ベテランの女性フォトグラファー、イザベルだった。彼女は、ファッション雑誌や広告で数々の著名人を撮影してきた、業界では名の知れた存在だ。黒いタートルネックに、ジーンズというラフな格好だが、その鋭い眼光は、被写体を的確に捉えるプロのそれだった。
「マーク、準備はいい?今日は、グラン・マガザン・ルミエールのクリスマスカタログの撮影よ。テーマは、『冬のパリのロマンス』。憂いと希望、そして、かすかな微笑み。それらを表現してほしいの。」イザベルは、優しく微笑みながら、マークに指示を与えた。傍らには、アシスタントが数人待機し、彼女の指示を待っている。
最初の撮影は、深紅のベルベットのジャケットを羽織ったマークが、アンティーク調の木製階段の手すりに寄りかかり、遠くを見つめるシーンだった。「もっと遠くを見て。まるで、大切な人を待っているかのように。でも、その瞳には、少しの憂いを残して。」イザベルの声が響く。
マークは、言われた通り、遠くを見つめた。彼の瞳には、どこか憂いを帯びた光が宿っている。それは、家族のこと、そして葵のことを考えているからだった。カフェの経営は依然として厳しく、姉たちの疲れた顔が目に浮かぶ。そして、葵。彼女のいない日々は、まるで色が失われた絵画のようだった。
イザベルは、キヤノンのフラッグシップミラーレス一眼カメラ、EOS R3を構えた。レンズは、RF50mm F1.2L USM。開放F値1.2という驚異的な明るさを持つこのレンズは、被写体を際立たせ、美しいボケ味を生み出す。イザベルは、ファインダーを覗き込み、構図を微調整する。アシスタントが、大型のストロボライトの位置を調整する。
「いいわ、マーク。その表情、とてもいいわ。少しだけ顎を引いて。そう、完璧よ。」イザベルが満足そうに頷く。シャッター音が、スタジオに響き渡る。連写モードで、何枚も写真が撮影される。
次の撮影は、黒のタートルネックに着替えたマークが、カメラをまっすぐに見据えるシーンだった。「今度は、力強い眼差しで。未来を見据える、希望に満ちた表情で。」イザベルの指示が変わる。マークは、深呼吸をして、カメラを見据えた。彼の瞳には、強い意志が宿っている。彼は、家族を支えなければならない。そして、自分の未来を切り開かなければならない。
イザベルは、レンズをRF85mm F1.2L USMに交換した。ポートレート撮影に最適なこのレンズは、被写体の表情をより鮮明に捉える。彼女は、再びファインダーを覗き込み、構図を調整する。
「そう、その眼差し!素晴らしいわ!少しだけ口角を上げて。そう、完璧よ!」イザベルの声が弾む。再び、シャッター音が響く。
撮影は順調に進んでいった。マークは、プロのモデルとして、様々な表情やポーズを完璧にこなしていく。憂いを帯びた瞳で遠くを見つめる表情、力強い眼差しでカメラを見据える表情、そして、かすかな微笑みを浮かべる表情。それぞれの表情は、彼の内面の複雑な感情を反映しているようだった。
撮影の合間、休憩時間になると、スタジオには軽食が用意された。ケータリング業者が運んできたのは、サンドイッチ、サラダ、フルーツ、そして、様々な種類の飲み物だった。スタイリストのソフィーは、次の撮影でマークが着用する衣装の準備をしている。ヘアメイクのクロエは、マークのヘアスタイルを整えている。プロデューサーのジャンは、撮影の進行状況を確認している。
「マーク、お疲れ様。少し休憩しましょう。」イザベルが声をかける。マークは、ソフィーから渡されたガウンを羽織り、休憩スペースへと向かった。
ランチタイムになると、スタジオは賑やかになった。スタッフたちは、思い思いに食事を取りながら、談笑している。マークは、イザベルと向かい合って座り、サンドイッチを口にした。「今日の撮影、順調ね。マーク、あなたの表現力は本当に素晴らしいわ。」イザベルが褒める。
「ありがとうございます。」マークは、控えめに答えた。
「でも、少し心配そうな顔をしているわね。何かあったの?」イザベルが優しく尋ねる。
マークは、少し躊躇した後、家族のカフェのことを話した。イザベルは、真剣な表情で彼の話に耳を傾けた。
ランチタイムが終わると、撮影は再開された。マークは、再びカメラの前に立ち、プロのモデルとして、完璧なパフォーマンスを披露した。しかし、彼の心の中には、常に家族のこと、そして葵のことがあった。笑顔の裏には、深い憂いが隠されていた。
撮影が終わり、マークは疲れを感じながらも、家族のカフェ「ル・ショコラ・ブルー」へ向かうことを考えた。家族に会いたい、そして、少しでも彼らの力になりたい。彼は、そう強く思った。