竜超のおせっかい時評【25】「ポリコレと忖度を要求されるこの複雑怪奇な現代社会で、同性愛はどう扱われるべきか?」(No.428より転載)
本音とタテマエの板挟み! 高校生なのにもう心労状態
現代の中高生は、昭和期に学生生活を送った世代には信じられないほど気苦労の多い印象である。まだ「オコチャマ」と言っていいような年代なのに、「公人レベルのモラルを要求されている」みたいに見えるのだ。
「誰から?」と訊かれると答えに困るが、ひょっとすると最大の要求者は「自分自身」かもしれない。雑誌の人生相談ページに投稿してきた、この匿名希望男子の悩みを聞いていると、そんな気にさせられる。
高校生です。クラスにとても仲の良い男子A君がいます。(中略)しょっちゅう手をつないだり抱き合ったり、俗に言う「イチャイチャ」をしてお互いに楽しい学校生活を送っています。
私たちはお互いに「友だち」という意味でイチャイチャしているのですが、(中略)冷ややかな視線を浴びることもしばしばあります。(中略)A君には彼女がいて、私には好意を寄せている女性がいます。(中略)(何が言いたいかというと私たちは同性愛者ではないのですが、別に同性愛そのものを否定しているわけではありません)。(中略)
私は前述したとおり好きな女性がいて交際に至りたいのですが、なかなかうまくいっていないのが現状です。(中略)A君とイチャイチャしているということも影響しているかもしれないと考えると残念というか、ガッカリした気持ちになります。(東洋経済オンライン 2018年2月26日)
ボクのような「昭和お気楽世代」から見れば、「親友とのイチャイチャが楽しいんだったらそのまま続ければいいし、それが『恋愛の妨げ』になると思うんだったら止めりゃいいだけの話なんじゃないの?」という感じなのだが、そのようなザックリとした回答では昨今のセンシティヴな若者は納得しないようだ。「大正大学心理社会学部准教授」なる肩書きをもった回答者、田中俊之氏はずいぶんと丁寧なアドバイスをしておられる。
現代の日本社会には、男性は同性愛者と誤解されるような言動を慎まなければならないという(暗黙の)ルールがあります。そのため、男同士でイチャイチャ、ベタベタすると同性愛者なのではないかとの疑いをかけられます。ただし、そうした行動をしないからといって、異性愛者であることの証明としては十分ではないので、女性への性的な関心を示したり、同性愛男性への嫌悪を表明したりする必要があるわけです。
中高年の世代と比較して、若い世代では同性愛差別はダメなことだという理解が広がっています。実際、匿名希望くんも、「私たちは同性愛者ではないのですが、別に同性愛そのものを否定しているわけではありません」と書いていました。仲良しのAくんとの関係を「同性愛じゃない!」と強く否定することは、同性愛差別につながると理解できているからこそ、自然にそのような言葉が出てくるのです。
同性愛を「おかしい」とみなしているかのような発言をすれば、きっとクラスメートも匿名希望くんは同性愛者を差別するなんてひどいヤツだなと思うでしょう。好きな女の子にも嫌われてしまう可能性もあります。しかし、その一方で、今の高校生の間でも、異性愛が「普通」であり、同性愛は「おかしい」というルール自体に大幅な変更があったわけではありません。(東洋経済オンライン 2018年2月26日)
昨今もてはやされているポリコレ(=ポリティカルコレクトネス=政治的正論)ってヤツに照らし合わせると、「同性愛にネガティブな感情を抱く」というだけでも「アウト」なのだという。「侮蔑的な言葉や態度をぶつける」とか「心理的・物理的な攻撃を仕掛ける」みたいなのはもちろんイケナイが、しかし「あまり理解できない」「どうしても好きになれない」といった気持ちを抱く程度はべつに構わないのではないか、とボクは思う。誰にだって「あまり理解できないこと」や、「どうしても好きになれないもの」というのは一定数あるはずだからサ。
しかし、マジメ街道一直線な若者たちにとって「他人の在り方を否定的に捉えること」は、たとえ「思うだけ」でも「悪徳」なのだそうだ。彼らに言わせれば、「ありとあらゆる存在に理解を示し、受容すること」こそが「人間としてあるべき姿」なのだという。
そんな状況は「不謹慎大好きおぢさん」であるボクにとっては「ポリコレ地獄」と呼ぶにふさわしいものである。いや、そうした状況を「地獄」と感じているのは、決しておぢさん世代だけではないだろう。ボクとは干支3回りほども違う匿名希望くんもまた「ポリコレ地獄の責め苦に『無自覚状態で』悲鳴をあげている」のである。そうでなきゃ、そもそも人生相談に投稿なんかしてこないはずだ。
匿名希望くんは、「同性愛差別は悪だ」という「ポリコレ」と、「同性愛者と見られては困る」という「危機回避本能」、そこへさらに「でも親友とのイチャイチャは楽しい」という「本音」が加わっての「三つ巴」または「三すくみ」の状態に陥っているわけだが、サテ最初にどこから手をつければいいのだろうか……?
田中氏は、悩める匿名希望くんの「深層部分」にズバッと斬り込む戦法に出た。
匿名希望くんが考えてみる必要があるのは、好きな女子と付き合いたい気持ちとAくんと仲良くしたい気持ちの間に、それほど大きな差があるのかどうかということです。もし、意中の女子がほかの男子とイチャイチャしていたら嫌ですよね。同じように、Aくんが自分以外の男子とイチャイチャしていても悲しくなりませんか。
異性愛/同性愛という区分は、異性愛を「普通」とする社会が要求するもので、実際に他者への好意をそのような基準で明確に隔てることはできません。(東洋経済オンライン 2018年2月26日)
あららら~、一気にここまで言っちゃったよ、このセンセ。でもまぁ、この件はいつかケリをつけなきゃならない、言うなれば「彼の人生における大命題」なのだから仕方ないか。
田中氏は暗に、匿名希望くんの中で大きなウェイトを占めている「同性愛の要素」について指摘しているのである。
「誰かを好きになる感情を『異性愛/同性愛』なんていちいち切り分ける必要、あるの?」
「親友に対する『好き』と、女子に対する『好き』に上下や貴賤をつける必要、あるの?」
こうした問いかけの裏にあるのは、「女の子を好きになってもいい。男の親友を好きになってもいい。女の子と親友、どっちも好きになってもいい。いけないのは、『周囲の目を気にして自分の気持ちを偽ること』なんだよ」といった、「人生の先輩としての助言」なのだと思う。
「同性愛も異性愛も、しょせんは『後づけの理屈』にすぎないのだから、そんなものに人間が振り回されてしまうなんてナンセンス!」
「人間の中には『ありとあらゆる性愛の要素』が備わっているのだから、どんな種類の思慕の念が湧き上がって来たとしても、なんら不思議じゃない」
……というのが、『薔薇族』が提唱しているEiC(=Eros iis Chaos=性愛は混沌なり)という考え方なのだが、田中氏の言ってることは、これと通底している気がする。
自分の感情に正直に歩んだ結果、匿名希望くんは「同性との恋愛に生きる人」になるかもしれないし、「やっぱり女の子のほうがいいや」となるかもしれない。あるいは「死ぬまで双方ともを求め続ける」かもしれないが、まぁそんなのはどうだっていいことなんである。
重要なのは「世間の常識なんてのに惑わされて不本意な生き方をしないこと」なのだ。現代日本は、もはや同性愛ごときでは動じないレベルまで変わってきているのだから、たとえ開き直って生きたって抹殺されるような心配なんかはないのだよ。
「――思いきって飛び込んでみたら? 水、案外、気持ちいいかもよ……!?」
これは伝説の同性愛ドラマ『同窓会』(93年 日本テレビ)の初回で、「男同士の交わり」を持つのをためらう隠れホモの風馬(西村和彦)に対し、遊び人バイセクの嵐(元・TOKIOの山口達也)がかけた言葉。山口メンバーはアレになっちゃったが、脚本家・井沢満が書いたこの台詞は普遍的な至言なのだ!
異色の「同性愛ドラマ」が異例の「社会現象化」を!
懐かしの『同窓会』の話に触れたので、同性愛ドラマに関する話題をもうひとつ紹介しよう。
さきほどボクは「現代日本は、もはや同性愛ごときでは動じないレベルまで変わってきている」と書いたが、それを証明するような現象がこの春に起きた。
4~6月期にテレビ朝日で放送された深夜ドラマ『おっさんずラブ』を、読者諸君はご覧になっただろうか。端的に言ってしまえば「男同士のこんがらがった恋愛模様を描いたコメディ」で、いわゆる「実写版BL」というジャンルなのだが、これが老若男女(10代~60代!)を問わず、絶大な人気を呼んだのだ。「再放送希望」が多いドラマは珍しくないが、話数が明示されてもいないのに局側へ「放送延長希望」が届き、まだ終わってもいないうちから「続編希望」が殺到する――この異例の反響を受けて局側も「悪ノリ」と言えるほどの勢いで番組をプッシュしたのであった。
未見の方のため、大まかな内容がわかる記事を転載してみよう。
土曜ナイトドラマ『おっさんずラブ』(中略)の制作発表記者会見が行われ、同作に出演する田中圭、林遣都(中略)が登壇した。
16年に単発ドラマとして放送され、このたび連続ドラマとしてバージョンアップされた同作は、女性好きのサラリーマン・春田創一(田中)に、上司・黒澤武蔵(吉田鋼太郎)と後輩でルームメイトのイケメンサラリーマン・牧凌太(林)が想いを寄せる様を描いた「この春いちばんピュアな恋愛ドラマ」。(中略)
同作では、黒澤が春田に予想外の告白をするところから物語が動き出すが、記者からは田中と林に「今までされてきた告白で一番驚いたものは?」という質問が。すると、田中は「おっさんずラブ」的なまさかの回答。
「高校時代にすごく遊んでくださっていたお兄ちゃんみたいな存在の方がいて、しょっちゅうつるんでいたんですけど、ある時(彼が)僕に惚れて、本当に寝込みを襲われそうになったことがありまして。その時に、僕は必死で戦ったんですけど、『好きになっちゃった』って言われて普通にびっくりしました」(田中)
この告白にMCや共演者から驚きの声が上がると、田中は「結果として、(春田は)ハマリ役になったのかもしれない」と照れ笑い。(AbemaTIMES 2018年4月17日)
90年代に起きたゲイブーム期にも、前述の『同窓会』をはじめとする数々の同性愛ドラマ/映画が制作されたが、あの当時の視聴者は「見世物小屋を訪れたコワいもの見たさの好事家」みたいな感じだった。しかし今回の視聴者は『おっさんずラブ』を、単に「恋愛ドラマの一ジャンル」として「フツーに楽しんでいる」ふうなのだ。ここにはたぶん、「昨今の恋愛ドラマ需要の激変」が関係していると思う。
かつては「恋愛ドラマ=フジテレビの月9枠」であり、そこでウケていたのは俗に言う「トレンディドラマ」だった。「オシャレな仕事をしてるオシャレな男女がオシャレなスポットでオシャレな恋愛を繰り広げる」みたいな内容に、当時の視聴者は素直に憧れた。けれども、さすがに続きすぎて食傷気味になったのか、はたまたシビアな現実にさらされすぎて視聴者がスレッカラシになったのか、トレンディドラマも月9枠も年々人気を失っていった。
それに代わって支持されだしたのが「クセの強い色恋モノ」である。昭和世代から見ればもはや「異星人」の域に達している「超潔癖症&コミュ障こじらせ童貞アラサー男」を主人公とした「逃げ恥」こと『逃げるは恥だが役に立つ』(2017 TBS)が当たったのは記憶に新しいが、あれが一種の象徴だ。
逃げ恥のヒットは「イマドキの視聴者の心は従来型の『ホレたハレた』なんかじゃ動かない」という現実の顕現である。『おっさんずラブ』のフィーバーもその延長線上にあり、「もはや世間は『同性愛』くらいにならなきゃ目新しさを感じない」ということなのだと思う。
しかしこのフィーバーは、「すべての市民が『性の多様性』について正しい知識を共有し、乖離や齟齬の一切ない態度でLGBTと接する『ユートピア』を構築する」といった目標を掲げるゲイリブ系の方々には不満であろう。あのドラマのベースとなっているのはあくまで「笑い」であるし、田中圭や吉田鋼太郎の演じるキャラクターは、そもそもLGBTではない。あくまでも基本は「異性愛」で、「『たまたまの偶然の連鎖』で、特定の同性に心惹かれるようになった男たち」なのである。
しかしボクは、「だからこそ、あそこまで世間に受け入れられたのだ。もしも『同性しか愛せない』というキャラクターがメインのシリアスな話だったら、重たすぎて一般視聴者はついてこられなかったろう」と考える。実際、今春フジテレビで放送された、メインキャラとしてゲイカップルが登場する『隣の家族は青く見える』はそれほど話題にならなかった。
『おっさんずラブ』は、まさに「現代日本の民度とマッチする『絶妙なバランス』で同性愛を扱った稀有な作品」だと思うのである。
けれどもゲイリブ系人種の中には、『おっさんずラブ』のことを良く思わない者もいる。「同性愛の描き方がご都合主義的で正しくない」と言うのである。では、一体どういうものが「正しい同性愛」なのか? どうすると「正しくない同性愛」になってしまうというのだろうか?
ものごとの「正解」というのは、当たり前だが「人によって異なるもの」で、だから「戦争」という「異なる『正解』のぶつかり合い」はいつまでたってもなくならないのである。戦争を回避するには、主張を異にする者同士の「十分な話し合い」と「譲歩」が不可欠なのだが、哀しいかな「自分の主張するものこそが『唯一無二の絶対的正解』である」と信じて疑わない人たちは、そのどちらも拒否する傾向が強い。
いわく「こちらが正解なんだから、話し合う必要なんかない!!」。いわく「こちらは正解を言ってるんだから何を譲歩するというのだ!?」。こんなふうに思考が硬直しちゃってては、まったくもってお話にならないよね。
彼ら彼女らが「満額回答」や「0対100の完全勝利」以外を認めないうちは、「社会対LGBT」、「ゲイリブ派対その他のセクマイ」の死闘は今後も続くんだろうなぁ……。
暗い気分になったので、話を『おっさんずラブ』に戻そう。あの番組が「制作者が想定していた以上の話題」を集めたのは、やはり90年代ゲイブーム期から続いてきた「同性愛コンテンツの蓄積」の成果だと思う。
もちろん、中には「クソみたいな」としか評しようがない駄作もあったけれども、それだってボクは「なんにも無かったよりはマシ」だと思っている。たとえ「99%が石っコロ」の玉石混交でもかまわないから、圧倒的な物量パワーで「世の中にはこんなにも色んな『定番外の色恋』だってあるのだ」と大衆に認知させることが大事なのだ、と――。
今回、世の中に『おっさんずラブ』が好意的に受け入れられたのは、大衆が「同性愛を『正しく理解した』から」ではなく、「時間をかけて『同性愛に慣らされた』から」であるとボクは断言する。
「慣れる」というのは、「最初は『異物』だったものでも、長く接し続けると違和感が麻痺して『ありふれた存在』に代わる」という現象だ。たとえば現代では『外人サン』を見ても誰も動じないが、ボクが子どもだった時分には全然違った。金髪の人なんか見た日には、そりゃもう大騒ぎサ! そんな状況が変わったのは「来日外国人がどんどん増えて慣れちゃった」からである。「撮られると魂が抜かれる」と言われた「写真」だって、「食うと角が生える」と言われた「牛肉」だって、そうやって日本に浸透していったのです。
同性愛だって、それらと同じだ。少なくとも「全国ネットのドラマにしてもクレームが入らない」くらいには「慣れた」のである。テレビ朝日の本社屋には超巨大な「番組垂れ幕」が掲げられたし、5月には番組PRの「ラッピング電車」が西武池袋線を走ったが、特にクレームなどは入らなかった。また、昨今の人気のバロメーターたる「SNSの反応」だってエライことになっている。
『おっさんずラブ』のInstagram〝公式裏アカ〟「武蔵の部屋」のフォロワー数がついに40.4万人(5月25日時点)を突破した。〝武蔵〟とは、主人公・春田創一(田中圭)をめぐって他キャストと恋の火花を散らし合うおっさん乙女部長・黒澤武蔵(吉田鋼太郎)のこと。そんな彼が影で投稿するアカウントとして運用されているページで、いわば架空の人物によるインスタとなる。(中略)
投稿内容は、アカウントの主である部長・黒澤武蔵目線の「隠し撮り」写真が主で、投稿文やタグには「~だお」「天使マジ天使」「存在が神~」など、部長のキャラクターにあった乙女な言葉遣いが。(中略)隠し撮りというある種の「ストーカー的」な投稿でありながら、ユーザーからは「部長がかわいすぎ」「つい部長に味方してしまう」などの声が。(中略)
公式と裏アカのフォロワー数を合わせると66.7万になる。これは今期のドラマで最大級のSNSアカウント。(オリコン 2018年5月26日)
「66.7万人」という膨大な数のフォロワー(まぁ表と裏の重複フォロワーが大半だろうが)のうち、同性愛の実態を知っている人間がどの程度いるかは定かでないが、「興味本位のミーハー気分であってもいっこうに構わない」とボクは思っている。さっきも言ったように、世間を「慣らす」には「質より量」なのだから。
SNSの状況はさらに熱気を帯び、なんとこのような事態になった。
Twitterの世界トレンド1位に「#おっさんずラブ」がランクインした。最終章に突入した(中略)第6話「息子さんを僕にください!」に、日本中がドギマギしたことを象徴した一つの指標と言えるだろう。(中略)
春田と牧のカップリングを見守るファンの嘆きが、世界トレンド1位という巨大な推進力を生んだのだ。(リアルサウンド 2018年5月27日)
『おっさんずラブ』は韓国・台湾・香港でも放送されたが、そういうのも追い風になったのだろう。また、放映終了後に発売された公式LINEスタンプには「海外でも買えるようにしてほしい!」といった要望が届いているそうな。
リブ系の方々からは「『性の多様化』の後進国だ!」とそしられることが多い日本だけれども、今回『おっさんずラブ』が世界的な支持を得たことで、ひょっとすると「欧米型とは異なる形での『性の多様化』が進む」かもしれない。そう考えると、なんかワクワクしてくるね。いや~、楽しみ楽しみ。
「同性愛ネタ」ジョークは今ではOK? 今もNG?
『おっさんずラブ』のヒットによって、世間が「ポピュラーではない性愛」の存在にだいぶ慣れつつあることがわかった。しかし、肝心の「ポピュラーではない性愛の実践者」たちのほうは、世間に対する意識をなかなか変えられないようだ。「ノンケたちは自分たちを敵視しているのだ」と信じてやまない面々は、特に悪意の感じられない「イジリ」にも過剰反応をする傾向が強い。
プロバスケットボールチーム「レバンガ北海道」が(中略)男性選手同士の熱愛が発覚したという、うその週刊誌面を公式Twitterに投稿し、物議を醸している。(中略)問題となったツイートは(中略)エイプリルフール企画の一環として(中略)投稿された。(中略)同チームの多嶋朝飛選手と関野剛平選手がプライベートで手を繋ぐ様子を激写したような写真とともに、「多嶋・関野、熱愛発覚!」という見出しの架空の記事を掲載。(中略)
他にも、選手がストレスで激太りした、女優風のロングヘアにイメチェンした、帰国子女なのに英語教室に通っていることが発覚した…など計7種類のうそを、同じように週刊誌面風にして投稿した。
「熱愛発覚」の投稿には、男性同士の恋愛や、本人が公にしていないセクシュアリティを勝手に暴露するアウティングの行為を、エイプリルフールのネタにすることに対して、さまざまな批判が寄せられた。(BuzzFeed Japan 2018年4月2日)
記事にあるように、今回の「イジリ」のネタには様々な種類があって、決して「同性愛だけを笑い者にしている」とかではないんだけどねぇ。
同性愛当事者の反応が〝批判のみ〟だったら「やっぱりゲイはメンドクサイ」で片付けられてしまうところだが、今回はその逆の〝擁護派ゲイ〟の声も多数寄せられたそうである。
当事者などの中には(中略)問題視する必要はないという意見も多く見られた。
「オレ、ゲイだけど、これ、すごく好印象だよ。むしろゲイに差別感ないってことだと思う。本当にアンタッチャブルなことは言えない。こういうこと言っても『差別だ!』とかいわない世界を求めてる」
「一当事者としては、このツイートを見て『ホモフォビアだ! 同性愛差別だ!』って過剰反応される方がよっぽど傷つくなあ。一部を除いて大半の同性愛者は、優遇されたり特別視されたいんじゃなくて『自然に』『普通に』受け入れてほしいんですよ多分」
「普通に男女混合の組織の中で『実はこの人とこの人は付き合っていたのです!』というネタとなんら変わりない物だと思います。過剰に反応し過ぎている事が、もっとLGBTを孤立させる気がしてしまいます」
「抗議している人達は同性愛者をどういう存在にしたいんだろうな? 腫れ物や常に気を使わなければならない存在? 俺はそんなの望んでないけどなぁ」(BuzzFeed Japan 2018年4月2日)
このように、図らずも同性愛当事者たちの「被害者意識度」が浮き彫りにされる「試金石ジョーク」となってしまったわけだが、肝心のチーム側はどう考えているんだろうか。
レバンガ北海道の広報はBuzzFeed Newsの取材に、「誰かを傷つける意図は全くなかったので、(中略)こちらとしても本当に残念です」と話した。
もともと今回の企画は、チームに所属する選手13人が全員登場できて、かつ、一つのストーリーにまとめる方法はないかと考えた結果、「週刊誌風」にする案にたどり着いたという。その中でも、同じ大学の先輩後輩である多嶋選手と関野選手をセットにして、(中略)その仲の良さを表現する延長として考えたと話す。
「男性選手しかいないチームなので、その中でこの2人がカップルだったら…と企画を作っただけで、同性愛だから異性愛だからということは考えていません。仮に男女混合のチームで、ファンの方が喜んでくれるなら、そんな企画もあり得たと思います」
「外に向けて表現する以上、否定的な意見は必ず出ると思います。目にした人100人中100人が傷ついたら良くないと思いますが、今回はファンの方から『面白かった』という声をTwitterや試合会場でもらうことができました」(中略) 現状では、ツイートを削除するなどの対応は考えていないという。(BuzzFeed Japan 2018年4月2日)
広報担当氏の述べた「外に向けて表現する以上、否定的な意見は必ず出ると思います。目にした人100人中100人が傷ついたら良くないと思いますが」というコメントは至言だなァ~。いやホント、「メディアリテラシーに関するお手本」として教科書にのせ、全国民の共通認識にしたいような珠玉フレーズである。今後、何らかのクレームをつけられたメディアの担当者は、是非ともこのコメントを復唱してほしいところだよ。
世の中も人間も、本質はかなりイーカゲンなものだから、あまり杓子定規に振る舞いすぎると、周囲も自分もムダに息苦しくなるだけである。また、世の中を明るくするのは「可笑(おか)しいこと」と「可愛いもの」なので、ユーモアのかけらもないガッチガチの抗議活動なんてのは絶対に受け入れられやしないだろう。
可笑しくて可愛いドラマ『おっさんずラブ』が大ヒットしたことをリブ系の方々は念頭に置き、ユーモアを大切にしながら世間との融和を果たすようにいたしましょうや。ね? ■
Illustration ソルボンヌK子
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