アドラーとアンパンマン
一昨日の夜、同世代劇団・ペテカンのまこっちゃんこと、本田誠人さんのブログを読んだ。
まこっちゃんのブログに触発されて、私も久々にnoteを書くことにした。
文明は発達して、世界はどんどん便利になっているのに、わたしはどんどん窮屈になっているなあ…なんてつまらないことを心の中でつぶやいて、そのかわりにSNSへのつぶやきは減りつつある今日この頃。
ほら、今だって、「つまらないことを」なんてあらかじめ言い訳しちゃうんだから、きっとずいぶんと、私は人目を気にしているんだ。
昨年の「ひとよ」稽古中に書いていたこのnoteも本番が近づいて一度下書きにしたまま止まっていた。
例えば、今日の蕎麦が大変美味であったとか、こないだのテレビはちょっとアレだったとか、あのニュースやあの出来事へのつれづれなる想い、今体験しているこの現象について…など、今の想いを書いてみようかなと思い立つことはよくある。
でも、
やめた、面倒くさいし。誰かの気に障ったらアレだし。
たいしたことじゃないし。
またいつかね、いつか書けば良いねと思いながら、どんどん積もって、どんどん忘れていく。
どんどん便利になって、どんどん窮屈になって、どんどん人目を気にして、どんどん面倒くさくなって、どんどん積もって、どんどん忘れていく。
わたしは幸いモノを書く仕事をしているのだから、いつかそこで昇華すれば良いのよねなんてオシャレなこと思うくせに(台本も書いてないよばか)、どんどん忘れて、ネタだけならともかく、書き方まで忘れてしまうんです。
(猫のツイートだけは増えていく)
(この頃ストーカーと化しているギンタ。どこにでもついてくる)
そんなときにまこっちゃんのブログを読んだ。
とても、とても良い文章だった。
このブログ以前から、最近のまこっちゃんのブログは沁みるなあと勝手に思ったりはしていたけど、この記事を書いたまこっちゃんには、沁みる以上に、なんというか、深い、尊敬の念を抱いてしまった。
その前に。
ブログの内容にあるようなことを、具体的に言えばまこっちゃんのからだにおきていることについて、私もまこっちゃんから少し、聞いていた。
なぜかというと、私はまこっちゃんにここ数年の間、何度か舞台出演のオファーをしてきたからだ。
まこっちゃんのいるペテカンと私のいるKAKUTAは、ペテカンが少し先輩のほぼ同世代で、一度は劇団ぐるみで合コンをした仲であり、私がペテカンに出してもらったことも、ペテカン俳優陣に出てもらったこともある。
芝居で宮崎に行ったときはドライブデートもしてくれた。
(もちろん奥様も一緒に)
どういう表情?
ライバルでもあり、演劇仲間であり、友であるまこっちゃんは、私にとって「もっと見たい俳優」で、昔より大人になった私が、いざ演出家として向き合ってみたいと思った俳優だ。ペテカンで見せない顔を見てみたいわ、掘ってみたいわ、開発してみたいわ、と、何やらわいせつなニュアンスで野望を抱いてしまう俳優だ。
だから体調のことを聞いても割としつこくオファーをしてきたし、正直なことを言うなら、いまもまだ、狙っている。
(小学校時代、しつこさのあまり「ハエちゃん」というあだ名を頂戴したこともある私であるからして)
(こちらもしつこいギンタ。仕事場のどこにでもいる)
(風呂場にも)
(脱衣所でもまちぶせる)
(そして、なう)
すいません、ちょっとそれましたが。いったんまたもうちょっとそれます。
少し前、猫のことしかつぶやかないくせにつぶさに見てしまうTwitterにて、うつ病を克服されたという方の漫画をたまたま読んだとき、そこから派生してアドラー心理学に興味がわき、オーディブルでベストセラー哲学書(?)「嫌われる勇気」を読んで(聴いて)みた。
アドラー心理学についてちゃんと読んだのは初めてだけど(てかフロイトもユングもさほど知らないのだけれど)Amazonレビューに「この本は劇薬です」とあるとおり、読んでみれば、
・「トラウマ」を否定する
と、のっけから、なんというかきっつい暴論に思えるような、
「え?そんなんできんの?」っていう考えを提唱。なるほど賛否両論呼びそうな本で、本書は「アドラーの教えを説く哲人」と、「そこに疑問を呈す若者」という対話形式で書かれているのだけど、そうした挑発的ですらある教えに対し、本の中の若者は「そんなの理解出来るわけないでしょう!」「あんたは抽象的な理想論を語ってるだけだ!」と憤ったりする。
(ちなみにオーディブルなので、若者が「ええい!この偽善者!」「欺瞞に満ちた大嘘つきめ!」などと過剰なほどに哲人を罵るご乱心ぶりを迫力ある声で体験できて余計に面白い)
で、私もこの本の若者同様、「納得出来ません!」ってなる箇所は多々あり、現時点でもまだ理解がお腹に落ちていない部分は多い。
ただ、「アドラーは勇気の哲学です」という一文には惹かれた。そして、
・大切なのは自己肯定よりも自己受容
「今」の自分、「ありのまま」の自分を受け入れ、その上で前に進む勇気を持つこと
・他者に関心を持ち、「自分が何を得られるか」ではなく「自分は何を与えられるか」を考えること
という部分を読んでいた今日、唐突に、その哲学を頭で理解するよりも早く、まこっちゃんのことが、あのブログのことが思い浮かんだ。
そして読了後に感じた、深い、尊敬の念と結びついた。
まず。
たとえ誰であっても、自分のことを、今のありのままを受け入れるのは、簡単なことじゃない。
そしてそれを正直に人に伝えることは、もっと難しい。
まだ叶えてない夢はいつか出来るものと永遠に信じていたいし、人に見せるのは理想の自分がいい。嫌われたくないし、認めてほしい。
だから、出来ることと出来ないことを見極め、そのままを受け入れて、かつ明るさを失わずにそこに立つことは、誰であれ、どんなことであれ、とても難しいことだ。
だけどまこっちゃんのブログは、とても率直に、鮮やかに自然にそれをしていた。
自分の体に起きていることをありのままの自分として受け入れていた。
その上で、出来ることを見つけ、前に進んでいく。
周りの人たちに感謝して、めいいっぱい愛して、笑わせていく。
この文章を書くに至るまでのまこっちゃんの姿を、その勇気を思った。
このブログを、まこっちゃんがどうして書いたのかを思った。
それは、愛だな。愛だ。愛だなああと、思った。
まこっちゃんもブログに書いていたけれど、自分の状態を正直に伝えることで悲しむ人がいるのではないか、嫌がる人もいるのではないかと、これを書くのにきっとたくさん悩んだと思う。
でもアドラーは、承認欲求に囚われず、嫌われることを恐れず、勇気を持って自分の方針に従い、自由になることが、幸せへの道だと説いている。
そしてまこっちゃんが何を得るかではなく、まこっちゃんを知る人に、まこっちゃんを愛する人たちに何を与えられるか。
まこっちゃんは自分の方針に従い、自分を自由に解放した。
そして同時に、まこっちゃんを知る人に、まこっちゃんを愛する人たちに、勇気を与えるために書いたのだと、アドラーの本がいきなり結びついて、わかったきがした。
自分はこうしてここにいるよ。怖がらないでいいよ。いっぱい笑わせるよ。
アドラーのいうてたやつをあなた、自然に実践しとるやないかい。
まこっちゃんよ。
私はそれで、まこっちゃんから勇気のおすそわけをもらった気がして、いやあ140文字のTwitterすら人目が気になってよう書きませんわ、となっていたこのところの自分を解放してみたくなった。またぼちぼちくだらないことも、言い訳しないで気楽に書いていこうと思う。
久しぶりに、好きなことを書いてみようかしらんと思ったら、結局、まこっちゃんの話になりました。
というわけで、私のブログはさておき、本田誠人さんのブログをもう一度。
「愛と勇気のまこっちゃん」と、しめくくろうとして、あらっ、それじゃアドラーというよっかアンパンマンじゃんと思ったけど、思えばさ。
自分の頭をかじらせて誰かに力と元気を与えるって、いわば作家のメタファーじゃない?
じゃあまこっちゃん、アンパンマンってことでいいんじゃない?
かじりやすそうな頭だし。
便乗させてもらって、私もさ!
わたしたち。
わたしたち。
私はドキンちゃんでも良いよ。
(それゆけアンパンマン!)
ちなみにアドラーの「嫌われる勇気」には続編がある。
「幸せになる勇気」という本だ。
対極にあるようでいて、同じことを指している。繋がっている。
それは繋がっている。
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