えすろくろくまる
私達の共通の趣味は読書だった。
私は小説を書いた。書ける気がしていた。
サリーはといえばなぜか俳句短歌、そして詩を書いた。
長く書いても中身がないとね
とサリー
確かにその通りだと思ったけど、サリーの描く短い世界も微妙だった。
なにか、平安時代的な匂いな中に、ロックンロールな精神な詩たちだったから、私としては、いいね、面白い
としか言えなかった。なんでもありの時代になるにはあと数十年必要だったかもね、サリー
私としても言えた物を書いていたかというと、ノーだったと思う。
例えば、その先、商業としてやっていけたか?無理だったろう。太宰治の短編もどきみたいな物は書けた。けれども分量的にサリーの言う内容のある長文を書くことは私には出来なかったから、平成へと移っていく中、食べていけないことは明白だった。
当時、太宰治や、三島由紀夫などを読みながら、サリーと議論したことは、核心に迫っていけば、落ちるところ、人間はなぜ生きるのか?だった。
今の自分なら、人間は生きるために生きるんだ
と簡潔に答えることが出来る。
放たれた物は、落ちるまで飛ぶべきなのだ。
ただ、若かった2人の鋭利な感覚には、もっと、暗い人生のいく先が、見えた。
滅びるいつかを確かに観ていた。
20歳前後の年代に見えていたこと、感じていたことが、嘘だったとは、今も思わない。実際にわかっていたのだ。その当時はその当時なりに。いや、事実として。