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覚悟を決めて寄り添う大人達

『夢みる小学校』を観てきた。
映像から伝わってくる、大人と子どもの関係がとても良い。
大人は、ありのままの姿を認めて、受け止める。
子ども達はとても安心して過ごしているように見えるし、大人の顔色を窺わず、気持ちをしっかり出し、時に周りにも心を配りながら共に暮らしている。
「大人が一緒に居る意味があるよなあ」と思った。

と、同時に。
いやあ、ここに出てくる大人すげえなと。
それをやってのけ、かつ、ちゃんと学校として成り立っているというのだから、どれだけ大変か想像するとちょっと震える。

作中で「やっと待てるようになってきたんですよ」と話す教師の姿があったが、この「待つ」というのだってめちゃくちゃ大変だ。
もちろん、ただ、ぼんやり待っているわけではない。
子どもを信じることはもちろん、その先の見通しが立っている事も大事かもしれないし、大人には気持ちと時間の余裕も必要になるだろう。
これまで積み上げてきた物、学んできた事、自分の人生、それら全部を一旦置いといて、腹を据えて待つ事が必要になるかもしれない。
並大抵の覚悟では出来ないと思う。
(僕なんて、まだ、めちゃくちゃに狼狽えてしまう。
脳が熱くなるほど葛藤するのだ。)
だから、臆病なりに、ジリジリと向かい合っている。
たった一言、たった一瞬すれ違う時のことでさえ、毎日、頭が燃えるように葛藤する。
寄り添うって、そんな事のような気がする。
僕のように「寄り添ってこなかった側」だった大人は特に。

「だってその方がこの子の為になるから」
という、呪いのような言葉も思考を濁らす材料になる。
実際そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
経験と知識からくる考えであって、確約できない未来に対して正解は出せないはずだが、有る気がしてしまう。
だから、無いはずの答えや正解を意識してめちゃくちゃ苦しむ。
この呪いは、簡単には解けない。

作中に、作家の高橋源一郎さんの「この学校はすばらしいが、現実は厳しい」という言葉がある。
お子さんが通っていた方からのこの言葉は、短いが全て詰まっている気がする。
もちろんこの言葉は、卒業した子が社会にでて困るという事ではないと思っている。
こんな事が出来る大人、そんな事を許す世界がものすごく少ないからだ。
この「すばらしい」を当たり前みたいにする事は、それはそれは厳しいという事だと考えて。

同じく高橋さんの
「整列させると、前が見えない。だから、並ばない”きのくに子どもの村”は「合理的」
他の学校は「不合理」で、なんで整列させているの?って聞いても、先生も校長もその理由を答えられない。
「それは規則だから!」と言うだけ」
これは、すごく刺さった言葉の一つ。
学校だけではない、世の中に「不合理でもそういうもんだから」
今、自分たちの周りにどれだけあるだろうか。
これも、簡単には変わらない。
何年も何年も続いてきたものを「それ、意味ないっすよ」と、切り捨てるのは、とても苦しい事だから。
不合理でしかないものでさえそうなのだから、その人にとって「合理的」と思っている事ならなおさら。
並ぶ、並ばないだけでも、そうそう簡単には変わらない。

西郷先生の話もかなりインパクトがあった。
「変わったことしてても成績良ければ割と受け入れてもらえる(笑)」みたいな発言も「おお(笑)」と思うし
「校長は結構な権限があるから、変えたければ校長になればいい」というような発言をしながら「生徒からこの意見が出るのを待っていた。ずっと無くしたかったんだよね」という校則に関してのエピソードとか、それだけの立場と考えがありながら「生徒を待つ」という部分に痺れる。

そして、映画を観ながら「ゆめパのじかん」にも同じようなものを感じたなあと思い出していた。
なんとなく、この2本を観た事で、そこからの色々な出会いや対話があって、だんだん自分の中にあった「なんとなく」が固まり始めてきた気がする。
メモやら何やら、見返しながらしっかり反芻していこう。

あと、職員室的な場所で、子どもが教員の膝に座っているシーンがあり、これが問題だと指摘があったという話を聞いたのだが。
いやいや、なんて危険な思考なのか…と。
大人と子どもの関係性、それぞれの気持ち、その他諸々全部無視して「行為のみ」で判断。
危険すぎるし、一番何も解決しないパターンじゃないの?
それこそ話題になっている「不適切保育」に関してのチェックやメディアの注目度も似た部分を感じる事もあり、思考停止させて可能性あるものは全て排除みたいな考えは怖すぎる。
もちろん、判断の難しさや、実際にどうかと思う部分がある事もあるわけだが、やはり、現場というか当事者同士でないとわからない事は本当に多いのだと、自分もそうならないように、自戒も込めて、ここに書いておきたい。


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