私の定義
我思う故に我あり。と言ったのはデカルトである。
吾輩は猫である。と自己紹介させたのは夏目漱石。
では、私はなんだろうか。
私というのは、何によって定義され、他者からどのように認識されるのだろうか。
顔貌、背格好、声の色、目つき、匂い。だろうか。
そうなると、会ったことのない人たちからしたら、存在していないのと同義だろうか。
同じ人間でも、5秒前の自分と5秒後の自分は別な存在なのだろうか。
それじゃあ、金曜日のあの約束は金曜の自分が履行すべきだな。
仮に、時間軸によって私という存在はブレないとして、外見がどう変化しようと私は私であるとしても、どの人がみるかによって、私のみられ方は異なる。ある人には仏のように優しい人で、ある人には鬼のように怖い人で、ある人には錆び付いた鉄のように冷たく感じられるかもしれない。
では、私はなんだろうか。
温かいものに触れている時の私は、温かい発言をするだろう。
冷たいものに触れている時の私は、冷たい発言をしてしまうかもしれない。
人は外部の影響によって、大いに変化しうる。だから「人は変われる」も本当だし、「昨日の友は、今日の敵」も本当だろう。
真実の自分論争をするならば、一番過酷な状況にある”自分”を測るのが良いだろう。でも、いいところだけしか見てこなかった気になるあの人、尊敬するあの人に、失望したりするのは、虚像だけをみていたことになるのだろうか。嘘をみていたと、騙されいたということになるのだろうか。
キルケゴールのように主体的真理を追い求めるのが、正しい自分観だろうか。
自分でもわからない自分を人にカテゴライズされるのは腹立たしいが、かと言って反論もできない。
今日も答えの出ない疑問の周りをぐるぐると歩き回る。
ただ、真実と虚構の間にゆやゆよんと揺れるnoteの街を散歩して、共感と呼ばれるどこかに眠るもう一人の自分を探しいる。