滸楊
さてさて、名前の話である。
珠李を改め、滸楊(きょよう)とした。
滸(きょ)というのは、すなわちほとりである。
同じ音に湖(こ)がある。私は今、湖に住んでいるのだが、これがなかなかいい。生まれは日本海、育ちは太平洋であった。荒々しさが私を育んでくれたわけだが、私の心が求めるものは穏やかさであり、ただ漠然とそこにあるという心地であった。
楊というのは、すなわち柳である。しなやかなれど力強い木である。その強さには頑固さはなく、いつも穏やかであり、それでいて決して折れない。
湖のほとりに立つ静かなる柳。
それが今の私の心象風景だ。
ゆったりと穏やかに。
いろいろあったが、私はようやく私の生を営んでいる。私が私であることの許しを受けている。他の誰にでもなく定義されることのない唯一無二の私である。
人はなぜ、誰かと出会うのか。
それは成長であり、自分が変わろうとしているときに表れる結果なのではなかろうか。
例えば、新しい友人と出会うとき自分の趣味・好み・価値観は変化しているだろうし、新しい恋人と出会うときは今までと違った生き方をしていて新しい人生観を持っているだろう。
いや、なにも過去のそれらを否定しているのではない。ただ、人間関係にはそれぞれ役目があるのだ。その役目を果たしたとき、その人間関係は終わりを迎える。
名も同じである。名は器である。何を注ぐか、どつ磨くか、も重要であるが、どんな器を構えるかも重要なのである。誰と出会うかで器も変わる。
鮑叔館とはぶれることのない明確な指針である。
だが、その経路をどう彩るかは様々だ。
ユウ(祐)は「我、君の天祐とならんと欲して」であるし、
珠李(しゅり)は「美しい玉を静かに愛でるように君を慕う」で、
滸楊(きょよう)は「このほとりで佇みゆったりと穏やかに私たちがある」。
このように異なる。
どの道も鮑叔館は許容するし、存在を認める。
利他でも利己でもない、同一不可分のわたしたちを掲げて、生きるのである。それがゆったりと穏やかな幸せをきずきあげる。
鮑叔館 滸楊