漆黒の水辺に透き通る青い水滴を垂らすように。
そんな思考をしたい。
比喩として適していないんじゃないかと、思うくらいわかりにくい喩えである。
ただ、この他に言い表し方を思いつかないし、もっと正直に言えば、ふとこの表現が、枯れ池より湧き出たのだから致し方ない。
水滴の落ちる音が、聞こえるような聞こえないような、音がなる前の音。
綺麗な円を、一点より広げゆく、様。
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水滴が落ちる前と、落ちたあとで、その水辺には違いがあるのだろうか。
眺めていると、まるで何も変わらぬようにも見えるし、むしろその色合いは、より一層深まっているようにも見える。
かといって、掬い上げてみると、それは少しの濁りをも許さないほどに、透き通っている。
忘れた頃に、再びみてやると、溢れかえっているときもあれば、枯れきっているときもある。
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漆黒の水辺に透き通る青い水滴を垂らすように。
そこは、悠久のときが流れていくような、はたまた1秒たりとも経っていないような、冷たくも暖かく、寂しくも包まれるような、混沌と秩序の同居を許す、矛盾を慈しむ場なのである。
目に見えないが、しっかりと”ある”、その空間に、今日も身を寄せながら佇む。