陽円
気づけば、記事の更新より先に新しい名前が決まってしまった。
鮑叔館とは私の無形世界である。つまり、脳内であり内省でありこころである。
となると、更新が滞るということは自分と向き合うことなく日々を過ごしてしまっていることにある。
それは良いことか悪いことか。
それもまた、意味づけ次第で変わるだろう。
さて、新しい名前は「陽円」である。
陽だまりの中の円やかな、幼い優しさ。
実はこれはある人の二つの名前である。
付けられるはずだった名前、付けられた名前。
どちらになるかでその人の人生は大きく変わっていただろう。
いや、少なくとも意味づけは異なっていたはずだ。
でもね、付けた側の気持ちはあまり大きく変わらなかったのではないだろうか。
よく私は、言語化しなさいという話をする。
言語化することで自分の内面を明らかにし、デカルトの教え通り「分割(breakdown)」がなされ、主体と対象とが生まれたところにヘーゲルでいうところの「止揚(アウフヘーベン)」が可能となる。
そうすることでより高次なる自己と対話できるのだ、と。
しかし、対話というのは必ずしも言語によってなされるものではない。
言語の奥にある、心情というものに直に触れることができるのならば言語のようなまどろっこしくて不正確で不完全なツールに頼ることなんてしなくてもよいのだ。
そして、幼子を思う者の情というははっきりとエネルギーを持っていることが多く、往々にして観測しやすいのである。それに気づくのが難しいこともあるが、たいていそれをつかむことできる。無論それがはなから不可能である、つまり存在しない場合もあるがそれについての議論はここでは扱うまい。
そのようにして、私は彼女の二つの名前から愛情を類推することにした。
それがつまり、
陽だまりの中の円やかな
である。
幼い優しさ
というのは本人から垣間見たものである。
人は誰しも、心の中に少年少女を飼っているものである。
我々、大人たちはついついそれを見落としてしまう。
だが、私はその幼さの中にその人の真実を見るのである。
ああ、この人は元来こういう人であったのだな、と。
鮑叔館 陽円