なぜ人間は他人を傷つけるのが好きなのか
もし自分が透明人間になり、人や物に触れることすら出来なかったら、自分が存在することを証明することができるでしょうか。
おそらく、とてつもない孤独感に襲われるでしょう。誰かに声をかけても反応はなく、呼び止めようと肩を掴もうとしてもすり抜ける。石を拾って誰かに投げつけようとしても、そもそも石を掴むことすらできない。誰かにイタズラしようと足を引っ掛けてもすり抜けるし、ムカついて怒鳴り散らしても誰も無反応で、笑顔のまま世間話を続けている。次第に自分が本当に存在するのか不安になることは想像に難くないのではないでしょうか。
事実とはなにか
目の前にリンゴがあるとき、それが実際に存在する事実か確認するためにはどうすればよいでしょうか。「リンゴを触って、食べればわかるだろう」と思う人もいるでしょう。
ではリンゴを食べている時に、周りの人から「あんたなんで何も持たずにもぐもぐしてるわけ?」と言われたらどうでしょうか。きっと急に不安になるでしょう。「もしかして、このリンゴが見えているのは私だけなのではないか」という思いが浮かんできませんか?
そうです。実際、それがただの幻覚や錯覚であっても、リンゴを触って食べたつもりになることは可能です。ということは、目の前のリンゴが実際に存在している事実である、と証明するためには、リンゴに触ったり食べたりするだけでは不足しているということになります。
それでは、どうやって目の前にある何かが事実であると確認すればよいのでしょうか。それは、"客観的な観測"をもって確認する必要があります。
例えば、自分が幽霊を目撃したとします。しかし、周りにいる複数の人間に「いやそんなの居なかったよ?」と言われたら、それは幻覚か、見間違いか、はたまた思い込みだと思うでしょう。逆に、周りにいる複数の人間もその幽霊を「私も見た!」と言ったら、それが本当に幽霊なのかどうかはともかくとして、確かにそこに幽霊と思われる何かがあったということは事実だと感じませんか?
また違う例で、「黒猫が自分の前を横切ったら不幸が訪れる」と思ったとします。しかし、自分がそう思ったところで、他には誰もそれを認識しなければ、ただの思い込みか偶然であることを否定できません。逆に、化学的な実験を繰り返し、黒猫が横切ることと不幸が起きることの因果関係が証明されたとき、「黒猫が横切れば不幸が訪れる」という現象は初めて事実として認識されるでしょう。
つまり、人間は自分以外の他者を通して、目の前の物体や現象が事実であると確認しているのです。
それでは最初の例に戻って、自分が透明人間になったとします。何度も何度も通りすがる誰かに声をかけるが無視される。触れられるものはないか探して、人や物や壁をいくら触っても全てすりぬける。そんなことを続けて数日経ったとき、たったひとりだけ自分のことを見える人間が現れたらどんな気持ちになるでしょうか。おそらく、とてつもなく救われた気持ちになるでしょう。自分を見える人間が居た、自分はここに存在したんだ! と、叫びたくなるのではないでしょうか。あるいはもっと影響を小さくして、誰かに小石を投げることができ、「いてっ!」という反応が得られたらどうでしょう。これだけでも感動に打ち震えるのではないでしょうか。これが、人間が他者を通して自分を確認しているということです。
ところで、いま思い出しましたが、「涼宮ハルヒの消失」という映画でも同様の現象があります。ある日突然、主人公以外の記憶から涼宮ハルヒという人物の記憶が消え去り、涼宮ハルヒが存在したという痕跡すら消え去ってしまうのです。このときの主人公の不安はとてつもないものでした。あらゆる方法で涼宮ハルヒを知っている人間や痕跡を探すために走り回ります。しかし、誰に聞いてもそんな人物は知らないと言われるし、学級名簿にも名前は載っていないのです。言ってみれば、「涼宮ハルヒ」は「目の前のリンゴ」なわけですね。誰からも認識されていないリンゴは、事実と確認することができません。涼宮ハルヒを失うという恐怖だけでなく、涼宮ハルヒという現象の全てが事実ではなくなるという恐怖もあったことでしょう。
ネットの炎上は、アンチ共の自身という存在の確認作業である
ネット上には、アンチと呼ばれるゴミがたくさんいます。自分とは全く関係のない有名人の不倫や、不適切な発言という取るに足らない話題に群がるゴミですね。いえ、ゴミというのは不適切でした。一応生きていますし、ゴミのように動かずひっそりとしているわけではありませんので、奴らはゴミのようにどうでもいい話題に群がるハエのほうでしたね。
奴らはなぜ、自分とはおよそ関わりのない話題にこぞって群がるのでしょうか。それは前述の通り、自分の存在が事実であると確かめるためです。
奴らは現実世界では透明人間なのです。
誰からも相手にされず、褒められることもなく、愛情を受けることもない。それは、さながら透明人間のようなものです。不安になることでしょう。果たして自分は本当に存在しているのか、自分に価値はあるのか、怖くて怖くて仕方ありません。だから、誰かに小石を投げたくなります。小石を投げて、誰かに「いてっ!」と反応してほしいのです。それは「反応」であればなんでも構いません。相手が傷ついて泣いても嬉しいし、怒っても嬉しい。だって反応してくれたから。反応してくれたのなら、自分が存在しているということだから。
つまり、「相手を傷つけること」と「自分の存在を確かめること」と天秤にかけて、自分の存在を確かめることを選択したゴミ、いえ、ハエというわけです。五月の蝿と書いて「五月蝿い(うるさい)」と読むくらいですから、ホントうざったいですよね。
人間は情報の集合体である
実は、本題はここからです。ここまで、事実とはなにか、そして人間は自分が存在することを確かめるために他者からの観測を必要とすることを話してきました。
それでは、自分というものをもっと細かく分けてみたらどうなるでしょうか。例えば幼少期の自分、青年期の自分、大人の自分。このように分けた場合、幼少期の自分を知っている人物は、どのくらい居ますか? 私は両親が他界しているため、知っているのは幼馴染と兄弟しかいません。
では、幼馴染や兄弟と死別したとき、幼少期の自分はどうやって事実だと確認することができるでしょうか。ここまで説明した通り、事実だと確認するためには他者からの観測を必要とします。しかし、それができません。つまり、私は幼少期の自分がどんな子供だったのか、どんなイタズラをして、どんな成績を残して、どんな発言をしたのか、それらは事実として確認する方法がないのです。
幼少期は少し範囲が広い例です。さらに範囲を狭めて、恋人とデートした自分、ではどうでしょうか。デートをした自分というのは、そのデートを一緒に経験した恋人にしかわからないことです。つまり、そのデートをした恋人がこの世から居なくなれば、そのデートがあったという事実は自分の中にしか存在しなくなります。しかし、10年、20年と時間が経過したとき、その記憶はどんどん薄れ、デートの詳細はどんどん思い出せないものになるでしょう。次第に本当にそんなことがあったのか、自分の記憶違いや、作り上げた記憶に過ぎないのではないかという思いに駆られるでしょう。
こういった、無数に切り分けた細かい自分という情報の集合体が人間だと私は考えます。
つまり、無数の状況で生まれた自分という情報が幾重にも折り重なったのが人間であり、その存在を事実として確認するためには誰かに知っていてもらう必要があるのです。もし、ある日突然、自分を知っている全ての人間がこの世からパッと消滅したら、と想像してみてください。それはとてつもない喪失感と孤独だと思いませんか?
われわれ人間は、一緒に過ごした時間の分だけ、他者に自分の情報を与えています。だから一緒に過ごした時間が長い人が多ければ多いほど、自分という存在を強固に自覚することができます。そして逆に、同じ時間を一緒に過ごした人間を失えば失うほど、自分という存在が希薄になっていくのです。さながら透明人間に近づくように。
最後に
名探偵コナンの探偵達の鎮魂歌で、犯人の好きなセリフがあります。それは「秘密の共有こそ最大の愛だ」というものです(正確ではないかもしれませんが)。あまり注目されていないセリフのような気がしますが、私は至言だと思います。秘密というのは、信頼している人間にのみ渡せる自分の一部です。私は秘密を守れる人間をあまり知りませんが、秘密を明るみにするということは、情報で出来たその人の体の一部を切り落として他の誰かに渡すようなものだと私は考えています。
余談ですが、18歳で「Can You Keep A Secret?」を出した宇多田ヒカルのセンスってすごいですよね。