なぜ人間はいじめが大好きなのか
いじめはしていないと、あなたは言うだろう。
しかし、私はいじめをしていない人間を見たことがない。
なぜなら人間はいじめが大好きだから。
弱い立場の人がいれば嬉しい
私の言ういじめとは、弱い立場を利用してマウントを取る行為だ。
例えば、YouTube。例えばブロガー。例えば有名人。例えば店員。何かを提供する立場にある人は全て、弱い立場の人間である。
つまりYouTubeの誹謗中傷コメント、店員への横暴な態度。これらも私の言ういじめに当たる。人間は弱い立場の人間を見つけては、よだれを垂らしてそれをいじめにかかる。そうしていれば自分の立場は相対的に上昇し、誰かより強い自分でいられるからだ。そうやって自分が責める側の立場に立てば、さも自分が優れた存在であると勘違いできる。
炎上した人間に群がって正義を振りかざすのはなぜか? 自分には全く関係の無い不倫を、対して興味の無い政治家の不正を、偉そうに叩きたがるのはなぜか? 全てはこれに集約される。みんないじめることで自分の存在を確かめている。誰かを責めている間は安心なのだ。
そうした人間の言葉は、「お前はひどい人間だ」という主張に集約される。自分は立場の弱い人間に正義という刃を振りかざしている”ひどい人間”であるという矛盾に陥っているとも気づかずに。
本当にあなたはやっていないのか
前述した例は、少し具体的な内容だ。私の言ういじめは、それらのようなはっきりとした事案だけではない。それは例えば日常会話の中に潜んでいる。例えば教える側、教えられる側に分かれた時。それだけで人間は弱い立場という甘い汁を見つけてしまう。
スタンフォード監獄実験という心理学実験がある。ランダムに集めた大学生を半分に分け、片方は看守役、片方は受刑者役に分ける。与えられたのは架空の役職でしかないのに、次第に看守役は看守らしく、受刑者役は受刑者役らしく振る舞うようになった。最終的には看守役は受刑者役に対し屈辱的な暴力を与えるようになり、実験は中止された。
その心理作用は先輩、後輩程度の役割でさえ生じると考える。教える側であるだけで偉くなった気がしていて、先輩であるだけで高尚な人間だと思っている。
もっと細かいところで言えば、例えば少し遅刻をした人間に対して、道でつまずいた友達に対して、奇抜な格好や発想をしている人に対して、話の中で知らないことがあり、少しの無知を晒した人に対して。本当に小さな小さな立場の取り合いをしている。それが人間だと私は思う。
あなたは本当にいじめをしていないだろうか。ほんの僅かな、責めやすい人を責めていないだろうか。振りかざしやすい正義を振りかざしてはいないだろうか。
私は弱いものいじめが嫌いだ。だからそういった小さないじめに人が気づかないことが不思議でしょうがない。少年ジャンプの主人公は、そんないじめをするのだろうか。みんな子供の頃は憧れていたくせに、自分がしていることには気づかない。
少年ジャンプの主人公は、YouTubeのコメントに悪口を書くだろうか? 店員に悪態をつくだろうか? みんなが非難している人間を、一緒になって叩くだろうか?
私は、主人公でありたい。