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母の最後の晩餐は、なか卯のうな重でした。
最後の晩餐は何がいいか、ということを一度は考えたことがあるのではないでしょうか。みなさんは何がいいですか?
考えたことはあるけれど、実際に最後の晩餐がなんだったかを知る機会はあまりないでしょう。
今日は、亡くなった母の誕生日です。だから少しだけ、その話をしようと思います。
入院前夜
ある日仕事をしていると、姉からラインが届いていました。私の職場の連絡先がわからなかったためラインをしてきていたのです。その内容は「お母さんが倒れた」から始まる内容でした。
私はすぐに上司に話、早退させてもらうことになりました。すでに病院に行っていた母でしたが、そこでは原因がわからず、一度帰宅するよう言われた後でした。翌日、再度検査することが必要だとのこと。
その時点では私もさほど重く受け止めてはいませんでした。確かに腹痛を強く訴えてはいるものの、元々よく喋る元気な人だったため、相変わらずよく喋っていたからでしょう。腹痛も波があるらしく、痛く無い時もあるようでした。
翌日病院に行く都合上、ひとり暮らしの私の家に泊まることになりました。私のとっ散らかった狭いワンルームに人を泊めること自体は抵抗があったものの、もちろん心配ではあったため、仕方なさと心配を半分半分な気持ちでした。かろうじて食欲はありそうだったため、私も母も好きなウナギを食べさせてやろうと思い立ちました。なか卯のうな重は安さの割に美味かったし、それを知って欲しかった気持ちもありました。
うな重を買ってきてやり、食べさせると、「美味しい!」と喜んでいました。思えば、小さい頃から料理を山ほど作ってもらった割に、何かを食べさせてあげた機会などなかったように思います。だから自分が食べさせたもので喜んでいる母を見て、なんだか妙な感覚を覚えていました。
しかしそのうな重も半分ほど食べたところで食欲がなくなってしまったらしく、残していました。私も、また後で残りを食べられるしラッキーだな、ぐらいに考えていました。お互い、まさかこれがまともに食べられる最後の食事になるとは微塵も考えていなかったのです。
水しか飲めない
翌日病院に行くと、そのまま入院となりました。
腹痛の原因は胆石というものでした。とても死に至るようなものではありません。当初は、内視鏡のようなもので取り除けるという話でした。すぐにその手術に取りかかるという話になり、私たち三人きょうだいは安堵していましたが、母はとても不安がっていて、怖がっていました。いつもの母の心配性が出たと当時は思っていましたが、今思えば、自分の死期に気づいていたかのようです。
手術は終わり、出てきた母と顔を合わせるも、やはり不安そうであり、痛みもあまり変わっていないと訴える母。術後の痛みだろうと思いつつも、手術さえすれば良くなるのだろうと安直に考えていた私にも、暗雲が立ち込めるような、嫌な予感が立ち込めるようになりました。
実際、手術時にその胆石は発見には至らず、そればかりか、麻酔が思うように効かず、術中に母が暴れるようなことがあったという。その結果、内臓を傷つける事態になったようだ。
ここからの記憶は、霞がかかったように曖昧になっています。忘れるという機能は自分を守るために働くものだと言いますが、私の場合も例に漏れないのでしょう。
3ヶ月近い入院生活の間、水しか飲めずにいました。点滴によって栄養は入れられていると聞かされていましたが、人工的は栄養と、自分で咀嚼して取り込む栄養とでは全く別のものです。それ以上に、永遠に続くような空腹に耐え続けなければなりません。1日、2日の断食を想像してもらえばわかると思いますが、それを数ヶ月です。
全身が骨と皮だけのように細くなるのは想像に難くないでしょう。晩年は水さえ飲めなくなっていました。飲み込むという行為自体、簡単に筋肉が衰えるものなのです。しかし喉の渇きはあるため、唇を濡らしてやる程度のことしか出来ませんでした。
あれだけ喋る人が、ついには声も出なくなりました。最後に何を話したのかさえ覚えていません。私が仕事の自慢話をした時に、かすれた消え入る声で「すごーい」と言ったのが、私の記憶にある最後の言葉だったように思います。
そして入院中、母がずっと悔いていたのは、「あのうな重、全部食べればよかった」ということでした。
最後に
詳しく書きすぎると辛くなるので、だいぶ端折りましたが、いかがでしたでしょうか。私の、そしてあなたの最後の晩餐は何になるのでしょうね。