詩を書くことは恥ずかしいことじゃない
ネットの普及によって、人の心は変化したように感じる。それは、思い込みづらくなったというものだ。
例えば、心霊現象とはなんなのだろうか。全く心霊を信じていない私にとってみれば、思い込みの産物に過ぎない。ネットの普及は、本来影響を与えるはずのないこの心霊現象にすら、皮肉なことに影響を与えているように感じる。
つまり、あらゆるものがはっきりするようになったということだ。古い映像、画質の粗い映像だからこそ、不可思議な現象が映り込んだり、もしくはそう思い込める余地があった。想像してみてほしい。現代の4Kで撮られた細部まで美麗な映像に、心霊的な何かが映り込む余地はあるだろうか。感覚的にも、美麗な映像よりも古い監視カメラレベルの画質の悪い映像の方が怖さを感じるだろう。
心霊を例にとって言いたいのは、そういった思い込みの余地の喪失が、ネットや科学技術の発達によって生まれているということである。これは心霊に限らず、宗教にも影響を与えているだろう。本来であれば、狭い世界の中で、教祖の存在しか知らず、宗教しか救いが無い人間が、それを信仰することで自分を救うことができた。
しかし、ネットの発達により、自分の周り以外の世界を簡単に覗き込むことが、あるいは踏み入ることができる。「信じるものは救われる!」と思っていた者は、情報の海の中で救われない例を幾度となく耳にし、もしくは救われないという科学的、論理的根拠を目の当たりにすることによって幻想は打ち砕かれていく。
それは「となりのトトロ」に近いものがある。私のトトロの解釈は、幼い頃に観た現象が、”知らない”という空白に生みだす不思議な生き物になるという話だと考えている。例えば暗い所からいきなり明るい所に目が映ると、目がチカチカする。このチカチカこそがまっくろくろすけだ。幼い頃はそれが何かしらの生理的現象であることを知らないから、それをまっくろくろすけという生き物だと感じることができた。ただの吹き行く風が、猫バスに思えるのかもしれない。そうやって、”知らない”という空白を穴埋めするように、人は思い込んできた。そして大人になればトトロが見えないように、人は知りすぎて想像の余地をなくしていく。
詩はどうだろうか。ネットの普及によって、むしろ表現の場は多くなったと言えるだろう。しかし同時に、「詩とか書いてるww」「ポエマーじゃんww」のような嘲笑も目にするようになってしまった。本来であれば、詩人は自分の世界に没頭できるはずなのに、外から聞こえるわびもさびも無い連中の声が聞こえてきてしまうようになった。実に悲しいことだ。
詩は、表現だ。歌も表現であり、文章も表現になる。表現という活動に、恥ずかしいもクソも無いはずだ。なぜならそれは自分という人間を知ってもらうための活動であり、それは話をするのと同等のコミュニケーションだからだ。
伝えたいことがあって、それを言葉にするのが話。
伝えたいことがあって、それを言葉にするのが詩。
自分の想いを知って欲しくてするのが話。
自分の想いを知って欲しくて書くのが詩。
なんら違いは無い。話ではなく詩を選ぶ人は、少し他の人より創造性が高く、ロマンチストなだけだ。
詩を書く人を馬鹿にする人間など、所詮創造性が低く、自分のわからないものを否定することで安心したいつまらない人間に過ぎない。気にしないでいこう。
私はnoteを日記感覚で書いており、noteというコンテンツの事情をよく知らないが、詩を書いている人が存外多くて嬉しく思った。
ネットの普及によって、”知らない”という空白を埋める余地が少なくなった。だからその余地を埋める想像力も減り続けている。その中で、想像力を絶やそうとせず、表現を続ける全ての詩人に感謝と、応援を捧げる。