部活④
タスキが回ってくるのを待ちながら僕はブラックコーヒーを飲み干す。もちろん、こんなので痛みが消えることがないことは分かっている。気休めだ。
スタートの号砲はだいぶ前に鳴り響いていた。タスキが順調に繋がっていれば、あと少しで僕に回ってくる。トイレに行きたくなる。くそったれブラックコーヒーのせいである。だが簡易トイレは長蛇の列。仕方がないので、草むらで用を足す。そして、僕の高校の名前が呼ばれた。「洗ってない手で受け取って神聖なタスキが汚れないだろうか?」と、余計なことが気になって仕方がない。
僕は8キロを走ることになっていた。普段ならどうということもない距離だが、手負いの今の状況ではとてつもなく長い距離のように感じる。途中で棄権することなく今の僕に走り切れるだろうか? 気分は大西洋を無着陸で飛んだリンドバーグの心境である。
遠くにチームメイトの姿が見えてくる。僕は手を振った。彼も手を振り返した。まるで下校登中の小学生のようじゃないか。このまま、お互い手を振りあって「じゃあね、また明日!」と、お別れできたらどんなに良いだろう。だが、奴はどんどん近づいてくる。僕は、大会に出ると腹をくくってから何度も繰り返し唱えていた言葉を口にする。陳腐な言葉だがブラックコーヒーと同じように気休めにはなる。僕は自分に言い聞かせた。
「なんとかなる」
悪い事態は幾つも想像した。最悪のものでも、(頭の中では)なんとかなった。まあ、残りの高校生活は、かなり肩身の狭いものになるだろうが、どうせ当初のギター部で女子とイチャイチャという目論見からは何億光年も離れているので別に構わないじゃないか。だいたい、なんで僕はこんなところで陸上部の一員としてタスキを貰おうとしてるんだ? 考えたって分からない。分かっていることは僕はいま駅伝大会に参加し、痛みを堪えて一世一代の勝負に出ようとしているということだけである。心の中で吠える。
「一発かましてやろうじゃねえか!」
そして、タスキは渡り、僕は走り出した。これまでの走者の汗が染み込んで冷たくなっている襷を肩から掛ける。脚の痛みのことは考えない。もっと他のことを考える。
「アンパンマンの服の下はどうなっているのだろう?」
「学校の小・中・高って微妙に単位が合ってないよな」
「雨が降りそうだな」
気づけば痛みは消えていた。もしかしたらブラックコーヒーが効いたのかもしれない。あるいは、僕を哀れんで神様が特別にこの時間だけ痛みを取り去ってくれたのかもしれない。なにが作用したのかは分からないが、この機会を逃すわけにはいかない。僕は痛みのことを忘れ、懸命に走った。
懸命に、懸命に、懸命に、、、。
そして、懸命に走りすぎた。中盤の折り返しを前に僕はへばってしまった。やばい。意思に反して顎は上がり、口は勝手に開いて酸素を補給しようとしている。沿道の声援は耳の奥で遠ざかり、不規則な自分の呼吸音だけが耳の奥に大きく聞こえる。狼狽。
「脚の痛みは?」
余計なことが気になった。気にしなければ良かった。その瞬間、かけられた魔法は解け、痛みの復讐が始まった。痛みがチリチリと脚を燃やし始める。導火線に火はつけられた。完走するまでに脚が爆発しないことを祈るしかない。
第1集団のはるか後方、可もなく不可もない高校の陸上部で構成された第2集団の真ん中あたりに僕はいた。できれば、このままの順位で、最低でも途中棄権することなくタスキだけは繋ぎたい。とにかく落ち着こう。気持ちだけでなんとかなるものではない。そして、ここから僕の「怪走」が始まる。
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