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正義の味方

子供の頃から傍観者である。「世の中」がスポーツの試合だとしたら、私は選手としてピッチに立つことはないし、ましてや審判として選手をジャッジすることもない。観客席の隅っこで試合の趨勢と観客たちの熱狂を黙って見ている役である。

おしなべて人からバカにされるし、軽んじられる。挙げ句の果てに「お前には自分がないのか?」などと言われる始末である。

まあ、そんなものあったって荷物になるだけなのでいらないのだけど、、、。

とはいえ、このような性向になったのには理由がある。小学校の算数の時間の話だ。掛け算の授業だったので3年生だろうか。教師が問う。

「2掛ける2は?」

みんなが一斉に手をあげる。「7掛ける8」は分からないが、「2掛ける2」は楽勝である。なんてったって指を使って計算出来る。女の子が指名される。彼女は育ちも良く頭も良かったので指を使う必要もなかっただろう。そこら辺に生えているゴボウのような姿と頭の我々とは違う。彼女は立ち上がり、堂々と答えを述べる。

「3です」

教室は静まり返る。ゴボウたちは目配せをして、「自分たちの方が間違っているのではないか」と動揺する。どうやら彼女の方が間違っていることが分かると、ゴボウたちは一斉に「違います!」と声を張り上げる。「違う!」「違うよ!」「不正解!」

「3です!」

ゴボウたちは一瞬怯むが、やはり攻撃を再開する。「4だよ!」「違うって言ってるじゃん!」

「3だよ!」

攻防は加熱してくる。さながら彼女は「3」という砦に籠城する高潔な貴族のようである。周りのゴボウ達は「正義は我にあり」といった風情で砦を包囲する。語気は強まり、何としても砦を陥落させようと息巻いている。もし、これがクラスで一番のバカが間違えたのだとしたら、多少のため息と共に歯牙にもかけられなかっただろう。ルサンチマンなんて言葉は当時は知らなかったが、つまりはそういうことだったのだと思う。

ゴボウたちの目の奥は変に輝いている。「正しさ」を手にした人間の豹変と恐ろしさを私が知ったのはこの時だ。勝つことが決まっている戦いだと分かると正義の名の下にクラスで一番のバカすら参戦する。「2掛ける2は4だよな! なあ、俺、正しいよな」砦の中からは断末魔の叫びが聞こえる。

「3!」

今なら何となく彼女が「3」に固執した理由は分かる気がするが、今更分かっても仕方がない。

私は教師を見る。その中年の女性教師は両手を教壇の上に載せて黙って様子を見ている。残念ながら砦の中にいる彼女の味方は誰もいない。

砦は陥落し、彼女は机に突っ伏して泣き始める。そこから揺り戻しが起き、彼女をなじった舌の根の乾かぬうちに皆が互いに責任をなすりつけあう。「2掛ける2=4」という正義の御旗は逆賊の象徴に変わり、かの砦に有効な攻撃を加えた者が吊し上げられる。私はその一部始終を黙って見ていた。嫌な子供である。それ以来、私の中では一つの視点が形作られた。

「全てのことは正しいと言えるし、全てのことは間違っているとも言える。安易に判断を下すのは控えた方が良い」

傍観者島田の爆誕である。

某小説のナニガシではないけど判断を保留することは確かに可能性を手に入れることなわけである。どちらかと言えば損なことしかないが、少なくとも人の話を聞いて各々の判断について考慮出来る可能性だけは豊富にある。

おかげさまでナニガシほどではないが変な人たちの話を聞き、傍観する機会には事欠かない。

話の顛末として、砦に立て籠った女の子は次の年に親の仕事の都合かなにかでいずこかに引っ越した。噂ではゴボウでは幾らジャンプしてもカカトにすら触れることの出来ない名門の学校を出て、弁護士になったとか。

まあ、めでたいのか、めでたくないのかの判断は傍観者として差し控えさせて頂くことにする。

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