物語る人
「出来るだけ大きな嘘を考えなさい」と私の先生は言った。その頃の私は正直者の少年だったが、嬉々としてたくさんの嘘を考えたものだ。一つの嘘を考えれば、次はもっと大きな嘘を作りたくなった。「嘘を大きく育てていくことが物語るということである」と先生は言った。
こうして私は嘘つきになった。
人々は物語ることが好きである。元を辿ればそれは原子人の自慢話くらいから始まったのだと思う。
「マンモス、見た!」
「マンモス、どうした?」
「マンモス、こっち来た」
「マンモス、強い」
「槍投げる、マンモス逃げた」
「お前、勇敢」
「トゥトゥトゥー(雄叫び)」
「祭り! 酒を用意しろ!」
このようにして人は物語り始める。物語る人は大なり小なり話に脚色を付ける。「人はチンケな現実より、華麗なる虚偽を愛する」ものなのである。本当はマンモスは大平原の彼方、豆粒ほどの大きさにしか見えなかったとしても、「マンモス、キバで俺のこと突いた」とか言ってしまう。
「これ、その時の傷」
「お前、勇者。お前、村一番の美女と結婚する!」
「トゥトゥトゥー(雄叫び)」
「祭り! 酒を用意しろ!」
この脚色だけが独立すると「話者」と「話」が切り離された「物語」となる。
「俺、考えた」
「お前、何考えた」
「さっきの話、お前、マンモス倒した」
「マンモス倒してない」
「倒したことにする」
「じゃあ、マンモス、どうした?」
「巨大なハゲタカがもっていった」
「ハゲタカ」
「ハゲタカ、俺たちの仲間。ハゲタカがマンモス倒す。つまり、お前マンモス倒した。マンモスここにない。マンモス、ハゲタカがもっていった」
「おお、そっちの方がいい」
「トゥトゥトゥー(雄叫び)」
「マンモスの話、うまい肴! 酒足りない!もっと酒持ってくる!」
などと、どんどん「物語」は膨らんでいく。物語ることにはいつだって快感がつきまとう。人々は快感に突き動かされ、話にどんどん尾鰭を付けていく。それは語り、語られていくうちに「物語」から「伝承」になる。
「遠江に大なる四つ足あり。かのケモノおほきなること山にもにて、夥しき毛なみ木叢の如くうち生え、あしおと出雲のくにまで聞こえけり。ケモノ荒ぶれば、家の棟ふるへ、子らはなき、いぶき三界をわたり疫癘をもたらす。つはものども兵仗にていどみたれど、未だもどりたるものなし」
ここまで来れば、それが遠くにマンモスをちょっと見た話だとは誰も思わないだろう。「伝承」は我々のうちに特定の形を作り、様々なものに影響を与える。
「なんかスカッとする映画を撮りたいな」
「巨大な獣が街を破壊するってどう?」
「いいじゃない」
「東京タワーへしおって、国会を踏み潰す」
「最高」
「逃げ惑う人々、泣く子ども、獣の息には毒が混じってる」
「お前、天才か?」
「その毒を吸うと鼻水が止まらなくなる」
「うーん、、、」
「ダメ?」
「むしろ息じゃなくて、口から火を吐くってどう?」
「トゥトゥトゥー!」
「、、、なに、急に?」
「いや、なんか叫びたくなって、、、」
「破壊しつくされる東京。人類は滅んでしまうのか?」
「なす術ねえな」
「そこに立ち向かう一人の男。なんと武器は槍一本!」
「勝ち目ねえな」
「まあ、東京タワーへしおって、口から火を吐くからね」
「槍かあ。マンモス狩ってるんじゃないんだから」
「むしろ、もう1匹の獣と戦わせたら?」
「、、、」
「どうした?」
「アイデアが降ってきた。もう1匹は空を飛んでることにしよう」
「トゥトゥトゥー!」
「だから、さっきから何なんだよそれ」
「勝手に口から出るんだよ」
「ハゲタカとか?」
「うーん、ビジュアル地味じゃない?」
「とりあえず酒だ。飲みながらイメージを固めよう」
このようにしてかの映画は誕生した。
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