スーサイドスクワッド 君はこの映画に何を見た!? 最強甘々コンテンツ帝国への叛逆
たった2つのギャグだけで
冒頭、刑務所での爆弾を埋め込むシークエンスそして上陸作戦へと向かう彼らの姿が描かれる。そして映画の鑑賞者である我々と同様に誰が死ぬのか予想を繰り広げるオペレーターの面々。まさしく俺ちゃんじゃない方のデットプールだ。(誰が死ぬかをギャンブルとして賭けるもの)すでにこういう楽しみ方(一体誰が死んで誰が生き残るのかワクワクしながら観る)をする映画ですよと全く知らない人でもわかるように作っているまさしく親切設計だ。そしてその前振りが突如発揮される。もはやDC映画の伝説となるのではないかとも思える上陸シーンでのキャラクターの無駄遣いもとい死にまくりシーンは「プライベートライアン」冒頭のノルマンディ上陸作戦の惨状を思い出させる強烈なカウンターパンチだ。
まさかここで、半分近いキャラが死ぬと誰が予想できたろうか。それと同時にこの映画の楽しみ方を提示する。マイケルルーカー演じるサバントもこのシーンで死んでいる。ファーストカットは彼がボールを投げるシーンから始まり重要なキャラであることが想像される。ガン監督の傑作「ガーディアンズオブギャラクシー」ではヨンドゥを演じ、原作ではバーバラ・ゴードン(バットガールとして活躍するゴードン警部の娘 その後ジョーカーに半身不随の重症を負わされるがバットマンのサポートを行うオラクルとして再登場する)の仲間となるという本作に登場するキャラの中ではバックボーンが比較的描かれているだけに本当にフリとオチが効いている。冒頭のシーンの重要性はこれにとどまらない。前作スーサイドスクワッドの問題点はこの部隊が出動する意味があまりにも少ないことだ。
前作スーサイドスクワッドの問題点はこの部隊が出動する意味があまりにも少ないことだ。スーパーマンが死んでしまった事で脅威に対抗するため悪人チームを結成されるしかし同時にネイビーシールズ部隊が同行し、雑魚敵の強さもハーレイのバットで倒せるほど軟弱である。敵の恐ろしさに普通の人間では恐怖が倍増し発狂してしまうが犯罪者集団なら大丈夫と言ったロジックも別に存在しない。また、中盤この作戦の目的が敵の暴走を招き閉じ込められたスーサイドの責任者アマンダウォラーその人の救出であった事も疑問だ。悪であるハーレイたち犯罪者よりも邪悪な存在としてウォラーを演出するはずが、悪党に前述の元凶が自身であることを知られる方がはるかに危険なはずだ。普通にネイビーシールズに救出させた方がはるかに安全な上、厄介な情報を悪党どもに知られるリスクもある。見せ場のシーンのはずが大きなノイズになっている。きわめつけはヴィランであるエンチャントレスの強さバランスだ。彼女の強化された強さは、ワンダーウーマンが対処するレベルの敵になってしまっている。
しかしスーサイドが勝つロジックが曖昧なまま勝利してしまうためカタルシスも生まれない。いわゆる雨のシーンだ。しかし今作では冒頭からすでにウィーゼルの「泳げないって調べてなかったのか」というウォラーのマジギレが入る。そして後半に「ネズミ嫌いって調べとけよ」と天丼ギャグと同時にこの組織大丈夫かとガタガタな組織であることが想像させる。そのため政府としてもおそらく重要な作戦にも関わらずポンコツ軍団を向かわせる事に特に違和感なく鑑賞を終えることができる。政府本当に予算なくてこいつら使わざるを得ない事すら想像させるのだ。たった2つのギャグだけでである。
アンチディズニーとそのイメージ
今作はジェームズガン監督がディズニーを追い出されその期間に制作された。その結果、「グロさ」や「エグさ」においてディズニーでは絶対にできない作品となっていることは間違いないだろう。同時にディズニー要素を若干内包していることもこの映画を語る上ではもはや広く知られるようになっている。例えばハーレイクインの脱出シークエンスの映像だ。ハーレイは今作の冒頭は原作お馴染みの赤と黒の衣装から中盤以降は真っ赤なドレスに変わる。
偶然にも赤いドレスのキャラがディズニープリンセス的なものを表現する存在として同時期に登場しているのも非常に興味深い(りゅうとそばかすの姫)
スーサイドスクワッドでのハーレイは銃を撃ちまくりその最中に花が乱れ咲き鳥達が舞う。そう異常者である彼女の目にはそう見えているのである。いやでもディズニー最初の長編アニメである白雪姫などを連想させると同時にガン監督にとって「これが俺にとってのディズニープリンセスじゃい」と言わんばかりの演出だ。
失敗シーンの華麗なる復活
前作スーサイドスクワッドで失敗したシーンや不発に終わったシーンを敵討ちと言わんばかりに再利用している。若干ギャグにしているシーンは雨のシーンだろう。そして飲酒シーン。前作では、悪党が酒を飲むシーンで悪党たちのまさかの愚痴合戦が展開された。悪党ならもう少し堂々としていて欲しいわけだが、皆一様に今の仕事が面倒だの本当は家族と幸せに暮らしたかっただのとしょぼくれている。
対し今作ではアホ飲み会シーンや酔った勢いでパルプフィクションのユマサーマンの様な謎ダンスシーンが入るなどいい感じだ(ここだけ完全に語彙力が死んでいる事をお詫びしたい)しかし同時に次のシーンでは、任務開始の合図で、全員仕事モードになるというプロフェッショナル集団である事をしっかりと分からせるという緩急のついたシーンとして機能しているのだ。
そして前作では、悪(Bad)対邪悪(Evil)の対立を前作では描こうとしてうまくいかなかった。前作でも今作でもEvilに該当するのはアマンダウォラーに代表される政府側の人間だ。「単純悪であるスーサイド側より政府側の方がより凶悪である」ここを意識して映画を作ったことを監督デヴィットエアーは語っているが、レンチャントレスという別の軸が同時に存在しわかりにくくなってしまった。
今作ではEvilを世界の平和(バランス)を保つため小国を犠牲にするという国家や政府の歪みとして描いている。そしてこれに完全に同意したのが最悪なことにピースメーカーだったのだ。彼は、自身が平和を成すためならば誰であろうと躊躇なく殺す。ビジランティに近いキャラとして初登場した彼は容赦なくハイジャック犯を即射殺している。彼の倫理観での平和を実行するためならあらゆる障害を排除しようとする。そんな彼の平和と政府の考える平和が合致すれば彼の行動は全く自然なことだ。同時にそれに叛旗を翻す悪党軍団に当然感情移入せざるを得ない。
あのキャラクターが象徴するものたち
さて最後スターロを撃退するには、ラッドキャッチャーに導かれてきた大量のネズミたちです。初代ラッドキャッチャーが娘クレオと高所でなぜネズミなのか語るシーンがある。彼は娘にネズミは嫌われ者で僕らと同じだからと語るシーンがあります。そして同時に世間では嫌われ者 軽蔑の対象 追放者であるネズミと変わらない境遇であるスーサイドスクワットの面々のイメージを一身に背負った存在でもあります。そんな彼らが、正義のために奮闘し勝利を収める瞬間に当然カタルシスが生まれる。お前ら最高だぜと叫びたくなります。
他方このイメージはディズニーではできない映画としての「スーサイドスクワッド」とあるディズニー映画を結びつけます。そうメリーポピンズの煙突掃除の男達です。
メリーポピンズはディズニーが1964年に公開されたミュージカル映画だ。舞台は1910年のロンドン。バンクス家は大黒柱ジョージは銀行勤めの父と女性参政権運動に夢中で子供は家政婦に任せきりな母ウィ二と2人の子供。2人の世話は教育係りでもある家政婦に任せきりでしたがいたずら好きで辞めてしまいます。そこに魔女である空の彼方から傘をさしてやって来て彼らの生活は激変します。
メリーポピンズと本作を結びつけるのは決して、ガン監督の「ガーディアンズオブギャラクシー」にメリーポピンズのセリフが登場したという訳ではありません。私もこのくだりは非常に好きで、メリーポピンズの予告にヨンドゥがメリー役で登場する海外の動画も好きですが…
この作品に登場するバートはメリーポピンズと旧知の仲で大道芸人だが日によって煙突掃除を仕事についている。彼と同じ煙突掃除の男達は顔が煤で真っ黒だが明るく気の良い人たちであり彼らのダンスシーンは圧巻なので是非見てもらいたい。バートを演じたディック・ヴァン・ダイクは今作で初めてダンスのトレーニングを受けた言わば初心者は訳だがそのキレキレぶりは群を抜いている。
彼女を雇った厳格な父バンクス氏は、「男は皆偉大な人物になりたいものだ」と語り子供たちに紳士になってもらうべく厳しい教育を施します。バートたち煙突掃除の人々はまさにその対極にいる存在である。彼らが出てきた途端、迷惑がられ外に追いやられる。そんなもの達が何かをなそうとする姿に我々は感情移入せずにはいられない。そしてラッドキャッチャーは唯一の特技である自分の装備や知識を娘に継承させますがこれも実はメリーポピンズにつながるのです。
メリーポピンズはウォルトディズニーの肝入りの作品だったのです。それも娘の大好きだったメリーポピンズを映画しか与えてやれない自分からの最高のプレゼントだったのです。
そしてガン監督の思いもまたこのネズミにシンクロしているように思う。ディズニーの代表キャラであり顔でもある「あのネズミ」のように自身は美しくないかもしれない。むしろ彼女の操るドブネズミのように這い上がってきた彼はトロマ映画出身であり、〜の弟子といった輝かしい肩書きもない。しかし、映画が好きだし作りたいんだという彼の魂の叫びをあのネズミたちに託します。
さて、ウォルトディズニーはお金よりも大切な娘との約束を果たしメリーポピンズを公開しました。しかし続編「メリーポピンズリターンズ」で発しているメッセージは1作目に反しています。 1作目では「2ペンスで銀行口座を開設しろや」と父や銀行マンは詰め寄ります。しかし2ペンスで鳩に餌をあげたいと「お金よりも大切なことがあるよ」ということを伝え、同時に父は家族との時間を大切にする道を選び銀行を金儲け主義の悪として描きました。しかし2作目では、例の2ペンスが資産運用で大金となり困窮した家族の危機を救い銀行が彼らを救ったヒーローとして描かれます。結局最後は金かと前作で感動を歪められた気持ちとなったのを忘れません。同時にこの金儲け主義は今のディズニーの体制に当てはまるとは思いませんか。映画館を裏切り配信のみに切り替えた「実写版ムーラン」や当初の契約を無視した「ブラックウィドウ」の劇場公開と同時に有料配信など多くの批判を集めています。こうした姿勢を知ってか知らずか「フリーガイ」ではこの体制を痛烈に批判するキャラクターが登場します。他人のゲームを金でGETし安易にヒットした作品の続編を乱発、そして基本金のことしか考えていない拝金主義者。彼の名はアント・ワン。そして演じているのは、そうお気づきの方もいるだろう「タイカ・ワイティティ」である。ディズニーの全盛期そして今の状況を同じ俳優が演じているのは非常に興味深いことだ。こういったコンテンツを掌握しつつあるディズニーへの批判精神が消えないことこそが、コンテンツの全ディズニー的無害化に抵抗する術なのではないだろうか。それとも批判するコンテンツを全て吸収し駆逐し恐怖の帝国を築き上げるのが先か。