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あいち2022が終わる日まだ見ぬ世界を思う

今日、「あいち2022」が終わりの時を迎える
この名称にピンとこない人でもかつての名称である「あいちトリエンナーレ」
と言われればああ件の…となるのではないだろうか。
なんだかんだありこの名称となった。さて、今回この芸術祭には何度も足を運びほぼ全ての作品を鑑賞するに至ったわけだがその原動力はなんなのだろう。自身のよく知る著述家が紹介していたからか。もちろんそれも一部あるのだが結論から言おう。作品を鑑賞不能の状態にされた経験と3年間で醸成された静かなる怒り
私は幸運にもここで展示された作品を部分的に拝見する機会に恵まれた。「表現の不自由展その後」にて遠近を抱えてと少女像 そして豊田市で開催された百鬼夜行展のホーツーニェン旅館アポリア。端的にいってこの3作品に炎上するほどの問題があると私個人は思わなかった。

旅館アポリアが内部で展示している喜楽亭
不自由展その後の初日に起こった反対運動

だが、それを確認する術はもうない。あの場でどのような展示を行っていたか実際に見なければ上記の懸念は確認のしようもない。
私は芸術などズブの素人どころか現代アートの知識など完全なる無である。しかし現代アートに触れるきっかけとなったかもしれない。3年前その機会を奪われた。そして、河村市長と大村愛知県知事の対立の燃料を撒き散らしそして去っていった。それが、リアルな地元民の肌感覚だ。政治闘争の爆心地となった市民は除け者で部外者だった。
沸々と怒りは募った。そしてこの地でなにが起きているのか知りたくなった。 私は仕事の忙しさもありじきに事態は収拾されまた時間がある時に行けば良いとたかを括っていくのを躊躇った。同時にその考えの中には右翼に何かされるかもしれないという物理的な身体に関わる恐怖が片隅にあったことを徐々に思い出してきた。それは表現の不自由展その後でも感じていた。手荷物検査は行われたが、この場で焼身自殺でもされようものなら誰も止められない。自分の隣で作品を鑑賞している彼はどう言った思想の持ち主だろうか 突然襲いかかってきたりしないだろうか 外で少女像に怒りを燃やし街頭演説していたあの男はどこの組織に属しているのかか危険な人物なのだろうか その体験をトータルで芸術と仮に呼ぶのだとすればそれでもいいと思った。しかし見る人間をあまりに限定してしまう。運営はそれで満足なのだろうか。期間中での開催中止。それにSNSで怒りを燃やす人々。全方位的に静かなる怒りの炎がゆらめく。
そして3年を経て行われたあいち2022を文字通り気が済むまで楽しんだ。その原動力は上記につらつらと書いたくだらない愛知県民の戯言の通りである。
本展示では各会場での伝統的な産業(常滑であれば焼物 一宮であれば紡織)にヒューチャーした展示を柱とした。これには自分自身多くの驚きと発見があった。そしてそれらが戦争に利用された歴史を知ることが感慨深かった(陶器製の手榴弾と風船爆弾の布)

コロナで、現地で作品を見るという行為自体がリスクとなる中で現地に行くことの意味を痛感させられた。それはこのコロナ禍が続く中で作品を見にきてくれた知人らを見ていて思い知らされた。世界には様々な驚きと発見がある。たとえインディジョーンズに出てくる秘境が世界から消滅したとしてもステイホームでは味わえない、SNSを見ているだけでは感じ取れない世界の大きさを知ることができる。僕らはまた出かけよう 愛しいこのクソッタレな世界を

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