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ASOBIJOSの珍道中㉑:もっと愚かに…。

 モントリオールの滞在も残すところあと2週間ほどに迫った、昨年の8月半ば。アルバイト先のフレンチレストラン『La petite plantation』へ向かおうと洗面をしていたお昼頃のことでした。
 ”ォオー!ォオー!ォオー!”っと、私のスマホもMARCOさんもスマホも、建物中に暮らす人たちのスマホも一斉に異音を立てて鳴り響きました。
 ”ハリケーンの影響による大雨だって。今すぐ建物の中に避難してくださいって出てるよ”
 とMARCOさん。窓の向こうは文字通り風呂釜をひっくり返したような大雨で、歩いている人も、強風に傘をへし折られてずぶ濡れになっているような有様でした。
 ”行かんでいいかなぁ…。仕事…。”
 と、こぼす私でしたが、内心もう給仕補佐の仕事にどこかうんざりとしていたのでした。キッチンとダイニングフロアの階段の上り下りで膝や脛(すね)にかなりの痛みを抱えていましたし、昼夜の逆転から疲労も上手く抜けず、ひどい日は夜中に何度もこむらがえりを起こして、激痛に叫び声を上げるほどでした。ひいひい言いながらストレッチをして、再び眠りについても、また夢の中では食器を運び、トイレの点検をしているのでした。そのせいで、齢(よわい)も30を過ぎたというのに、夢の中のトイレを信じきってしまい、ついオネショをして、MARCOさんに三日三晩、指をさされて笑い物にされるという苦痛まで味わったのでした…。
 
 とまぁ、へたれ愚痴をこぼしながらもカッパを着て仕事場に向かうのでした。さて、レストランに着いて着替えをしていると、朝から給仕補佐をしているコロンビアンヒゲリスが私を見つけて声を掛けてきました。
 ”イックウ、今日は大変だよ。この建物は排水がてんでダメだろう…。あっちこちで水浸しだよ。”
 さっそくランチ営業の片付け作業をしながら、モップで地下のダイニングホールの床を拭き、倉庫の床を拭き、真っ黒な汚水が滴るフロアマットを抱き抱えて運んで、裏庭で雨に打たれながらそれを絞りました。
 すると、また”ォオー!ォオー!ォオー!”と一斉にあちこちのスマホが異音を立て始め、同様の豪雨警報を鳴らすのでした。すると、一緒に作業をしていたコロンビアンヒゲリスが、両手を広げて、大雨の中にひざまずき、”オォー!!!”と叫んで両腕を震わせ、『ショーシャンクの空に』という映画の有名なシーンを真似てみせるのでした。
 ”マコンドでは4年と11ヶ月と2日間にわたって雨が降り続けたんだろう…”
 と私が言うと、
 ”イックウ、ガボ(ガルシア・マルケス)を知っているのかい!?”
 と飛び上がって目を煌めかせました。そして、たまたま私の鞄に入っていた『族長の秋』の文庫本を見せてやると、
 ”紙を右に90度傾けて文字を読む国があるなんて…”
 とまた信じられない様子を浮かべ、なぜかその日から彼は私のことを『パパ』と呼ぶようになったのでした。

 ”オイ、イックウ早く来い!”
 と給仕補佐のリーダーのスカンクに呼び出されて、駆けつけてみますと、今度は、キッチンの手洗い場の排水口から、茶色い濁流が噴き上がって、ブシューっと音を立てながら、見事なVの字を描いて、くるくると回転し、逆さ吊りにされたピカピカのグラスも、私たちが積み上げたキッチン中の皿も調理器具も何もかもも、見事なまでに薄茶色に染めてしまっているのでした。その光景に、しばし開いた口が塞がらず、もはや官能的なセピア色の映画のようで、時さえ止まってしまうのではないかという思いさえ抱いたほどでした。
 なんて呑気なことを言ってる場合じゃありません。それから給仕補佐の私とスカンクとコロンビアンヒゲリスは、大慌てでモップを床の濁流に浸してはバケツに絞り取り、それを今度はトイレへと流し、というのを繰り返すのでした。しかし、そうした作業に汗を拭いながら10分も過ぎたころ、また、プシャーっと見事に排水口から茶色い濁流が噴き上がりました。ヨイ!と叫びながら、私の手元にあった大きなカップで噴射口を塞ごうとしましたが、上手く被せ切れず、泥水とも、いや他の何とも決して想像はしたくない、得体のわからぬ茶色い液体を頭から被ったのでした。しかし、不思議なことに、”なんの、こんな歳でオネショをして嫁に笑われるのに比べれば…。”と、不屈の闘志が湧き起こるのでした。
 
 こうした断続的な茶色い噴水との戦いは、果てしない徒労のように続き、実に3時間半にも及ぶ排水作業の連続となりました。そして、その後は、茶色い汚水を一滴でも被った、キッチンのもの全てを洗浄機で洗って並べ直すという、途方もない作業が待ち構えていました。
 そうした作業に汗を流す私たち給仕補佐を、副給仕長の大熊は、”イックウ、本日のスープは茶色いんだな、どんな味だ?”とからかって行き、どこかから急遽店の様子を見に来たメキシカンライオンの支配人は、じっと腕組みをしながら私たちの仕事ぶりを眺めると、5分もせずに店を去っていき、閉店になって早退させられる給仕人たちたちは、雷の音にキャッキャッとはしゃぎながら帰っていくのでした。
 その中の給仕人のひとり、アカゲモモイロフラミンゴが、やれやれという呆れ顔をしながら私たちの作業を見つめていたので、給仕補佐のスカンクが、”Help!(手伝え)"と手招きしながら言うと、
 "No. But, I love you.(嫌よ、でもあなたのことが嫌いというわけじゃないの)"
 と言い残して髪を振りながら帰っていき、それを見たスカンクが本気で怒(いか)って毛を逆立たせながらこうこぼすのでした。
 ”あいつらのI love youは何の意味も成さないから嫌いなんだ…。”

 それから、コロンビアンヒゲリスは朝からのシフトだったので途中で――それこそ監獄から抜け出すようにガッツポーズをして――帰っていき、私とスカンクだけで5、6時間に及ぶ格闘の末、ようやく片が付いたのでした。そこにまた、暇そうに手を揉みながら、副給仕長の大熊が私たちのところに歩いてきました。
 ”掃除は全部終わったかい。”
 それにスカンクが、長いため息をついて額の汗を拭いながら、
 ”あぁ、ここが噴き上がっただけじゃなくて、あっちの製氷器の裏の排水管からも噴き上がり出した時は本当に参ったよ…。”
 と、誇らしげに苦笑いを浮かべると、大熊は、揉んでいた両手をポンと叩いて、”I see (なるほど)”と言うと、製氷器の扉をガラガラっと開け、スコップで氷をかき回しながら、私たちの方を向くと、聖母のような優しい微笑みを浮かべました。
 ”この氷も全部出して、製氷器も洗わなくちゃ、ね。”
 汚水やら汗やらで髪もビショ濡れの私とスカンクは、言葉を失って見つめ合ったのでした…。

 それから夜も更けて、いよいよ帰れるかと言う時に、オーナーのナーバリ夫妻が20代前半くらいの娘を連れて現場に現れました。ピシっと背筋を伸ばして挨拶をした私とスカンクは、質問されるがままに状況を細かく伝え、時にはスマホで撮影したV字噴水の様子を見せながら、製氷器の裏の排水管まで噴射したこと、そして製氷器の氷も全て掻き出して中も掃除したことを伝えました。
 すると、ナーバリ夫妻は、
 ”どうもありがとう。本当に君たちの仕事に感謝するよ”
 と声を揃えました。それで胸を下ろして帰ろうとすると、オーナーのナーバリ氏が、私たちを呼び止めて、手招きをしました。私たちが歩いてナーバリ氏の前に戻ると、ポロシャツの胸のポケットにしまっていた太い葉巻の吸いさしを取り出して、口に咥えました。横にいたナーバリ婦人は、明らかに苛立った表情を浮かべて、
 ”やめて、娘の前でそんなことをしないで、お願い。”
 と言い出しました。
 ”なにを、ただ当然のことだろう”
 と、言い返すナーバリ氏もいつもは決して見せない、強く睨みつけるような目をしました。そして、咥えた葉巻をモゴモゴとしながら、ポケットから茶色い折り畳み財布を取り出すと、お札を何枚か引っ張り出して、1枚、2枚と、異様にゆっくりと数え出すと、私とスカンクに80ドル(約8000円)ずつを手渡したのでした。
 ”こんなものしかなくてごめんね。迷惑をかけたね。”
 この時、初めてナーバリ氏の葉巻を咥えた姿を見、睨みつけるように婦人を見る目を見、私たちに20ドル札を4枚ずつ、嫌らしいほどゆっくりと数えて手渡す姿を見て、私は深々と頭を下げながら、ようやく、悟ったのでした。この人は、いつもポロシャツとスニーカーで、今日もまさにどこにでもいそうな格好をして、当たり前のように、私たちと同じ人間のような顔をしながら毎日同じまかないを食べてはいるが、いつもまるっきり別の空気を吸いながら生きている人間なのだ、と。そして私は、このへどろと汗をたった80ドルと、何の意味も持たない労(ねぎら)いの言葉で拭われた気になっている、愚かで幸福な雇われ人なのだ、と…。

 実はその翌週も、大勢の客が食事をしている最中に、今度はダイニングホールのすぐ脇のトイレが突然、逆流して噴き上がり、茶色い濁流が床にあふれ出すという事態に見舞われました。慌ててダイニングテーブルの方まで流れていかないように、私は店じゅうのタオルやテーブルクロスでダムを作って、汚水を地下に流すという作業に追われました。
 信じ難いことに、その間もしばらく、ほんの1メートル離れた客席では優雅にロブスターをつつき、香りの素晴らしいキャロットケーキやチョコレートのガレットが味わわれ続けていたのです。その脇で、私はチョコレートムースのようなものを水掻きで地下に押し込み、天国の従業員にでもなれたかのような気持ちで、なぜか笑いが止まらずに、やはり、愚かでいたい、もっと愚かでありたいと、と願い続けているのでした…。

 
 

 


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